石川 淳 いしかわ・じゅん(1899—1987)


 

本名=石川 淳(いしかわ・じゅん)
明治32年3月7日—昭和62年12月29日 
享年88歳 
東京都八王子市上川町1520 上川霊園2区5番217号
 



小説家・評論家。東京府生。東京外国語学校(現・東京外国語大学)卒。『普賢』で昭和11年度芥川賞受賞。次いで『マルスの歌』『雪の果て』などの短篇や評論『森鴎外』などで注目された。戦後『焼跡のイエス』『処女懐胎』を発表、〈無頼派〉と呼ばれた。ほかに『紫苑物語』『至福千年』『狂風記』などがある。






 

 ここでわたしの舌がまだうごいているついでにずばりといってしまえば、じつはわたしはときどき深夜の寝床を蹴って立ち上り、突然「死のう」とさけぶことがあり、それを聞きつけた文蔵に「まだ死なないのか。」とひやかされる始末であるが、わたしがまだ死なないでいる秘密はおそらくこのさけびに潜んでいるらしく、「死のう」ということばの活力が一刹那にわたしの息を吹きかえさせるのであろうか、げんにわたしが黙黙と死について考えているあいだは眼前の闇は暗澹として涯なく、「死のう」とさけんだとたん、たちまち天に花ふり地に薫立ち、白象の背ゆたかにゆらぎ出ずる衆彩荘厳の菩薩のかんばせ……このとき、普賢とはわたしにとってことばである。
                                
(普 賢)

 


 

 斎号を夷斎という。江戸文人の系譜に連なる夷斎石川淳。和漢洋をよく解した。坂口安吾、織田作之助、太宰治、壇一雄等とともに「無頼派の作家」と呼ばれ、ともに精神を共有し合った盟友たちはすでに遠くへ去っていった。
 坂口は〈人間は墜ちる。そのこと以外の中に人間を救う便利な近道はない〉と人間を突き放して書いたが、石川淳は「此世というやつは顛倒させることなしには報土と化さない」といみじくも示すのだった。彼のペン先はすべての主題に対して、いつまでも圧倒的な戦慄をともなってあった。
 昭和62年も押し迫った暮れの29日早朝、東京新宿の社会保険中央総合病院の一室には、肺がんによる呼吸不全で逝った最後の文人の安らかな寝顔があった。



 

 アザミ、黒い蝶、蜘蛛の糸、金木犀の匂い、塋域の空間に組み込まれ、熱い光が包囲する静止した風景。眼下に広がる墓石群から陽炎がたち、奥多摩山稜が濃淡に分かれ、幾重にも連なって見える。
 「石川」とのみ刻まれた石碑の前に佇んで私は妄想した。バス停から息衝きながらのぼりついたこの距離に平穏や、悔恨、真実や侮蔑が面白いほど雑多に渦巻き、転がっていたのではないか。しばし、荷風散人に投げつけた峻烈な追悼文までも思い浮かべてみたが、何ひとつ変わるものがなかった。吹く風も、草花の色や匂いも、小鳥のさえずりも、ただ天空の雲だけがゆるやかに形を変えながら流れていく。——ふと、うつむいて自分の影を踏んだとき、私がいるこの場所には、すでに秋が到来していた。

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

編集後記


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