■幾千の夜を越えて 第五章-2■
早朝の野営地をばたばたと慌しい足音が駆け抜けていく。何事かと振り返った兵士はその足音の主を確認して思わず納得し、その行き先に気づいた後で首をひねったらしいがそんなことは当人が知る由もない。その人物、ラクチェは回りの視線などまったくかまうことなく兵士たちの間をすり抜け、目的の人物を発見するなりその肩を引っつかんで強引に振り向かせた。
「ヨハン!あんた、謹慎処分を喰らったって本当なの!?」
ちょうど薪を運ぶ手伝いをしていたヨハンはこのラクチェの強引な所業にはさすがに驚いたようでわずかによろめいたが、すぐに体勢を立て直してにこりと微笑んだ。
「おお、おはようラクチェ。今日は朝から君の姿を見ることができるとはなんと幸運な一日の始まりだろう」
「ごまかさないでちゃんと答えなさい!」
いっそすがすがしいまでの命令口調に周囲の方がギョッとする。が、ヨハンは動じた様子もなく肩をすくめて答えた。
「私は本心を述べたのだが……まあよい。確かに、私が軍紀を乱したかどで前線を外されて後方待機を命じられたのは事実だが?」
「軍紀を乱したって……どうしてそんな」
「理由など取り立てて言うこともない……ただ私が未熟だったというだけのことだ」
微笑するヨハンに、ラクチェは歯噛みする。口にしそうになった台詞は喉につかえて出てこなかった。どうしてもっと早く話してくれなかったのか、なんて。聞けるはずがない。
彼女の沈黙をどう取ったのか、ヨハンは笑顔で続けた。
「ああ、案ずることはないぞ。次の戦いの地は熱砂の砂漠イード。騎馬隊は砂に足をとられ思うように進めぬ。ろくな戦力にもなれぬことを思えばセリス皇子の命は好都合とも言える」
「ヨハン、あんた……」
「私とて君の側にいることもかなわぬのはつらいが……たとえ身体は離れていようとも心は常に君と共にある。それだけは忘れないでくれたまえ。暗黒魔道士どもは侮れぬ敵……十分に気をつけて」
優雅な仕草でラクチェの右手をとり、甲にくちづける。そしてポケットから取り出した何かをその薬指にはめた。
「……何よこれ」
「私の心が常に君と共にある証だ」
視線を落とした先にあったのは。
淡く金色に光る指輪で。
呆然とそれを見つめていたラクチェは、周囲の視線に気づいてはっと我に返った。
「い、言われなくてもわかってるわよ!まったく、いちいち大げさなんだから!」
つかまれた手を振り払い、ばたばたと走り去る。つかまれた手が、頬が熱い。こんな自分は自分じゃない。
ヨハンの言葉を否定しなかったことに気づいたのはしばらく後のことで、そのことでラクチェは再度自己嫌悪に陥ったのだった。
走り去る小さな背を見送って、ヨハンは苦笑した。
どうも自分は大げさな言葉なしには自分の素直な心も伝えることができぬらしい。テレ屋なラクチェ相手ではそれが逆効果だとわかっていてそうなのだから救いようがないというべきか。
振り払われた手の痛みを忘れようとでも言うようにぎゅっと握りしめた時だった。
「あの……ヨハンさん?」
遠慮がちにかけられた声に背後を振り返ったヨハンは、そこに所在なさそうに佇むラナの姿を発見して苦笑した。
「ラナ殿か……これは失礼、薪を運ぶ途中であったな」
すぐに足元の薪の山を持ち上げて隣にやってきたヨハンを見上げて、ラナは小さく首を振った。
「私はいいんですけど……よかったんですか?ちゃんと説明しなくて」
ラナは彼が処分を受けた理由を知っていた。その主要な原因が自分の幼なじみにあることもわかっていて、それを正したのだと気づいたヨハンの苦笑が深くなる。
