本名=石塚友次(いしづか・ともじ)
明治39年9月20日—昭和61年2月8日
享年79歳
神奈川県鎌倉市十二所512 鎌倉霊園31区6側59番
俳人・小説家。新潟県生。笹岡尋常高等小学校高等科(現・阿賀野市立笹岡小学校)卒。大正13年上京。横光利一に師事。昭和17年『松風』が芥川賞候補となり、翌年池谷信三郎賞を受賞。俳句は職場句会から入り、水原秋櫻子や石田波郷の知遇を得て、波郷没後は俳誌『鶴』を主宰。句集『方寸虚実』のほか『百萬』『磯風』『光塵』『曠日』などがある。
岐れ路や虚実かたみに冬帽子
金餓鬼となりしか蚊帳につぶやける
たかむなの疾迅わが背越す日なり
高台に集る音や秋の墓
盆唄や今生も一と踊りにて
約束の死までの道や蓼咲く日
今生の今日の花とぞ仰ぐなる
野分いま渡りつつあり胸の上
遠き寒林一眼はきと写しをり
段丘の断崖のその冬の竹
絶対的に師事し、〈私の神であった〉ともいう横山利一が亡くなったのは昭和22年12月30日、水原秋櫻子を軸として出会い、献身し、共に歩み、〈流星さながらの終焉〉と悼んだ石田波郷の死は44年11月21日であった。この二人の傍らに居ながら〈俳人としても作家としても大成しなかった〉と評価される向きもあるのだが、その交友があったればこその石塚友二ではなかったのだろうか。58年6月から糖尿病などによって幾たびかの入退院を繰り返していたが、61年2月8日午前3時、気管支肺炎による呼吸不全により横浜市戸塚区の大船共済病院(現・横浜栄共済病院)407号室で死去。その夜が明けた寒い朝、『毎日新聞』文化欄には〈段丘の黒く厳しき朝の雲〉のほか「段丘と寒林」四句が掲載されていた。
2月15日小雨、『鶴』同人池月一陽子が住職であった萩寺として江戸の昔より名のある東京・亀戸の龍眼寺で本葬。3月23日、春彼岸とはいえ朝からの雨空は雪に変わり、ついには吹雪となった悪天候の中、石塚友二の遺骨は広大な鎌倉霊園の芝生墓地にある石塚家の墓に納骨された。遠く織田信長の叔父津田与次郎信康につながる茜夫人の祖父松長信氏の一字「信」を選んで刻まれた洋風横型墓。裏面に石塚友二の没年月日と行年、平成8年5月17日に虚血性心疾患のため80歳で亡くなった茜夫人のそれが並んで読める。生前に知遇のあった川端康成や山本周五郎なども眠る大霊園に安まることになった石塚友二の墓の周りを、新緑の優しい風が吹いて、去った。
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