■幾千の夜を越えて 第八章-1■
ついに解放軍はグランベル帝国へ到達した。シアルフィ城にて皇帝アルヴィスを撃破し、これを持っていまやその勢いのみならず実力でも帝国軍を上回りつつあることを証明した彼らは、シアルフィ城を帝国攻略の当面の本拠地として足場を固めに入った。
シアルフィは逆賊シグルドを生んだ土地として帝国本土内でありながら苛烈な弾圧を受けていた。それゆえに、解放軍を迎える民衆の熱狂ぶりにはそれまで幾多の土地を解放してきた歴戦の勇者たちをしてたじろがせるほどのものがあった。
彼らがこれほどまでに解放軍を歓迎した理由の一つに、盟主セリスがシアルフィ家の血を引くことが挙げられるだろう。帝国の弾圧に疲弊しきっていた彼らはかつてこの地に善政をしいていたシアルフィ家当主を、民と親しむことを忘れなかった心優しい公子を忘れていなかった。セリスがシグルドの息子であるというただその一事だけで、彼らにとっては解放軍を無条件で歓迎する理由になった。
彼らの歓待を受けて、解放軍は連戦の疲れを癒し次の戦いへ備えて爪を研ぎ澄ます時間を得た。この戦いが『聖戦』であることをいまや兵士の誰一人として疑ってはいない。誰もが負けられない戦いを意識して、真剣な表情で訓練に取り組んでいる。その一方で、影では聖戦後の世界を睨んでの諸々の準備も着々と進められていた。
もちろん、帝国とてこの期間ただ手をこまねいていたわけではない。皇帝アルヴィスの崩御(と、一般には伝えられたが実質的な戦死であることは誰の目にも明らかだった)は確かに各地に衝撃を与えたが、帝国本土には各公爵家の直属の精鋭部隊がまだ無傷で残っているのだ。しかも、その皇帝が全権を委譲したと伝えられるユリウス皇子はバーハラにて健在であり、婚約者であるフリージ家のイシュタル王女と彼女が率いる部隊の他に素性の知れない十二魔将と呼ばれる配下を伴い不気味な沈黙を守っている。
その中で、先陣を切って動き出したのがエッダ家であった。神に仕える司祭の一族はマンフロイの策謀とロプト教の台頭により完全に力を失っていた。ここで何らかの力を示さねば六公爵家としての地位どころかその存在自体が風前の灯だった。出撃は生き残りのためのいわば苦肉の策であったわけだが、生前のクロードがこの状況を目にしていたら「神の従僕たる司祭が何と浅ましいことを」と嘆いたであろうことは容易に想像がつこうというものだ。仔細はともあれ、その力がいまや帝国と同等にまで膨れ上がった解放軍には比肩するべくもなかったことを付記しておく。
エッダ家が動いたことで、戦況は一気に加速した。戦いが混迷の度合いを深める中、他公爵家は解放軍の動きをつかもうと躍起になった。シアルフィと国境を接するドズルも例外ではない。先ごろイザークにて戦死の確認された当主ダナンに代わり家督を継いだ長男ブリアンは、その居室でエッダ方面に放った密偵の報告を受けていた。
「―――では、解放軍は既にエッダ城を包囲しているというのだな?」
低く重みのある当主の声に、密偵は頭を下げて答えた。
「さよう。当主卿は慌てて各公爵家に援軍の依頼を出された由にて、間もなくこちらへも早馬が到着する頃かと思われます」
「早馬ならば昼頃着いた。何やら騒がしくしているようだったが」
「……いかがなさるので?」
密偵は視線を上げないよう細心の注意を払った。厳格なことで知られるこの新しい当主は、部下に自分の表情を悟られることを由としない。彼の父ダナンの頃ならば今の問いだけでも十分に勘気を買う可能性があった。
冷たい視線が突き刺さる。密偵は冷水を浴びせられるような身の竦む思いを味わった。
「……一介の密偵には出過ぎた問いだが、まあよい。教えてやろう。私の答えは、否だ」
「援軍は、出さぬ……と、かように仰せですか?」
声が、震えた。
「左様。エッダ家など六公爵の名にすがり細々生き延びるだけの落ちぶれた家に過ぎぬ。これを助けたとて我がドズル家に何の益があるものか。それこそ兵の無駄というものだ」
「では……」
「我らが向かうべきはシアルフィ城。全軍の半数以上をエッダに差し向けた今ならば切り崩すチャンスもある。望ましくはエッダに向かう兵の後背をつき逆賊セリスの首級を挙げることが最上だな。我が愚弟の首級もそこで拝むことができよう」
帝国を裏切り逆賊に荷担したばかりかその手で父と弟の命を奪ったドズル家次男の名はすでに禁句だった。この存在ある限り、ドズル家の繁栄はあり得ない。ブリアンにとって弟の首を取ることはもはや至上の命題なのだ。
