■幾千の夜を越えて 第八章-5■
戦闘はエッダ城から駆けつけてきた解放軍本隊が合流したことにより完全に終結した。戦闘に参加していた者はその大半が極度の疲労のためほとんど動けなくなっていた。ラクチェも例外ではない。彼女の状態を一目見たシャナンはこれ以上戦闘を続けるのは困難であると判断し、後方に下がるよう指示した。それほどに、彼女は消耗していた。それは、肉体的というよりもむしろ精神的なものが大きかったかもしれない。普段ならば反発しているはずのその指示におとなしく頷いたことからもそれは伺えた。妹を一人にして置けないと判断したスカサハも彼女と共に後方に下がった。
瀕死の重傷を負ったヨハンは急ごしらえの天幕内で衛生兵の懸命の治療を受けていた。通常の傷であれば僧侶の持つ杖でたちどころに治療できる。だが治療できるのは傷、つまり細胞の復活を魔法力により手助けするだけであり、その傷によって失われた血までは取り戻すことが出来ないのだ。そしてヨハンは、右腕を切り落とされたことにより大量の血を失っていた。
天幕内に入室することを許されたのはコープル、ティニー、ナンナの三名のみである。けが人続出の軍内にあってそれでも魔法力の高さには定評のある彼ら三名が集められたのは奇跡的なことだ。つまり、それだけヨハンの状態が急を要するということなのだが。
治療の間中、ラクチェとスカサハは天幕の外でじっと治療が終わるのを待っていた。夜明け頃から行われた戦闘が終了したのは夕刻で、今周囲はすっかり夜も更けている。戦闘に参加した者たちはそれぞれに休息を取っていたが、彼らはそれどころではなかった。
スカサハは隣に座り込んだ妹をちらりと見やった。ラクチェは抱え込んだ膝に額を押し付けたまま先ほどから身動きひとつしない。無理もないことだった。彼女は先の戦闘で自分やシャナンと同等の活躍を見せていた。戦闘能力的に他の誰にも引けを取らないとはいえ、その身はまだ十八の少女なのだ。どれほど鍛えても体力的にはどうしても男に劣る。まして、自分の恋人が目の前で腕を失う姿を目撃したのだ。その精神的衝撃は、計り知れない。
その妹に対し、自分は何が言えるのだろう。言葉を探しあぐねて、結局何も見つけることが出来ずに唇をかみしめる。今はただ、この天幕の中で治療を受けている男が一刻も早く無事に戻ることを祈るだけだ。
ざり、と土を踏む音がした。顔を上げたスカサハは、そこになじみの天馬騎士の姿を見出した。
「……フィー」
「二人とも、お疲れ様。はいこれ、差し入れよ」
自身も疲れているのだろうに、ふわりと笑って彼女は手にした二つの皿を差し出した。暖かな湯気を立てるそれは、作りたてのスープだ。
「シャナン様とオイフェ様がね、向こうで心配してたわ。二人ともちゃんと体を休めてるのか、って」
「……俺は、平気だけど……」
言いよどんでまたちらりと妹を見やる。つられるように視線を向けたフィーは、痛々しげに眉を寄せた。
「……冷めちゃう前に食べてね。おかわりも向こうにあるから。合図してくれれば運んでくるし」
「うん。ありがとう、フィー」
「気にしないで。じゃ」
ひらひらと手を振って、フィーは戻っていった。
受け取った皿を手に、スカサハは少し迷って、それでも声をかけた。
「……ラクチェ、食べろ」
「……ほしくない」
返るとは思っていなかった返答に、少し戸惑う。だがスカサハは心を鬼にして皿を押し付けた。
「食べろ。戦いはまだ続いてるんだぞ。これは権利じゃない、部隊長としての義務だ」
「…………」
「こんなところで自分の責任を投げ出すな。ヨハンだってまだ戦ってるんだぞ。あいつが目を覚ましたら何て言って会うつもりだ」
厳しい叱咤にも、ラクチェは答えない。肩が震えている。
「ラクチェ」
いらだたしげに、スカサハが声をかけたときだった。
天幕の入り口の布が上げられて、中からコープルが姿を現したのは。
「コープル!」
はっと顔を上げたラクチェに、コープルは疲れた顔に笑みを浮かべて答えた。
「治療は終わりました」
「それで、ヨハンは……」
「今は眠っていらっしゃいます」
呆然とコープルを見上げるラクチェの瞳に見る間に涙が盛り上がった。
「…かった……よ、かった……!」
