池田満寿夫 いけだ・ますお(1934—1997)


 

本名=池田満寿夫(いけだ・ますお)
昭和9年2月23日—平成9年3月8日 
享年63歳(満寿院叡彩心酔大居士)
静岡県熱海市桃山町5 医王寺墓地(臨済宗)



版画家・小説家。満州生。県立長野高等学校卒。昭和35年東京国際版画ピエンナーレ展で文部大臣賞を受け、脚光を浴び、『エーゲ海に捧ぐ』で52年度芥川賞を受賞して話題になった。画家・版画家・彫刻家・陶芸家・作家・映画監督など多彩な芸術活動を行った。ほかに『楼閣に向かって』などがある。






 

 アニタの足の裏に一匹の蝿が留っている。
 さっきから留っているのか、たった今留ったのか私にはもう憶い出せないのだ。しかし今見ている蝿はかすかに動いているような気がする。アニタの裸の足が動いていないのなら蝿の方が動いているに違いない。どこからか蝿がやって来て、そいつが彼女の足の裏に留り、少しでも動いているとすれば、アニタはそれを感じていてもいいはずなのに、彼女の足はじっとしたままなのだ。もしかしたらガラス製の蝿で撮影上の効果をねらってグロリアが素早くはりつけたのかもしれない。彼女ならそのくらいの芸当は朝飯前だろう。それなら一匹でなく二十匹ぐらいはりつけた方が効果的だと思うけど、アニタの方が厭がるに違いない。アニタは素裸のまま足の裏を私の方へむけて、あおむけに寝ている。だから彼女の脚の付根の蜜の巣が真正面に眺められる。照明のせいか、その部分が濃い青色に見え、腹部や胸の方がなんとなくぼんやりしている。アニタが私の方を見ているのかどうかもよく解らない。私の視覚はガラス製かもしれない一匹の蝿とアニタの蜜の巣だけしか感光していないようだ。カメラの回転する音も継続しているのか、しばらく前から止ってしまっているのか、よく解らないまま右の耳にあてがっている受話器から聞えてくる妻のトキコの声に私は平衡感覚を犯されている状態でいる。
                       
               
(エーゲ海に捧ぐ)

 


 

 「エロスの作家」といわれたように池田満寿夫の生み出してきた作品には、版画や陶芸、映画、舞台、小説、どの分野においても、大胆かつ現代的リアリティが満溢し、真正面からきっかりと見据えた明るいエロスがあった。しかし、多岐にわたる分野での秀でた芸術活動が正当に評価されることは少なく、むしろ悪意ある批評によって、その価値がそこなわれていったきらいがあった。
 平成9年3月8日朝、熱海市の自宅玄関で倒れ、意識不明となった満寿夫は、午前8時29分、急性心不全のため救急車で運ばれた病院で亡くなった。「ポルノか芸術か」と論議を呼んだ芥川賞小説『エーゲ海に捧ぐ』を世に問うてから20年が過ぎていた。



 

 熱海駅の北側、墓地につづく九十九折りの急坂がある。U字に曲がるたびに一休みせざるを得なかった。眼下に光る蒼海原の波端は、満寿夫が愛したエーゲ海の煌めきに及ぶはずもないのだろうが、芽吹き始めた若草の匂いの先に、かすみのような初島が眩しく眺められる。
 「空色無」と刻まれた台石の上に金色のオブジェ『大地の顔』。満寿夫の作品が墓標となって、開けた海を眺望している。
 かつて西陣織の着物を切り張りして制作したというコラージュ『天女無限』の鮮やかな永遠の色彩を思い浮かべてみたが、くすんだ墓地の一画に寂しくも浮かび上がった墓標にこそ永遠は潜んでいた。
 ——のちに長野市安茂里の正覚院にある両親の墓にも分骨された。

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

編集後記


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