「説明の必要などない。ことの発端は私にある。私が未熟ゆえに手を出してしまったのだ。これはラクチェには何の咎もないことだ」
「でも……」
なおも何か言おうとするラナにヨハンは笑顔を向けて遮った。
「ラナ殿。私は戦の前に瑣末な事柄で彼女を惑わせたくないのだよ。ただでさえ次の敵は解放軍にとって未知の相手……他に気をとられていて勝てるとは限らないのだから」
その笑顔を見て、ラナはそれ以上の進言をあきらめたようだった。
「……そうですね。ごめんなさい、出すぎたことを言ってしまって」
「いや、私のことを案じての言葉、出すぎたなどととんでもない。むしろ光栄というものだが……ああ、返って私のほうが義兄上に怒られてしまうかも知れぬな」
冗談とも本気ともつかぬ調子でそんなことを言い出すヨハンに、ラナも苦笑する。
スカサハは相変わらずヨハンを毛嫌いしていて、彼の前では不機嫌な態度を崩そうともしない。ヨハンも彼に嫌われていることは承知の上なのだろうが、それでも「義兄上」と呼ぶことはやめなかった。その真意がどこにあるのかはラナにはわからない。わからないが、せめてラクチェが自分自身の思いに気づくまでには和解していて欲しいと願わずにはいられないのだった。
ヨハンが言ったとおり、砂漠では騎馬部隊は砂に馬の脚をとられるためものの役には立たない。よって砂漠での行軍は歩兵が先陣を切り、騎馬隊は後方を進むことになる。軍師レヴィンはさらに砂漠の南方に位置する商業都市ダーナとさらに南方のメルゲン城への警戒のため騎馬隊は砂漠に踏み入れることをせずに直接南方へ向かうことを提案した。元々砂漠へ踏み込んだのはイード神殿に赴いたイザーク王子シャナンとの合流が目的であるから全軍を持って進む必要はない。メルゲン城にはフリージ家のイシュトー王子が駐留していると聞く。解放軍の行動次第によってはこちらに牙を向けてくるだろう。不意をつかれた時のためのしかるべき対策を講じておく必要があった。
これらの理由から、解放軍の部隊は二つに分けられることとなった。一方はスカサハ、ラクチェを中心とする歩兵部隊で、進路を西にとりシャナンとの合流を目指す。可能ならばイード神殿に巣食うロプト教徒の掃討も視野に入ってはいたが、現在の戦力を考えると得策ではないかもしれない。魔道士相手ということで解放軍で現在ほぼ唯一の魔道士であるアーサーはこちらに配属されている。
もう一方はデルムッド、レスターらを中心とする騎馬部隊で、こちらはレヴィンの進言どおり街道沿いに南へ進路を取った。先遣部隊はすでに国境を越えているはずだ。彼らにはレンスターの状況を調査するという重要な任務も課せられていた。この任務が伝えられたとたんにデルムッドが先遣部隊を志願したのは当然のことかもしれない(ご承知のとおり、彼の妹は現在レンスターにいるのだ)。ヨハンも本来ならばこの先遣部隊に配属されるはずだったのだが、軍紀違反を犯したということで前線を外されて現在はセリスや回復部隊と共に後方にいる。
わけのわからないもどかしさに、ラクチェは苛立たしげに唇を噛んだ。
ヨハンは確かに嘘をつかない。だが本当のことを言ってもくれない。いつも笑っているだけで、自分はその笑顔にごまかされてしまう。そのことに、ひどくイライラする。
似たような感覚には覚えがあった。二ヶ月前、シャナンが自分たちに何も言わずにイードに旅立ってしまった時だ。そうだ、シャナンも何も言ってくれなかった。あれほど連れて行ってくれと、役に立ちたいのだと訴えたのに。結局彼はその日の夜明けを待たずに自分が眠っている間に行ってしまった。そのことが悔しくて、役に立てないことが悲しくて、その日は毎日続けていた剣の鍛錬も休んでしまった。