泣き崩れる妹を複雑そうに眺めやって、スカサハはコープルに笑いかけた。
「ありがとう、コープル」
「いいえ、これが僕の役目ですから。でも……」
わずかに暗くなった表情にスカサハの脳裏をいやな予感が掠めた。
「……でも?」
「……いえ……とにかく、中にお入りになってください」
「ああ」
戸惑いながらも頷いて、スカサハはラクチェを促して天幕の中に入った。
天幕の中央に、ヨハンは横たえられていた。その左右にはティニーとナンナが座っていて、二人に気づいて同時に立ち上がろうとした。
「ああ、いいよ、座っていてくれ。疲れてるんだろう」
「いえ、そんなこと……」
「ヨハンの命を助けてくれてありがとう。改めて例を言わせてもらうよ」
そう言ったスカサハに、二人の少女は顔を見合わせた。
「……あの……そのことなんですが……」
ティニーがどもりながら口を開く。スカサハは首を傾げた。
「?……何かあるのか?」
意を決したように、ナンナが口を開いた。
「……ヨハンさんの治療は、確かに成功しました。でも、切り落とされた右腕は……時間がたちすぎていたので、完全に元には……」
ラクチェがひゅっと息を呑む音が聞こえた。
「……多分、もう斧を握ることは……」
小さな声で呟いたティニーが言葉に詰まる。
「それに、かなり失血されていたので……目を覚まされるまでは、本当に大丈夫なのかどうかは……保証できないんです」
そう言って、ナンナは深く頭を下げた。
「ごめんなさい。私たちにはこれ以上どうしようもないの……あとは、ヨハンさんの生命力に賭けるしか……!」
スカサハは、暗澹たる気持ちで横たわったままのヨハンを見下ろした。兄と対したときのヨハンの台詞が耳に蘇る。
『未来を作るは我が手にあらず。我が手はただ道を拓くのみ。未来は既に次の世代に託された!』
『兄上……あなたはドズル家を包む闇の最後の一部なのだ。私と共に沈んでいただこう。ドズルの未来のために!』
肉親殺しという罪をその身に負って、彼は闇の深遠へと一人沈んでいこうとしているのだろうか。
「……大丈夫よ」
静寂を破ったのは、ラクチェの静かな声だった。
彼女は恋人の傍らに腰をおろし、穏やかな表情で恋人の顔を見つめていた。
「ラクチェ……?」
「彼は、強い人だもの。きっと、無事に帰ってくるわ……あたしのところに」
彼の右腕はティニーたちの必死の治療によって形ばかりは元に戻っていた。だがその腕はもう二度と動かない。その腕がラクチェを抱きしめることは二度とないのだ。ラクチェは大きな手を取り、その甲に愛しげにくちづけて頬をすり寄せた。サファイアの瞳から涙が一筋零れ落ちる。
「だって、約束したんだもの……彼を、信じるって」
三人は言葉を失って彼女を見つめた。
ヨハンを始めとするけが人の治療が続く間に、解放軍は次の目標であるドズル城へと迫っていた。
頑迷な抵抗を続けるかに思われたドズル城の制圧は、意外にあっさりとしたものだった。
それは、グラオリッターを破った部隊にエッダ城を制圧した解放軍の本隊が合流したことと無関係ではなかったかもしれない。ともあれ、数倍の規模に膨れ上がり城壁に押し寄せた解放軍が見たものは、開け放たれた城門とそこに立つ城主代理を名乗る一人の女性の姿だったのである。
その女性がドズル家の血を引くもの、つまりヨハン、ラクチェ、スカサハの三人に面会を申し出てきたのは、解放軍がドズル城に入城し重傷者を中心に各部屋が割り当てられた後のことだった。
「……ラクチェ、どうする?」
兄の問いを受けて、ラクチェは視線を傍らに眠る恋人に移した。
ヨハンは未だに目を覚まさない。予断を許さない状況が続いている。本当なら、片時も側を離れたくないところだ。だが、ラクチェは首を振って答えた。
「……あたしも行くわ。これもあたしたちの仕事なんでしょ?」
「……そうだな。行くか」
ラクチェは寝台の上に無造作に投げ出されたままのヨハンの手を取り、そっと唇を寄せて囁いた。
「ヨハン、ちょっと行って来るわね。すぐに戻ってくるから……それまで少しだけ待っていて」