弟の命を自らの手で奪うことを宣言したブリアンは、表情ひとつ変えぬまま目の前にひれ伏す密偵を見やった。
「おまえはすぐにシアルフィ方面へ向かえ。シアルフィに展開する解放軍の陣容、兵数、委細漏らさず調べ上げて報告せよ。その力、期待しているぞ」
「……ははっ!」
もう一度深く頭を下げた密偵は、素早く窓の外に姿を消した。
それへ一顧だに目をくれることなく、ブリアンは深いため息をついてソファに身を沈めた。
「あの痴れ者が……」
ブリアンは当年三十二歳。次男ヨハンとは八年、既に鬼籍に入った三男ヨハルヴァとは十二年の差がある。その故か、幼い頃から共に遊んだ記憶がない。ダナンの正妻であった彼の母が妾腹の生まれである彼らを疎ましく思っていたのは周知の事実であったし、幼い頃よりいずれドズル家を継ぐ者としての英才教育を受けていたため、二人の姿がブリアンの視界に入ることは少なかった。彼らは半分だけ血のつながった『赤の他人』であり、今後のブリアンの人生に何らの影響を及ぼすこともない存在のはずだった。
それが微妙な変化をみせたのは、十八年前のあの日からだ。
当時既に十四歳になっていたブリアンは、祖父ランゴバルトの元で政務の勉強を始めていた。ランゴバルトは愚鈍な印象の強い息子よりも利発な孫に目をかけ、ドズル家の将来を託そうとしていたようだった。強く厳しい祖父はブリアンにとってすべてに置いて目標だった。
その祖父が、「すぐに戻る」と言い置いてシレジアとの国境に近いリューベック城に出かけていったまま戻らなかった。噂で祖父は逆賊シグルドの率いる軍に敗れ去ったのだと、祖父をその手にかけたのが自分にとっては叔父にあたるレックスであると知った時、意外なほど驚かない自分がいた。
叔父レックスとは実は周囲が予想するよりも多くの面識を得ていたブリアンである。彼は祖父や父とはそりがあわないようだったが、甥にあたる彼ら三兄弟には優しい青年だった。母の存在があって表立っては家を訪ねてくることもなかったが、折に触れて彼と交わす会話はいつもブリアンに新鮮な驚きを与えた。めったに外に出ることもなく狭い世界しか知らないブリアンに、レックスは様々なことを教えてくれた。
「何が正しいかなんて人それぞれなんだ。俺とオヤジや兄貴の正義はえらくすれ違っちまったけど、おまえは間違えんなよ?」
そう語る声を、今でも覚えている。
父や祖父と彼が怒鳴りあう声を何度も耳にした。時には本気で憎しみあっているのかとすら思った。だから、レックスが祖父を討ったと聞いたときは衝撃を受けはしたが、納得できないことではなかった。祖父が討たれたと知った父ダナンが拳を震わせ机に叩きつけたときも、その後ろ姿に見たのはレックスに対する憎しみ、それのみだった。だが。
その叔父レックスも、バーハラ平原の戦いで命を落とした。遺体はメテオの炎に焼かれる前に回収され、ドズル家へと運ばれた。遺体が安置された棺を前に、さしものブリアンも言葉を失った。
隣には、父ダナンが立っていた。その瞳には何の感情も浮かんではいなかった。実の弟の遺骸を前にして、一言も発することなくただ立っている姿は異様ですらあった。ドズル家の家名に泥を塗ったことに対する罵声でも浴びせにきたのだろうか。そんなことを考えたとき、だった。
「……この、馬鹿者が……」
ぽつり、と。
こぼれたその声は、はっきりとブリアンの耳にも届いた。
「……父上?」
訝しげなブリアンの声にも、返答はない。その存在ですらも、彼の目には入っていないのだろう。感情を見せない眼差しは、ただひたすらに弟の遺骸へと注がれている。
「……だから、言ったのだ。意地を張らずに戻れと……父上もいずれは許してくださると……だのに、このような姿で戻ってきおって……!」
語尾が震え、激したように喉を詰まらせる。固く固く握りしめられた拳からは、血が滴っていた。
「イザークの女などに現を抜かしおって……この、痴れ者が……!」
ブリアンは、声もなくその姿を見つめていた。
その瞳に涙はない。だが、父は確かに泣いていた。口では罵りつつも、弟の死を悼んでいた。
声をかけることは憚られた。レックスは名目上は帝国に仇なす逆賊である。ランゴバルト亡き今既にドズル家の当主であるダナンが彼の死を悼むことができるのは、ここだけなのだ。それを邪魔することは、ブリアンにはできなかった。