では今回も同じなのか。自分はヨハンの役に立ちたいのか。それなのに彼が何も言ってくれないからこんなに苛立っているのか。
(どうして……)
落ち着かない様子の妹を横目でちらりと見やったスカサハは、正面を向いたままたしなめた。
「ラクチェ、集中しろ。作戦行動中だぞ」
「……わかってるわよ」
「その割には集中力が散漫だぞ。今がどういう状況かわかってるのか?」
兄の厳しい指摘に、ラクチェは唇を噛んだ。
「……ここはもうイード砂漠の中だからいつ暗黒魔道士が襲ってこないとも限らない、でしょ。ちゃんとわかってるから……」
なおも何か言いたげな兄を目で制した、そのときだった。
前方でにわかに悲鳴が上がった。それが先鋒を任せた歩兵部隊のソードファイターのものであることはすぐにわかった。二人は互いに視線を交わして頷き、すぐさま前線へと走った。
五分と経たないうちに現場に到着した二人は息を呑んだ。
先鋒を任せたのは五人、いずれも元イザーク軍兵士の手練だった。その五人が、このわずかの間に物言わぬ骸と成り果てていたのだ。この世のものとも思えぬその形相は明らかに何らかの恐怖を前にしてのもので、それが何であるか察知した二人の間に緊張が走る。
奇襲はまさしく突然のことだった。ラクチェの背後の砂がいきなり盛り上がり、そこから黒いローブをまとった男が姿を現したのだ。わずか半瞬早く気づいたラクチェはすぐさま身をひねってその場を飛び退った。その影も消えぬうちに男が突き出した掌から放たれた悪霊が黒い塊となってそこを包む。
ヨツムンガンド。悪霊を呼び寄せ相手を襲わせる死の暗黒魔法だ。はじめてそれを目のあたりにして、一瞬ラクチェの動きが止まる。その隙に、魔法をかわされた男は再び砂に潜って姿を消した。
「ラクチェ、ぼうっとするな!」
スカサハの声が飛ぶ。はっと我に返ったラクチェは、すぐさま愛用の勇者の剣を抜き放って身構えた。
再び静寂があたりを包む。二人は背を合わせた状態であたりの気配を探った。
気配は二つ……いや、三つか?こちらに悟られないようにじりじりと移動している。砂にまぎれて正確な位置がつかめない。仕掛けるべきか、否か。迷ったそのとき。
「スカサハさま、ラクチェさま!お二人ともご無事で……」
一人の兵士が駆け寄ってきた。あ、と思ったときには、気配が動いていた。
「伏せろ!」
二人同時に叫んだ。その剣幕に、兵士が驚いて立ちすくんだ。次の瞬間、三方から襲いかかった黒い塊が兵士の全身を包んだ。
「ぎゃあああ!!」
身の毛もよだつような苦悶の悲鳴が上がる。塊が消え去った後、兵士の体がどさりと倒れ伏し、動かなくなった。
恐ろしい光景だった。兵士には恐らく何が起こったかわからなかったに違いない。
すぐさま動いたのはラクチェだった。塊が出現した場所に半瞬で距離を詰め、ろくに構えもせずに砂に剣を突き立てる。
またしても悲鳴が上がった。今度は砂の中からで、背中から胸を貫かれた黒いローブの男がのた打ち回っている。ラクチェはすぐさまその喉に剣を突き立ててとどめを刺し、飛びのく。わずかに遅れて再び黒い魔法が襲い掛かるが、それはスカサハに魔法を放った当人の居場所を教えただけだった。すかさず距離を詰めたスカサハは銀の大剣で魔法を放った男の首を跳ね飛ばした。
見事な連携プレーだった。だがそれが二人の間にわずかな隙を生んだ。残る一人が放った魔法がラクチェを襲ったのだ。
「ラクチェ!」
「くっ!」
悪霊の塊に襲われたラクチェは苦悶の声を上げた。
