自分が望んだわけでもないのにいつの間にか高齢者呼ばわりされて許せん。
だがこれが現実だ。だからといって落ち込んでばかりもいられない。
怒ろうが落ち込もうが残りの持ち時間に変わりはない。
我々昭和一桁アプレゲール世代は一代で信じられない程の体験をした世代である。今の北朝鮮の言論の抑圧や食料の逼迫状況は日本においても我々が体験済みだ。生命力のしぶとさや生物としての危機意識は国家の変転と共に歩いてきた今の我々が一番持っていたのかも知れない。家は焼かれ食料も僅かしかなくどんぞこを体験した者は今がどんなに感謝すべき環境なのかを知っている。
不思議なことに物に恵まれない時代は、悲しみや苦しさに耐える強靱な精神力が我々を支えた。明日の命の保証もない状況のなかでも、さえ渡る夜空の月に深い詩情さえ感じる豊かな感性も息づいていた。だが物が有り余るようになった今は精神力が衰え、突然の天災や極端な事件にぶつかるたびに「心のケア」が叫ばれ、人手を借りなければ立ち直ることさえ容易ではなくなった。情緒や感情も枯渇しているように思えるのは何故だろうか。
人の痛みには一粒の涙もない冷酷な事件の頻発や、物や金に魂を売り渡した情けない悪事の横行に日本国民の衰弱と堕落を危惧するのは筆者だけでないと思う。
さてあなたは今どのような環境の中でどのような毎日を送っていられるだろうか。
同居では子供世代や孫世代に対して過干渉にならないように気をつけよう。
又、心身ともに彼らの重荷にならないよう日常生活の自立は基本である。
但し頑固な自立は頂けない。あくまでも一人でやるとがんばりすぎて手を払いのける様な態度では可愛くない。高齢者も子供も可愛いところがあればこそ情もかけたくなる。時に応じ相手の気持ちをよく汲んで素直に感謝し「有り難う」という言葉も大切なことだろうと思う。
一人住まいや高齢者夫婦のみの家庭では、生活全般を一人一人がこなせる能力を持っているであろうか。男性でも料理であれ掃除であれやって出来ないことはない。興味を持ってやってみよう。習う気なら今は男性の料理教室もあるので楽しく勉強も出来る。高齢者もあまりにも周囲から守られ過ぎるとかえって生きる能力を失なってしまう。過ぎたる優しさはある意味では老廃を促進させることにもなるのだ。