神経症の話はHPで読んで頂くだけではとても語り尽くせない。
自著「悩みは何ですか?」の全文をのせることは量的に無理なので記述のごく一部を読んで頂くことしか出来ず、誠に残念であるが神経症という苦悩を抱えていてもより良く生きることは必ず出来るので希望をもって読んで頂きたいと思う。
(尚、全文を読むことがあなたの心の支えになると思う方はリンク先の本屋を訪ねて頂きたい)
自分は神経症だと確信する方も、神経症的傾向の強い方も先ず柔軟な理解力で読むことをお願いする。自著「悩みは何ですか?」の神髄は生まれ持った自分の素質を肯定しその素質をむしろ積極的に生きるための能力とし有意義な人生を送ろうと提言するものである。
神経症と一口に言っても、小心恐怖・強迫観念・不安神経(死への恐れも含む)など色々ある。症状は人により千差万別、多岐にわたる。
通常、人は瞬時、瞬時いろいろな想念が浮かんでは消え浮かんでは消えして記憶が必要と思わない限りはいちいち記憶はしていない。だがふとしたことから理由なき不安感や異常感、体の不調感などが脳裏に残るようになってしまう。
このような想念は不快なので、思い出すまい忘れようとすればするほど記憶にとどまり葛藤を起こす。葛藤が烈しいときは一種のパニック状態になる場合もある。これがこだわりの元になってパニックの癖がつく。一度この悪循環に陥ってしまうと強迫観念のとらわれ人になって、これはという病気もないのに身体的苦痛や精神的苦痛に苦しむようになる。脳裏から離れないこれらの不本意で不条理な想念の苦しみに負けて、自分は心が病んでいるもう駄目だなどと時には思ったりもする。
だが安心して貰いたい。多様な不定愁訴と重い軽いの話は聞くが、気が狂ってしまったという話は一つもない。それどころか老若男女とも有能な人が結構多い。このような素質の人は過敏な神経を持っているだけにこだわりの悪癖が単に想念だけにとどまらず、特定の身体の各部位にも症状として定着してしまう場合も多い。
心悸亢進や動悸・過呼吸・めまい・頭痛・胃痛・喉の違和感などその他本当の病気か、こだわりの結果か、神経的に自ら症状を作り上げているのか判然としない。
身体に限らず行動や習慣、(確認癖・潔癖癖・昼夜逆転、閉所・高所恐怖他)更に五感(匂い・味・音・暑さ・寒さ他)といったすべてにも人さまざまな、自縄自縛の想念の悪い癖がつく。こだわりの原因になる材料は何でもありだが、ある人が非常にこだわっていることがある人には全く問題にならないということが多すぎて、人それぞれの特有な感覚によるものと深く考えさせられる。
それにしてもまず第一は本物の病気かどうか医師の判断を仰ごう。
診察も充分受けた、検査もいろいろやって頂いた、医師の判断による治療もかなりの期間続けてみたが不定愁訴はつづいている。本人が苦悩するわりには医師の目から特に問題はないとも言われている。だが症状は横這いで何年何十年と良くも悪くもならず、今日一日として晴々した気持ちで暮らしたことはないというのが神経症の人達の告白だ。
食事を例にすれば、今食べたものは悪いものではなかったかと急に不安がつのってくる。本人は馬鹿馬鹿しい事だと分かっていながら毎回食事の度に不安感で一杯になる。心臓が悪いわけではないのに駅の階段が登れない。体調の悪いとき駅の階段を登りふと動悸を意識したのが始まりと言う人もいる。エレベーターや電車のドアが閉まるといたたまれなくなり冷や汗がでてくる人。何度も繰り返し手を洗う行為。きりのない施錠の確認。嫌いな匂いには耐えられない人。何時もわけもなく不安で行動範囲もせまくなり家から出なくなってしまった人。広いところが嫌な人。高いところが嫌な人。先端の鋭いものが怖い人さまざま。例を上げたらきりがない。どんな症状も根本的には同じこ。人によりこだわるところが違うだけである。折角生まれてきたのに病気や死にこだわりだしてから、今日一日として楽しい日はないなどと思っているあなたにも先輩から勝手なことを言わして頂きたい。
悟りを開けの諦観をもてのと大げさなことは誰にも言えない。
お坊さんで神経症の人を知っているがそう簡単に悟りなど開けるものではないだろう。死は神仏の分野。我々が担当するのは生の分野。死以後は神仏にお任せし(事実死んだとき自分死んだと分かる人はいない)気楽に生きようではないか。
恐怖は命を守る危機意識がより強いことと解釈して、生命体として立派な保守能力のある証拠だと思い自分を臆病だの異常だのと責める必要は全くない。
開けそうもない悟りを望んだり、想念の悪い癖と必死に闘おうとして、ますますそのことに意識を集中し悪循環に陥るより、症状は症状としてそれには構わずもう一度自己検証し直し客観的にみて自分の勝れた特徴は何か?を見極め、付加価値をつける努力を始めて頂きたいのだ。筆者の持論である置き換え療法をあなたには是非試してみて貰いたいと思う。
症状を意識することに全力を上げていた神経を、自分の付加価値を高めるプログラムの実践の方に振り向けよう。
スケジュールを組み、苦しくても淡々と予定に従ってやることをお進めする。
「やれますか?」「やりますか?」などの自問は必要ない。苦悩を探し出しやれない言いわけにしようとする弱気な自分に対しては、ロボットになったつもりでやるべきことを遂行しょう。症状があってもよい、こだわりを抱えたままでもよい、自分がやってみたいことに取り組むのだ。「このせいでやれない」「あのせいでやれない」など言いわけは一切なしだ。只やる。どんな心境でやろうともあなたの手には実践で得た成果と満足感が残る。
勝れた素質と神経症の苦しみが裏表になっている。だから「これが直ったら・・・」とか「これがあるから出来ない」とかと言って貴重な時間を無駄にせず、自分の人生に描いた夢は、何の障害もないものとして進めて貰いたい。(いろんな症状を抱えたままでもよい)やがて達成感が、あなたの苦悩と何時とはなしに入れ替わってしまうことを断言しておく。
神経症はもう治す必要はないこれは自分の個性だと心に先ず言い聞かせよう。
そろそろ神経症からの脱出に必死になるのはやめて、自己改革の方面から変化を試みてはどうだろうかということを提案する。
今までは心身のこだわりに焦点があった。
今後はやるべきことの達成の方に焦点をかえよう。
自分を甘やかすことも症状に溺れることも止めよう。
あなたの神経質な本質はあらゆる有能な可能性を持っていると同時に、そうであるが故に人一倍余分な苦悩も感じてしまう。だが生まれた本質は変えようがない。
本質の負のプレミアムと上手に付き合い、有能な長所を最大限に開花させなければ勿体ない。「直そう」とも、「逃げよう」とも思わないことだ。共存はするが意識はしない。自己改革や能力の全開を目指すが、今までのような症状などに自分の貴重な人生の邪魔はさせない。小さいことから一つ一つ腰を据えてしぶとくやろう。
大切なのは方向付けなのだ。
積極的に取り組めばあなたの迷路は出口に近い。脱出の方法が分かったのだ。
やみくもに出口を探し続けた希望のない日々とは違う。
勝れた能力を持っていればこその苦悩なのだから、有限の人生を精一杯生きて見事な花を咲かせてみよう。禍を転じて福となす。
未来の扉を開くのはあなた自身である。
必ず未来は開ける。
(詳細は自著「悩みは何ですか?」を参考にして下さい)