通常の攻撃には驚くほどの耐性をみせ、かすり傷程度であればものともしない彼ら双子だったが、唯一の弱点が魔法攻撃だった。至近距離で喰らえばまさに致命的なダメージを負いかねない。まして相手は耐性のない暗黒魔法だ。喰らった瞬間ラクチェ自身もしまった、と思った。だが。
すぐに彼女は異常に気づいた。思ったほどダメージがない。淡い光のようなものが自分を守っている。
「え……」
光を発していたのは、右手薬指の指輪だった。ヨハンに強引にはめられたものだ。程なく、悪霊の塊は光に蹴散らされるようにして四散した。
脳裏をよぎったのは、この世界にいくつか存在するという不思議な指輪のことだった。守備力を強化したり、中には魔法によるダメージを軽減するものもあるという。
「まさか、これ……」
「ラクチェ、後ろっ!」
呆然としたせいで、スカサハの声に反応がわずかに遅れた。
振り返った彼女が見たのは、今まさに再び魔法を放とうとしている暗黒魔道士の姿で。
「――――っ!」
間に合わない。思わず目を閉じる。
だが魔法の衝撃はいつまでたってもやってこなかった。代わりに聞こえたのは、
「戦場ではたとえ敵を倒しても決して油断するなと教えたのに……やはりおまえたちはまだ甘いな」
聞き覚えのある、低い声。
はっと開けた視界の中で、暗黒魔道士が倒れ伏す。その背後で見慣れない、だが美しい長剣を一振りして血糊を払っているのは……
「シャナン……様……?」
呆然と名を呼んだラクチェに、シャナンは記憶よりも日に焼けた端正な貌を向けて笑いかけた。
「油断大敵だぞ、ラクチェ」
「シャナン様!」
歓声を上げたのはスカサハも同時で、二人は同時にシャナンの下に駆け寄った。
「ご無事だったんですね!」
声を弾ませるスカサハ。シャナンが頷く。
「当然だ。このとおり、バルムンクも取り返してきたぞ」
「これが……神剣バルムンク……」
息を呑んで二人はその長大な剣を見つめた。
それは確かに殺戮のための道具であるはずなのに、息を呑むほどに美しい剣だった。ややそり身の、光り輝く長大な刀身。柄にも意匠が凝らされ、全体に他を圧する存在感を放っている。神剣バルムンク。剣聖オードが振るったといわれる、十二聖戦士の神器の一つ。初めて見る実物に言葉もない二人に、シャナンは小さく笑って剣を鞘に収めた。
「話は噂で大体聞いたぞ。イザークを解放したそうだな。おまえたちだけでは正直どうかと思っていたが……よくやってくれた」
大きな手がふわり、と頭を撫でていく。それでようやく再会の実感が湧いてくると同時に胸に熱いものがこみ上げてきて、ラクチェは声を詰まらせた。
「シャナン様……あの、」
「シャナン様ぁ、もういいですかぁ?」
不意に戦場には場違いとも思えるそんな少女の声が聞こえて、ラクチェはとっさに言いかけた言葉を飲み込んだ。シャナンはといえば、何かを思い出したように背後を振り返って声をかけている。
「そうか、忘れるところだったな。パティ、もういいぞ」
声に応じるように砂山の影から姿を現したのは、長い金髪をおさげに編んだ少女だった。手に大きな袋を抱えているところを見ると盗賊だろうか。少女は空色の大きな瞳をくるりと動かして、情けない声を上げた。
「もー、シャナン様ったらひどーい!危険だから隠れてろなんて言っといて一人でさっさと先に行っちゃうし、オマケにあたしのこと忘れてるし!こっちはイードの傭兵とか暗黒魔道士なんかに追っかけられて大変だったんだからぁ!」
「ああ、わかったわかった。悪かった。怪我はないか?」
「あ、それは全っ然平気。ご自慢のスリープの剣で眠らせてきちゃいましたv戦利品だって全部無事なんですよぉ。すごいでしょ!」
「そうか、それはお手柄だったな」