城主代理を名乗る女性は東の塔と呼ばれる塔の一室で彼らを待っていた。ヨハンが運び込まれたのが西の塔と呼ばれる塔の最上階で、そこは彼がかつてドズル城で暮らしていた頃彼の部屋があった場所だという。その一面から見て、その女性は配慮に長けた人物であるようだ。ある種の警戒心を持って部屋を訪れた二人を出迎えたのは、彼らと差ほど年の変わらない女性だった。
「ようこそおいでくださいました」
ドレスの裾をつまんで優雅に会釈する姿はいかにもグランベル貴族の女性らしい。結い上げた金茶の髪。白い面はやややつれてはいたが、それは彼女の繊細な美貌に色こそ添えているものの何一つ損なってはいない。彼女はふわりと微笑んで、名乗りをあげた。
「私はドズル家当主ブリアン卿の妻アウレーリエと申します」
ラクチェは息を呑んだ。あの激しい戦いで壮絶な最期を遂げたブリアン卿の妻だというのか。では、自分たちが夫の命を奪ったということも知っているのだろうか。
幾分冷静だったスカサハが小さく会釈して答えた。
「丁寧な挨拶をありがとうございます。私は先のドズル公子レックスの息子スカサハ。こちらは妹のラクチェです」
「お二人のことはよく存じ上げております。お会いできて光栄ですわ」
そう言って、アウレーリエはふわりとドレスを広げ二人の前に膝をついた。
「ドズル城城主代理としてお二人に申し上げます。これよりドズル家は帝国の支配より離れあなた方の指揮下に入ります。今までのご無礼、どうかお許しくださいませ」
「……それは」
「我が夫は出陣の際私に言い残しました。グラオリッター敗れしその時は一切の抵抗を止め解放軍の軍門に下るように、と。それが、いずれの正義がより正しき道に沿うたものであるかの神が示したる決着であろうから……と」
二人は思わず顔を見合わせた。
「信じられぬ、とおっしゃるならばそれも致し方ないことでしょう。しかし、こればかりはどうぞ信じてくださいませ。あの方は……決して迷うておらなんだわけではございませぬ」
「……では、この国の現状も知っておられた……と?」
「はい」
アウレーリエは顔を上げ、二人を見つめた。
「ブリアン様は……ロプト教の台頭には常に頭を痛めておいででした。それを止める術をもたぬご自身を嘆いておいででした。皇帝陛下の掲げた理想を信じるお心との間で常に葛藤しておいででした。……信じては……いただけないかもしれませぬが……」
「…………」
「私は……あの方は、最初からヨハン様にすべてを託されるおつもりではなかったかと思うております」
「ヨハンに……?」
「はい。自分に選ぶことの出来なかった道を選ばれた弟君であればこそ……踏ん切りをつけることの出来なかったご自身を裁いてもらえるのではないかと……」
声が細くなり、消えた。細い肩が小さく震えた。
やがて、彼女はすいと顔を上げて立ち上がった。
「信じるか否かは、あなた方のご自由です。ドズル家の未来も……あなた方に託します。それが、あの方のご遺志ですから」
一瞬、悲しげに眉を寄せて。彼女は華やかに笑ってみせた。
「どうぞ、よいように取り計らってくださいませね」
スカサハが頭を下げて言った。
「我々も全力を尽くします。どうか心安らかにお待ちください」
「ありがとうございます……これで安心致しました」
部屋の片隅から赤子の鳴き声が聞こえたのはその時だった。ラクチェがはっと顔を上げる。
「……お子様が、おられるのですか」
「はい……申し訳ございません、少しだけお待ちください」
部屋の片隅に置かれたゆりかごに歩み寄った彼女は、そこから二人の赤子を抱き上げた。
「……双子……ですか?」
「ええ」
アウレーリエは慈しむように穏やかな母の眼差しを我が子に注いでいる。
子供の存在は、とても微妙だ。その子が男の子であれば、成長して後に父の遺志を継ごうとする可能性もある。それは新しく築かれるはずの国にとって後の禍根になりうるということだ。それは、彼らにとって決して望ましいことではない。
スカサハは迷った。自らも間もなく父親になろうとする彼だ。乳飲み子の命を奪うなどできればしたくはない。結論を出せぬまま、彼は問うた。
「……男の子ですか?お名前は……?」
彼女は悲しげに微笑んで―――答えた。
「……どちらも、男の子です。名前は……兄はヨハン、弟はヨハルヴァと……夫が名づけました」
「……っ!」
