石橋思案 いしばし・しあん(1867—1927)


 

本名=石橋助三郎(いしばし・すけさぶろう)
慶応3年6月2日(新暦7月3日)—昭和2年1月28日 
享年59歳(無盡院雨香文山居士)
東京都台東区谷中7丁目5–-24 谷中霊園天王寺墓地(天台宗)



小説家。武蔵国(神奈川県)生。東京帝国大学中退。明治18年尾崎紅葉・山田美妙らと硯友社を結成、『仇桜遊里廼夜嵐』『京鹿子』で、今様(為永)春水と評された。26年以降は『中京新聞』『読売新聞』などの大衆的文芸ジャーナリズムに活躍した。






 

 其内に此演習も全く終局を告げ、私も群集に混ツて出口まで來て、其処に侍たせておいた車夫を探す内、後の方から突然私の姓名を呼ぶ者があるから振向くと、兼て知り合ひの或貴女で、其脇に手を連ねて立ツて居たのは彼婦人であツた。其貴女は、○○さんと高く私の名を呼んで此間は失禮、途中で……車の上でツイ御挨拶もいたしませんで、私ハかう続けさまに云はれて、始めて此十日ばかり以前、途中で此貴女に行遇ツた事を思ひ起して首肯くのみ、此貴女がよく私に遇ツた事を忘れなかツた、中々交際には長けてゐる事を覺ツた。其内にも彼帰人は只鳥渡目禮したばかり、隻語を発しません。私は又今夜招待された禮を彼婦人に云うはうと思はないでもなかツたが、ツイ其時はどういふものか寸云ひう出し切れなかツた。否云ひ出す場合を得なかツた。只室内の燈光が遠く此處まで窓越しに薄く彼婦人の半面を照らして居た。これは笆垣に寄りかゝツた萩の花、彼れは花壇に咲き誇ツた牡丹花、何れを愛し何れを好む?彼婦人は此貴女に對して、忌一層私の心の中には床しい愛らしさといふ感想を浮ばしめた。歸途私が公園の欝葱たる樹木闇を行く時、私の乗ツて居た車は、果して如何なる夢を運むだらう?

(わが戀)




 

 尾崎紅葉、山田美妙、丸岡九華らとともに文学結社の硯友社創立メンバーの一人で、その同人誌『我楽多文庫』の名は石橋思案の考えであった。思案の号は、父祖の郷里、長崎の思案橋から採っている。
 古い体質の文学に終始して、戯作臭が抜けきれず、小説家としては大成しなかった。創作からは離れて、中京新聞、読売新聞、中央新聞などの記者をへて、博文館に入社、『文芸倶楽部』の編集を担当した。
 晩年は糖尿病を患い、禁酒禁煙を実行したが、昭和2年の年明けから寒さ続きで糖尿病が悪化、1月28日午前5時、脳溢血のため死去した。
 辞世の句に「極楽か地獄か我れは知らねどもなるべく来るなこんなところへ」とある。



 

 硯友社創立メンバー四人のうち、尾崎紅葉、丸岡九華は青山霊園に、山田美妙は染井霊園に眠っている。石橋思案は谷中霊園内天王寺墓地にあるとの情報を知っているだけで、この広い霊園の一つ一つの墓を訪ねる時間もなかった。この場はとりあえず誰か寺の関係者に聞くにかぎると、天王寺門前の花屋の娘さんに案内を請うた。
 古木の揃った桜並木の中央園路を西側に曲がると、参道ともいえぬ敷石の入り乱れた道筋の先に思案と妻浪子の法名を刻んだ墓石が鬱陶しげに建っていた。もの淋しい風の吹く秋の終わりの、雑草さえもない灰色の殺風景な墓地、乾ききった土埃の舞う庭に、ひょろっと私の影が細長く横たわっている。

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

編集後記


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