そっと広間を後にする。すべりでた廊下で、彼は意外なものを目にした。
「あにうえ……?」
六歳のヨハンが、当時二歳でまだよちよち歩きだったヨハルヴァの手を引いて、そこに立っていた。彼らが言葉を交わすのは、実質的にこれが初めてだった。
「……ヨハン?なぜここにいる」
口調が詰問するような形になったのは、彼の驚きを示していたと言ってよい。
「おじうえが、こちらにいらっしゃるときいたのです」
ヨハンははきはきと答えた。齢六歳ながら、つたない敬語をきちんと用いている。
「レックスおじうえは、どこですか?」
ブリアンは迷った。まだ幼い弟たちに、レックスの死が理解できるとは思えない。考えた末に、彼はぎこちない笑顔を浮かべて答えた。
「……叔父上は今父上とお話し中だ。今は邪魔をしないほうがいい。もう少し待ちなさい」
ブリアンの言葉に、ヨハンは悲しげに眉を寄せた。
「ちちうえと?おこえがきこえないようですが……けんかなどされていませんよね?」
彼らの確執がこんな幼い子供にまで影を落としていると知って、ブリアンは胸を痛めた。
「……大丈夫だ。声が聞こえないのだから、喧嘩などされているはずがないだろう?」
「よかった、あんしんしました」
にこ、と笑うヨハンに安堵して、ブリアンは二人を促した。
「さあ、あちらへ行こう。ばあやに言って甘い菓子をもらってこような」
眠そうに目をこすっていた幼いヨハルヴァがぱあっと顔を輝かせた。
「おかし、おかし!」
つないでいた兄の手を振り切って走り出すヨハルヴァに、ヨハンが笑いながら声をかけた。
「ヨハルヴァ、あわててはしるところぶよ!」
「あにうえ、はやくはやく!」
微笑ましい二人の姿に、ブリアンも強張っていた口元を緩めた。
―――それから、彼ら二人と交流を持つ機会はなかった。母に厳しく規制されたためだ。
「あなたはいずれこのドズル家の家督を継ぐ身なのですよ。あのような下賎の輩と関わってはなりません」
そう言った母の言葉に理不尽を覚えつつも、従うしかなかったブリアンだった。
だから、彼らがどのような成長を遂げたのかはよく知らない。たまにヨハンの奇行(と、周囲には解釈されていた)やヨハルヴァの貴族らしからぬ奔放さについての噂が聞こえてくることもあったが、それだけだ。直接顔を見るに至ったのはあれから実に十五年後、彼らがイザークの領地を任されそこの領主として着任するために出発する、その祝いの宴の席のことだった。
宴の席で初めて見かけたヨハンは、周囲の貴族たちと歓談を交わしていた。会話する相手は主に女性ばかりで、奇妙な詩を歌い上げては一方的に別れを惜しんでいるように見えた。他の貴族たちは「噂どおり、ドズルの次男坊殿は痴れ者よな」などとひそかに囁き交わしていて、ブリアン自身も苛立ちを覚えた。
一方、ヨハルヴァは盛装を着崩しただらしない(と、彼には見えた)格好で一人酒を飲んでいた。こちらにはほとんど近寄る者もない。粗野な印象の強い彼は貴族社会では浮いた存在であり、グランベルを離れられることを喜んでいるらしいと風の噂に聞いた。
できの悪い、と解釈されがちな弟たちの故か、ブリアンの元には今宵の主役ではないにもかかわらずたくさんの貴族たちが近づいてきた。その誰もにあわよくばドズルの次期当主と誼を結ぼうという下心が見え隠れしていて、その事実はブリアンを少なからず疲弊させた。
(あやつらが少しでもまともであればこのような苦労もあるまいに)
理不尽なことを考えて、その考えにさらに脱力する。いいかげんに我慢の限界を超えたブリアンは適当な理由をつけてその場を離れ、バルコニーに向かった。
ばさり、と乱暴にカーテンを押しのける。……と。
「……本当に、お別れなのですね……」
若い娘の声だった。美麗なデザインのドレスに身を包んだ娘は、悲しげに表情をゆがめ俯いている。その前に立ちその手をとっているのは、あれは……
「泣かないで。あなたの涙に出会うと決意が鈍ってしまいそうだ。どうか笑って見送ってください」
「他の方と同じことをおっしゃるのね……罪なお方」
「異なことをおっしゃる。私は引き裂かれそうな思いに耐えて誠心誠意心をこめてあなたに別れを告げているというのに」
「嘘はおっしゃらないで。せめて最後は真実のお顔で私に接してくださいまし」
「アウレーリエ嬢……」
「強くてお優しいあなたが好きでした……もう会うことはありませんけれど、きっと一生忘れはいたしません。どうかお元気で……ヨハン様」
