本名=石田哲大(いしだ・てつお)
大正2年3月18日—昭和44年11月21日
享年56歳(風鶴院波郷居士)❖惜命忌・波郷忌
東京都調布市元町5丁目15–1 深大寺三昧所墓地(天台宗)
俳人。愛媛県生。明治大学中退。昭和7年上京、翌年俳誌『馬酔木』同人となり同誌の編集に従事。10年第一句集『石田波郷句集』を刊行。12年俳誌『鶴』を創刊・主宰。14年『鶴の眼』を上梓。中村草田男、加藤楸邨とともに「人間探求派」と呼ばれた。敗戦後は「現代俳句協会」を創立。句集『惜命』『酒中花』などがある。
霜の墓抱き起されしとき見たり
雪はしづかにゆたかにはやし屍室
遠く病めは銀河は長し清瀬村
えごの花一切放下なし得るや
泉への道後れゆく安けさよ
墓の間に彼岸の猫のやつれけり
生き得たりいくたびも降る春の雪
呼吸は吐くことが大事や水仙花
〈水仙花いくたび入院することよ〉。
兵役中に発病した結核を因とする胸膜炎は、強固な病巣となって永く波郷を蝕んだ。戦後は国立療養所清瀬病院での数年間の療養生活をはじめ、幾たびとなく入退院を繰り返す生活であったが、それらの「死」との対決によって多くの秀作を生み出した。
〈俳句は文学ではない〉という波郷の俳句観は「俳句」を「文学」に位置づけようとする強い決意の表れでもあり、当時の俳句の傾向に対する強烈な批判、警句でもあったのだろう。
人間はすべての執着を放下することができるのだろうかという大きな不安を追いかけながら、石田波郷は肺結核のため、昭和44年11月21日午前8時30分、国立療養所清瀬病院で56年の生涯を終えた。
高浜虚子の客観写生論に反旗を翻し、新興俳句運動の流れをつくった水原秋櫻子の愛弟子である。
戦後の俳壇を先導し、〈人間探求派〉の俳人として加藤楸邨、中村草田男等と競い合ってきた波郷の墓碑がここにあった。名も知らぬ鳥が二、三羽舞っている。狭い空間の光の下に、花生けに立つ水仙花の瑞々しい白さとは対照的に、黒々と沈んだ自筆刻の「石田波郷」。深大寺西はずれ、茶屋沿いの坂道をのぼった先にある三昧所墓地と呼ばれるその塋域の切石に腰掛けて、墓の傍らに植えられた椿の花をしばらく眺めていたいと思った。
——〈虚子翁は椿を愛し戒名に椿の字が入っているが山椿に限った。水原先生は一重椿がお好み、私は何でもよい、椿であれば何でもよい〉。
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