伊藤 整 いとう・せい(1905—1969)


 

本名=伊藤 整(いとう・ひとし)
明治38年1月16日(戸籍上は1月25日)—昭和44年11月15日 
享年64歳(海照院釈整願)
東京都東村山市萩山町1丁目16–1 小平霊園4区9側36番 



詩人・小説家・評論家。北海道生。東京商科大学(現・一橋大学)中退。ジェイムズ・ジョイスの影響を受けて『ユリシーズ』を翻訳。処女詩集『雪明りの路』で注目される。昭和24年評論『小説の方法』、25年小説『鳴海仙吉』、1年『若い詩人の肖像』などを発表。『日本文壇史』で菊池寛賞を受賞。






 

 オデュッセウス以来真の地獄は知識人の最もあこがれる郷愁の故郷であり、真の地獄のない時はこの世に地獄的な環境を作って、そこに彼等は生き甲斐と満足とを見出し、その苦痛を大いなる喜びの情に昇華して作品を書いて来ました。地獄こそ真実の人生のダイゴ味であるとあなた方は思いませんか。なぜなら、地獄こそ生命の養いなる悪とそれの味わいである罰の最も鋭く実現する所だからです。知識人は悪と正義の共にある所でないと生きることが出来ない。知識人は自分が悪人であるとともに正しきを待ち望むという意識を必ず持っているからなのです。そして彼等の好んでたずさわる芸術は不正に搾取され隠匿された貯蔵物資なる悪のエキスに生えるカビの花のようなものであります。芸術は本質において悪しきものである。少なくとも私、鳴海仙吉にとっては、真の芸術が善につながり得るであろうと考えるきっかけが失われて居るのであります。
                                                          
(鳴海仙吉)

 


 

 昭和44年5月、腸閉塞手術のため神田同和病院に入院、開腹手術をしたのだが、胃がんによる末期症状と診断された。その後抗がん剤投与で小康状態を保ってはいたが、退院・自宅療養の後の10月、大塚の癌研究会附属病院に再入院。11月15日に還らぬ人となった。
 入院中の7月4日の日記には〈あとの人生、文壇史の訂正--もう五回で明治を終る。『発掘』と『年々の花』と『三人の基督者』のまとめに過して悔いず。そして静かな老人の生活をしたい。さう悪いものではないらしい。つまり見てゐることで全部が分り、味はれる〉と記されていた。
 〈オデュッセウス以来真の地獄は知識人の最もあこがれる郷愁の故郷〉と書いた伊藤整にとっての〈郷愁の故郷〉もそのようなものであったのだろうか。



 

 晩秋の朝はさすがに寒い。人影が伸びる芝庭の息吹をそっと掃いて、朝の光の前にも聖域全体は薄もやに包まれている。祥月命日の過ぎた頃、ゆっくりと踏みしめていく霊園の参り道、歩みを一瞬とめた眼の先にひろびろとした芝生墓地が突然あらわれた。
 碁盤の目のように整然と幾重にも並んだ洋風墓石の筋々を人高の要垣が区割りしており、「伊藤家」の墓はその芝生の上に身をあずけ、散乱する枯れ葉と対座するかのように低い視線に座していた。
 翻訳したD・H・ローレンスの『チャタレイ夫人の恋人』は猥褻文書とされて裁判騒ぎにもなったが、〈芸術は本質において悪しきものである〉などと、議論をふっかけて退屈な時間を楽しんでいるのかも知れない。

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

編集後記


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