あなたはあらゆる可能性を秘めた一粒の未知の種。
どんな花が咲くかは約束されていない。
衆目を集めるあざやかな大輪の花も、人目につかず野に咲く可憐な花も、その人生がその人にとって満足のいくものであれば、我が人生に悔いなしである。
自分はこのままでよいのか?
今まであいまいのまま何の見通しも計画性もなくいい加減な生き方に終始してきたのではないか?と自己批判する人はあなたばかりではない。大方はそんなものなのである。
ビックバン以後、今まで平和な保護区であった大企業という組織も明日はあなたに居場所をあたえてくれないかも知れない。世界企業との熾烈な闘いに破れる可能性はないとは言えないし、内部告発により自らの手で牙城の倒壊をおこすこともありうる。
方向も見定められない広漠とした砂漠に一人たたずんだとき、あなたはどう生きる?
自分はこのままでよいのか?と思うようになったのをきっかけに、命の有限や生きていく環境の変化に対応出来るかの真剣な検証を始めても当然かも知れない。
個人の能力や特性による実力主義の時代がきた。
自分をまずじっくり検証し直そう。
そのためには自分を離れて、公正な他人の目で自分を再検討しよう。
手前味噌ではなく、自虐的でもなく、冷静で客観的に自分の性格、能力、特徴、長所、短所などいろいろ思いあわせて、自分には何が向いているのか、何をしたいのか、どんな風に生きたいのか?をもう一度真剣に探ってみよう。
筆者の発想を言えば人は皆多少の条件の違いはあっても、常に宝の山に埋もれて生きている様なものだと思っている。宝の山とはチャンスを指す。
廻りを見回せばチャンスだらけなのだ。まだ自分のものになっていない宝であり、生涯自分のものになるか?ならないか?はあなたがそのチャンスを勝ち取れるかどうかにかかっている。
宝の山を我がものにするには、運という不確かな偶然になどには期待せず、自己を検証し目的を持ち計画を立て、現実的に確かな足取りで一歩一歩努力して行かなければならない。実は周囲は宝の山だったのだと気がつくのは大半の人生をうかうかと過ごして残り時間を気にするようになってからである。
一度しかない一生。しかも有限。
高齢者はすでに二度とやり直せない人生の事後確認をしている。
さあ、自分の人生の夢を思い描いてみよう。どんな一生を送れるだろうか。
自分のことを自分が一番知っているのは当たり前という固定観念を先ず捨てて貰いたい。
自己の隠れた能力の発見も重大である。
血は水より濃い。家族や親戚の誰かが持っている才能も要注意である。
遺伝と才能は人知の及ばない所で密接な関係にある。
だが、これはというすぐれた遺伝のなさそうな人も落胆するにはあたらない。
あなたは未知の花咲く一粒の種だ。遺伝や才能の結果は想像出来るが、未知なるが故に突然変異だって期待できるところが又、面白いではないか。
自分はこのままでいいのか?という思いは、別に若者ばかりの思いではない。
性別も年代も関係なく、真剣に自分の人生をみつめる人達すべての思いでもある。
だがなにしろ人生は有限だ。
まだやりたいことが山ほどあっても、「はいそこまで!」と言われてしまうのが我々の宿命である。従って時間は最も大切な資源だと思って貰いたい。
期限があるからこそかえって意欲も湧く。
あなたという一粒の種はどんな花を咲かせてくれるのか。
あなたが得る達成感は想像以上であろうことを祈っている。
(詳細は自著「悩みは何ですか?」を参考にして下さい)
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