井伏鱒二 いぶせ・ますじ(1898—1993)


 

本名=井伏満寿二(いぶし・ますじ)
明治31年2月15日—平成5年7月10日 
享年95歳(照観院文寿日慧大居士)❖鱒二忌 
東京都港区北青山2丁目12–8 持法寺(法華宗)



小説家。広島県生。早稲田大学中退。昭和5年初の作品集『夜ふけと梅の花』を出版。『山椒魚』は同短編集に収録されている。『ジョン万次郎漂流記』で12年度直木賞受賞、『文学界』の同人となる。41年文化勲章を受章。ほかに『本日休診』『漂民宇三郎』『黒い雨』などがある。






 

 誰しも自分自身をあまり愚かな言葉で譬えてみることは好まないであろう。ただ不幸にその心をかきむしられる者のみが、自分自身はブリキの切屑だなどと考えてみる。たしかに彼等は深くふところ手をして物思いに耽ったり、手ににじんだ汗をチョッキの胴で拭ったりして、彼等ほど各々好みのままの恰好をしがちなものはないのである。
山椒魚は閉じた目蓋を開こうとしなかった。何となれば、彼には目蓋を開いたり閉じたりする自由と、その可能とが与えられていただけであったからなのだ。
 その結果、彼の目蓋のなかでは、いかに合点のゆかないことが生じたではなかったか!目を開じるという単なる形式が、巨大な暗やみを決定してみせたのである。その暗やみは際限もなく拡がった深淵であった。誰しもこの深淵の深さや広さを言いあてることはできないであろう。
——どうか諸君に再びお願いがある。山椒魚がかかる常識に没頭することを軽蔑しないでいただきたい。牢獄の見張人といえども、よほど気難しい時でなくては、終身懲役の囚人が徒らに歎息をもらしたからといって叱りつけはしない。
 「ああ、寒いほど独りぼっちだ!」
 注意深い心の持主であるならば、山椒魚のすすり泣きの声が岩屋の外にもれているのを聞きのがしはしなかったであろう。
                                                            
(山椒魚)

 


 

 自殺した太宰治の遺書に〈井伏さんは悪人です〉と書かれていたという真実・真意は不明ではあるのだけれど、太宰とはそれほどにも近しかったということなのであろう。また〈井伏さんの通ったあとには草も生えない〉と、武田泰淳に言われたほど、その描写力が生み出す独特の味わいは、表現された文字と文字のより深いところに密やかな感動を呼び起こすように配してあったのだ。
 山梨の人と自然を愛して趣味の川釣りを良くし、旅の名人でもあった井伏鱒二。
 平成5年6月末、昭和2年から70年近く住まった荻窪の自宅に程近い東京衛生病院に緊急入院したのだが、7月10日午前11時40分、肺炎のため95年の長い長い旅の終わりを迎えた。



 

 青山の通りから一本北側の外苑西通り(通称青山キラー通り)にはカフェや画廊、瀟洒な雑貨店などが少なからず並んでおり、移ろいゆく気ぜわしい時をのせて青山の華やいだ喧噪があった。思い起こした夢の続きを探るように初秋の薄い陽はこぼれ、群から離れた赤とんぼが一匹、すいすいと舞っている。
 法華宗の寺、持法寺の本堂裏にある墓地隅にお堂を背にして「井伏家之墓」があった。20本ばかりの卒塔婆を背負って、昭和63年に井伏自身が建てた「井伏家之墓」と自署刻の「井伏鱒二」の碑が並び、墓前には彼岸に供されたと思われるかすみ草と菊の花が、秋のひとときを静かに見送っていた。
 〈花にあらしの たとへもあるぞ さよならだけが 人生だ〉。

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

編集後記


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