シャナンが微笑んでぽん、と彼女の頭に手を置くのを見て、ラクチェはどきりとした。
「シャナン様、そちらはいったい……」
「ああ、彼女はパティといって……」
スカサハの問いに答えようとしたシャナンの言葉にかぶせるようにしてパティはシャナンの腕にしがみついて答えた。
「はーい、あたしパティ!シャナン様の恋人でぇすv」
「え?」
ギョッと目を見開く二人に、シャナンが慌ててパティをたしなめる。
「こら、パティ。変なことを言うな」
「なーんちゃって、ホントはまだ予定なんだけど。でもすぐになってみせるからね。あなたたちは?」
呆然として言葉もないラクチェの代わりにその問いにはスカサハが答えた。
「俺はスカサハ、こっちは妹のラクチェだ。イザークの出身でシャナン様のいとこにあたる。君の出身は?」
「ええっ、じゃあ二人ともイザークの王族なの!?すごーい!あ、あたしはただの盗賊よ。孤児院の出だから出身もわかんないの。育ちは一応コノートね。イードの神殿に盗みに入ったはいいんだけど、騒ぎに巻き込まれちゃって……」
「イード神殿に!?って、あそこは暗黒魔道士の巣窟で」
「そうよ。あたしこれでも腕利きなんだから。あそこの奴等って黒いフードばっかかぶってて不気味だけど財宝はけっこう隠し持ってたからいい稼ぎになったわ」
けろりとそんなことを言うパティに二人は唖然としたが、シャナンはすでに慣れているようでさっさと話を取りまとめに入った。
「パティ、自慢話はそのくらいにしておけ。ラクチェ、セリスはどこにいる?」
「え……あ、もう少し後方に……私たちは先遣部隊だったので」
「そうか。ではいったん戻って合流しよう」
「え?でも、イード神殿は」
「心配いらん。暗黒魔道士などバルムンクの前には敵ではなかったからな」
「え、えっ?」
話の理解できない二人にパティが呆れたように腰に手を当てて言った。
「にっぶいわねえ、シャナン様が全部倒したって言ってるんじゃない!」
「ええっ!?」
* * *
「シャナン!」
二ヶ月ぶりに姿を現したオードの後継者に、セリスが歓声を上げて駆け寄った。
「無事だったんだね!」
がっちりと握手を交わしながらシャナンが不敵に笑う。
「当然だろう。セリスは私が暗黒魔道士などに遅れをとると思っていたのか?」
「もちろん、信じてたよ。それでもやっぱり心配だったから……ほんとに、無事でよかった」
「そっちこそ大変だったな。私のほうこそ礼を言わねばならん。イザークを解放してくれてありがとう」
「それは皆ががんばってくれたおかげだよ。私一人の力じゃない。それに、戦いの本番はこれからだしね」
「ああ、そうだな」
和やかに会話する二人の姿に、誰もが安堵の表情を浮かべている。その中で一人、ラクチェだけは落ちつかなげに周囲を見回していた。ヨハンの姿が見えないのだ。後方待機を命じられた彼は確かにここにいるはずなのに。できればこのまま姿を表さずにいて欲しい。そう考えている自分がいることにラクチェは気づいている。
シャナンは、ドズル家を憎んでいる。恐らくは、誰よりも。長じてからは昔ほど感情を表にすることはなくなったが、その分憤りは彼の深いところへ押し込められていった。その彼が、ヨハンを見てどう思うのか。何を口にするのか。想像するだけでも恐ろしくて、思わず自分の肩を抱きしめる。
「……ラクチェ?どうしたのだ、こんなところで」
不意に背後から掛けられた心配そうな声に、ラクチェは文字通り飛び上がるほど驚いてあとずさった。
「な、なっ……ヨハン、あんたいつのまにっ……」
ヨハンは彼女の反応に小さく肩をすくめた。
「私は先ほどからここにいたぞ。君が気づかないとは珍しいことも……おや?」