娘がドレスを翻して走り去る。それを呆然と見送るブリアンに、ヨハンが苦笑して声をかけた。
「別れの愁嘆場を立ち聞きとは……兄上らしくもありませんな」
「……別にそんなものが見たくてここにきたわけではない」
憮然として答える。兄上、という呼び名が妙に空々しく聞こえる気がするのは気のせいだろうか。
「ではなぜこちらへ?」
「……少し酔った。風にあたりたかっただけだ」
「では、私は席をはずしたほうが?」
「別に、誰がいようとかまわん」
なぜそんなことを言ったのか。今でもわからない。
ヨハンは苦笑して、傍らに立った。
「兄上は……あちらの状況をお聞き及びだろうか」
「……リボーでの父上の生活ぶりならばな」
イザークの王となった父ダナンは頑迷な抵抗を続けるイザークの民に対して苛烈な弾圧を加える一方、居城であるリボーに国中の富を集めて贅沢の限りを尽くしているという。統治者としてはもっとも愚劣で、最悪のやり方だ。そんなやり方しかできない父を軽蔑する一方で、その心情も理解できてしまうブリアンだった。
これは、復讐なのだ。父を、弟を奪ったイザークに対しての、子供じみた恨みの感情の発露なのだ。
もちろん、ランゴバルトやレックスを直接死に至らしめたのはイザークではない。かの国の民には何の罪もないことだ。だが、レックスがイザークの王女に現を抜かしそのゆえに母国に刃を向けたのは紛れもない事実である。そしてそれだけで、彼にとってはイザークという国を蹂躙するに十分足りる理由となりえるのだ。
「父上のなしようは目に余る。あれは統治者のなすべきことではない……あれでは、あまりにも……」
拳を握るヨハンを、ブリアンは静かにさえぎった。
「ヨハン。おまえはいつから父上に意見できるようになった」
「兄上」
「統治者の心得など、おまえ如き若輩が口出しできることではない」
「しかし」
「このドズルを維持することはおまえが思うよりはるかに難しいことなのだ。おまえにも、いつかわかる日が来る」
「………」
「現実を知らぬひよこのくせに父上に意見するなど百年早い。黙ってイザークに赴き現実を学んでくるがいい」
そう言って、俯いたまま言葉を失う弟に背を向けた。
あの日、既に兄弟の道は違えられていたのかもしれない。
ため息をついて、ブリアンは身を起こした。執務室を出て、寝室へと向かう。そこでは彼の妻が、我が子と共に彼を待っているはずだった。
扉をノックすると、中から声が返った。
「どうぞ」
応じて、ドアを開ける。顔を上げてこちらを見た妻が笑顔を向けてきた。
「お帰りなさいませ、ブリアン様。ずいぶんお疲れの顔をなさってますのね」
「……眠っていていいと言っただろう、アウレーリエ」
「私はあなたの妻ですもの。あなたがお疲れで戻っていらっしゃるのならきちんとお迎えしたいのです」
「すまんな」
かつて弟の恋人だった女性は、ふわりと微笑み返した。
妻アウレーリエとは親同士の決めた政略結婚だった。あの日弟と愁嘆場を演じていた女性が見合いの席に現れたことにためらいを覚えなかったといえば嘘になる。彼女自身はそのことについては割り切っているようで、よく尽くしてくれた。子供も生まれた。彼らの夫婦生活はほぼ円満だった。
衣服を着替える衣擦れの音だけが寝室に響く。妻の手を借りて室内着に着替えながら、ブリアンは低く言った。
「……明日、出撃する」
「……そう……ですの……」
妻は言葉に詰まったようだった。どこへ行き、誰と戦うのか。それはあまりにも明白だった。
「私が戻らなかった場合は……わかっているな」
「そのようなこと、おっしゃらないでくださいまし。ブリアン様は大陸に冠たる勇者にて聖斧スワンチカの継承者、そのようなことがありえるはずが」
「祖父も、かつてはこの聖斧を手にしながら敗れた。絶対など、この世にはあり得ない」
「ブリアン様……」
俯く妻の肩に、手を置く。
「アウレーリエ……ドズルの未来は、おまえの肩にかかっているのだ。わかるな」
小さく頷くのを確認して、彼は小さく笑った。
「それでよい。……子供たちを、頼むぞ」
「はい……無事のお帰りを、お待ちしております」
照明を落とした部屋の中、二つの人影が重なった。
翌日、早朝。
ブリアン率いるドズルの精鋭部隊グラオリッターは整然とドズル城を進発していった。
彼らにとっての最後の戦いが始まろうとしていた。
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