暇人の雑記帳
観るー女優、監督などを切り口とする映画、ドラマなどについての寸評
<映画寸評>
日本の作品
欧米の作品
アジアの作品
ATG作品
文芸作品(原作もの)
<ドラマ寸評>
日本の作品
<注目する女優>
イングリッド
・バーグマン
コン・リー
ジャンヌ・モロー
ジーン・セバーグ
ニコール・キッドマン
フェイ・ダナウェイ
芦川いづみ
栗原小巻
黒木瞳
関根恵子
高峰秀子
中谷美紀
真木よう子
宮沢りえ
<注目する男優>
石原裕次郎
<注目する監督>
イム・グォンテク
小津安二郎
熊井啓
<最近観た映画>
<最近観たドラマ>
コントレール〜罪と恋〜
(NHK ドラマ10)
ガラスの家
(NHK ドラマ10)
<トピックス>
鎌倉市川喜多映画記念館での大島渚と小山明子企画展にて鑑賞した(2013年2月5日鑑賞)。ストーリーについての詳細はネットのデータベースを見て欲しいが、母子家庭(母が靴磨き)の鳩を売って生計の足しにしている中学生とその鳩を買った裕福な家庭(父が大きな電機会社の役員)の女子高生のドラマと、中学生に目をかけている女の先生と彼女を好きになる女子高生の兄のドラマの、二つのドラマからなる。売られた鳩は、買い主が目を離した空きに逃げ、必ず彼の元に戻ってくるため、中学生が女子高生に売った時には四度目であった。女子高生は中学生の置かれた立場に同情し、その兄は女の先生の気持ちを理解しようとするが、それは結局、持っているものが持たざるものに示す愛でしかなく、相互の間には理解できない溝が横たわっている。ハッピーエンドでは終わらず、気持ちの悪い結末を迎える。鳩を空気銃で撃ち落とすことで、兄妹は元の富裕層の生活に戻ってゆくのだ。
ところで、シナリオを書いた監督は何を訴えたかったのだろうか。監督にとっては、この作品は初めてメガホンを取った作品である。京都大学時代には学生運動で府学連の委員長までやった人間の訴えるところは、単に貧困層と富裕層、中間層との理解し得ない溝を赤裸々に描くことだけであった筈がない。彼自身は女子高生の兄がやっていたというセツルメントの活動は勿論知っていただろうし、親が役人であるという事で貧困層というよりは、どちらかというと中間層か、富裕層に近かったのではないだろうか?
私はこう思う。どんな人間であっても、異なる経験を持ち、また異なる環境にある相手の本当の気持ちを解する事はできない。あるいは、解するためには多くの時間を費やさなければならない。(当時の)既成の政党には、その理解が乏しく、間違った活動を主体にしているのではないかと、そう訴えたかったのではないだろうか?
しかし、それは、彼が今までやってきた活動であり、その事実はもはや打ち消すことはできず、自らも中間層から貧困層に移る事はできないジレンマの中で問題を投げかけた、というのが本当のところではないだろうか?つまり、彼は中間層でいかに生きるかを選択したのではないだろうか?
この視点が、同じような時期の同じような状況を描いた「キューポラのある街」や「若者たち」と違う、と私は思う。
原題は「鳩を売る少年」であり、会社(松竹)から改題されてしまった事は有名な話であるが、ある評論家は、この話は「愛と希望のある街」ではなく、「愛と希望のない街」であると、どこかで書いていた。会社側から見れば、愛も希望もあるのだろうが、中学生とその母から見れば愛も希望もないのである。この映画の設定は、今の若者たちには理解できないだろうが、1950年代を小学生で過ごした私たちまでの世代までは理解できる。日本は高度成長に向かう時期であり、企業が大きくなっていく反面、未だ工業地帯や地方には多くの貧しい家庭があった。この時期の貧富の差は今にも増して大きかった。この映画に描かれたような雨が降ればぬかるみができる道、掘っ立て小屋のような家があった世界は創造の世界と思うかも知れない。しかし、これは現実にあった世界である。また、貧困層、中間層、富裕層という設定が余りにも類型的ではないかと思う人もいるだろう。しかし、この様に明確であったのである。信じてもらえるだろうか。
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