ふと視線を上げたヨハンの表情がすっと引き締まった。慌てて背後を振り返ろうとしたラクチェは、いつのまにか歩み寄ってきていたシャナンに気づいてぎくりと肩を揺らした。
「……見かけない顔だな。何者だ」
厳しい声。誰何でありながら糾弾の響きを持つそれは、明らかに彼がヨハンの存在を知っていて声をかけたことを表している。対するヨハンは、動じた様子もなく微笑して答えた。
「相手の名を問うならまずは自分から名乗るべきだと思うが……私があなたの名を存じ上げている事実の前では意味はないようだな。私はドズルのヨハンだ。シャナン王子、あなたが私を知らぬのも無理はない。私はそこにおわすセリス皇子及びここにいるラクチェの説得に応じて先ごろ解放軍入りしたばかりゆえな」
堂々と、はっきりと彼は自分の名を口にした。それがどういう意味をもつか知った上でだ。シャナンの両眼がすっと眇められ、剣呑な光を帯びる。
「……私をイザークの王位継承者と知った上でその名を名乗るのか」
「知るが故にこそ。私はイザークをあなたにお返しするためにここに来たのだから」
よどみなく答えて、ヨハンはシャナンと正面から相対した。
にわかに現れた緊迫の場面に、周囲の者たちは言葉もない。それはラクチェも同様で、ただ息を呑んで対峙する二人を見つめている。
やがて絞り出されたシャナンの声は押し殺されてひどく平坦に響いた。
「……噂には聞いている。ドズルの第二王子の裏切りが解放軍を勝利に導いたと……その王子は父親と弟の首を手土産に降伏したのだとな。街の者は皆言っていたぞ。己の命を肉親の血で贖うのがドズルのしきたりか、と」
感情がこもらない代わりに、ひどく毒を含んだ言葉だった。周囲の者は声を失って毒を吐くオードの継承者を見つめた。
「貴様はそれでもなおドズルを名乗るのか」
『裏切りの一族』の名を、あえて名乗るのか。
シャナンの舌鋒は容赦がなく、受け止めるヨハンよりも周りの者の方が痛みに耐えかねて目をそむけるほどで。耐え切れなかったラクチェが、二人の間に割って入ろうとする。
「……シャナン様、これ以上は……」
そのラクチェを制したのは、他ならぬヨハンだった。
「いいのだ、ラクチェ。シャナン王子にはその権利がある。理由はどうあれ、人を率いる立場にいた私が一族の暴虐を止めることもできず見過ごしてきたのは事実だ。これは詫びてすむような問題ではないのだから」
「ヨハン……でも」
なおも言い募ろうとして、ラクチェは口を閉ざした。ヨハンが微笑んで首を振ったのだ。彼はその笑みのままにシャナンに向き直った。
「シャナン王子、先ほどの答えを返そう。私はドズルのヨハンだ。それ以外の何者にもなれぬのだ。だから私はここにいる。逃げも隠れもせぬ」
「ではこのバルムンクの錆にされても文句はないのだな。私の前に現れた以上、その程度の覚悟はできているのだろうな」
言い放つなり、シャナンは腰の神剣を抜き放ってヨハンの眼前に突きつけた。
「シャナン様!」
ラクチェが悲鳴に近い声で叫ぶ。銀色の刃を目の前に突きつけられても、ヨハンは微動だにしない。無言で、裁きを待つようにただその場に立ち尽くしている。
「そこまでだ、シャナン」
緊迫した空気を破ったのは、セリスだった。神剣を握る手を押さえて、彼は厳しい声で言った。
「ヨハンを説得すると決めたのは私だ。彼はそれに従ってくれた。だから、これ以上は私が許さない」
「セリス……」
「この先は憎しみだけじゃ戦っていけないよ。彼の力が必要なんだ。シャナンの気持ちはわかるけど……堪えてくれないか」
呑まれたような沈黙が訪れる。それを破ったのは、シャナンがバルムンクを鞘に収める金属音だった。