アウレーリエは言葉を失った二人に歩みより、腕の赤子を一人ずつ託した。
「あなた方に、この子を預けます……どうか、どうか……立派に育ててくださいまし」
それは、母の悲しい決意だった。手元において後の禍根と判断され殺されてしまうよりは、手放してその無事を祈ることしか彼女には出来ないのだ。
ラクチェはそっと腕の中の赤子を見下ろした。母の手を離れたことでむずがるように身をよじっていた赤子はやがて自分を覗き込む見知らぬ存在に気づいたようで、きょとん、とした目を向けてきた。やがて、その口元がふわりと笑う。無垢な、あまりにも無垢なその笑顔にラクチェは泣きたくなった。
赤子をしっかりと抱えなおし、ラクチェはその手を彼女に差し伸べた。
「……確かに、お預かりしました。この子達は、きっと立派に育てますから……」
「よろしく、お願いいたしますね」
母親は涙を浮かべてその手を握り返した。
彼女、アウレーリエが毒杯を仰いで自らの命を絶ったと彼らが知ったのは、その夜のことである。
***
やりきれない思いを抱えたまま、ラクチェはヨハンが眠りつづける部屋に戻ってきた。
窓からは月明かりが差し込んでいる。灯りをつける気にもならず、ラクチェはそのまま彼が眠りつづける寝台の傍らに腰を下ろした。月明かりに照らし出された青白い頬に手を触れて、彼女は囁いた。
「ヨハン……あたしね、今まで何も考えてなかったのよ。戦っている相手が、何を考えているのかとか……倒した相手の家族が、その後どうしているのかとか……考えているつもりで、何もわかってなかったんだわ。自分のしてきたことが、間違っているとは思わないけど……でも、今日みたいなことがあるとさすがに落ち込むわね」
頬を撫でて。手を取り、頬を寄せる。
「帝国にいるからって皆が悪いわけじゃない。わかってるつもりだった。でも……あの人は……」
自分の正義だけでは割り切れないことがある。それを、初めて思い知らされた一日だった。それは、ただがむしゃらに戦うだけでは解決できないことだ。迷路に迷い込んだように、何も見えない。聞こえない。
「あたし……どうしたらいいんだろう」
沈んだ声で呟いて、ラクチェは目を閉じた。
握り締めた手がぴくりと動いたのは、その時だった。わずかに力がこもり、握り返される。
ラクチェははっと目を開けた。思わず覗き込んだ顔は、瞼がかすかに震えていて。
「ヨハン……?」
震える声で名を呼ぶと、彼はうっすらと目を開けた。焦点の合わなかった瞳がやがて傍らの恋人を映し出すと、彼はふわりと微笑んだ。
「ヨハン……!気がついたのね!」
「……心配をかけてしまったようだな……」
「いいのよ、そんなこと……あなたが無事に戻ってきてくれれば、それだけで……」
涙ぐむラクチェの頬を拭おうとして、ヨハンは訝しげな顔をした。腕が……動かない。
「……そう……だったな。この腕は、あの時……」
ため息をついて、彼は周囲を見回した。
「ここは……ドズル城か」
「そうよ。……昔、あなたが使っていた部屋ですって」
「……そうか……」
目を閉じて。ヨハンは自嘲気味に笑った。
「夢をみていた……夢の中で、父上にお会いしたよ」
「あなたのお父様に……?」
「『まだ来るな』と追い返されてしまったよ。『おまえは現世で十分苦労をしてから来い』と……ヨハルヴァにも言われた。『ラクチェを泣かせたらただじゃおかない』と……」
それは、彼の罪悪感がみせた願望という名の幻なのかもしれない。でも、それでいいのだろう。
「ラクチェ。私たちには迷う時間は残されていない。大切なのは……我々に思いを託し死んでいった人々の心を継いでゆくことなのだと思う。……私の犯した罪は、許されるものではないかもしれないが……」
「そのことなら、私も同罪よ。私は彼らの思いを理解しようともしなかった。それは、ずっと罪深いことだわ」
ラクチェはヨハンの胸に額を押し付けた。ゆっくりと持ち上げられた彼の左手が黒髪にそっと絡まる。
「だが、君は気がついた。まだ手遅れではないはずだ……」
「ええ、そう。あなたも……ね」
月明かりの中、二人は静かに抱きあっていた。
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