「……リーダーらしくなったな、セリス。それでこそ解放軍の盟主だ」
「シャナン……」
ほっとした様子のセリスに小さく笑い返して、シャナンはヨハンを睨んだ。
「……貴様の命、一時預けるぞ。もし裏切れば……そのときは容赦しない」
低い恫喝を投げつけてくるりと身を翻す。足早に立ち去るその後ろ姿に不安げな視線を送って、セリスはヨハンに向き直った。
「ヨハン殿……私たちはあなたの真実の姿を知っている。だから、あなたを信じる。これだけは忘れないで下さい」
その言葉を受けてヨハンがすい、と膝を突く。
「もったいない言葉……ドズルのヨハン、身命を賭してあなたのために戦うことを約束しよう」
「ありがとう……さっそくで申し訳ないのだが、前線へ伝令に走ってもらえるだろうか。いつまでも兵力を分散しているのは心許ない。ここは騎馬部隊と合流して南を目指そうと思うんだが」
「それは正しい判断だな。ではこの先の街道で待つよう伝えてまいろう」
頷いて、ヨハンは身を翻した。
少し迷って、ラクチェがそのあとを追う。その後ろ姿を見やってスカサハが眉を跳ね上げたが、口に出しては何も言わなかった。
ラクチェがヨハンに追いついたのは、彼が自身の馬に鞍をつけているときのことだった。
「ヨハン!」
名を呼んでしまってから、ラクチェは迷った。あんなことがあった後で何を言えばいいのだろう。言葉につまった彼女に、振り返ったヨハンがふわりと笑う。
「おおラクチェ、我が麗しの女神。しばしの別れを惜しむためにわざわざここまできてくれたのか?」
「……違うわよ」
反射的に返してしまってから、はっとする。こんなことが言いたいわけじゃないのに。
拳を握りしめたところで指輪の存在を思い出して、改めて口を開いた。
「一応、これの御礼を言おうと思って。さっきはこれのおかげで助かったわ」
指輪を示してぶっきらぼうに言ったラクチェに、ヨハンはにこりと笑って答えた。
「そうか、役に立ってよかった」
「これ、何なの?ただの指輪じゃないわよね?」
「ああ……まだ説明していなかったな。これはバリアリングといって、所有者を魔法攻撃から守る力を持つ不思議な指輪なのだ」
「これが……」
「私が生まれた際にバーハラ王家より下賜されたものだそうだ。今の私には何の価値もないものだが、君の役に立ったのならこれほど喜ばしいことはない」
ヨハンは笑みを浮かべてそう言ったが、ラクチェはその言葉に痛みを覚えて立ち尽くした。
やはりこの男は生粋の貴族で。自分とは住む世界が違うのだ。王宮に出入りし、夜毎の夜会で貴婦人を相手にその夜限りの愛を囁く、そんな生活が似合う男。自分もそんな女たちの一人に過ぎないのだろうか。
はっとして、ラクチェは慌てて頭を振ってその考えを頭の隅に追いやった。どうしてしまったのだろう。こんなことを考えるなんて、本当にらしくない。この男を前にすると自分は自分を保てなくなってしまう。
黙りこんでしまったラクチェの頬にふわり、と何かが触れていったのはそのときだ。はっと顔を上げると、至近距離で青の瞳が微笑んだ。
「君が私のことを忘れないように……これは、おまじないだ」
「…………っ!」
ぼん、と火がついたように真っ赤になるラクチェににっこりと笑い返して、ヨハンは愛馬の背にひらりとまたがった。
「では、しばしのお別れだ。また会おう、私の女神」
「……この、キザ男っ!いっぺん死んでこいっっ!」
拳を振り上げながらの怒声に、心から楽しそうな笑い声を残して彼は走り去っていったのだった。
(C)miu 2005- All rights reserved.