■幾千の夜を越えて 第五章-1■
リボー城を制圧した解放軍の前に次に立ちふさがったのは予想されていた帝国の増援部隊などではなく、見渡す限りに続く広大なイード砂漠だった。昼夜の寒暖の差が激しく、夜は身も凍るほどの寒さに、昼は真夏もかくやという暑さに見舞われるこの地は旅人たちに死の砂漠として恐れられている。もっとも、ここが死の砂漠と呼ばれる所以はその気候よりもむしろそこを根城にする暗黒魔道士たちによるところが大きいのだが。
リボー城制圧からすでに二週間が経過している。すぐにも再開されるものと思われていた進軍は止まったままだ。解放軍は今後の進路を巡って現在紛糾していた。これには陣容の整備、人材及び補給路と糧食の確保などさまざまな要因があったのだが、それらはあくまで上層部の問題であって、実際に戦う兵士たちにはあまり関係がない。次はグランベルの正規軍が相手かと気を引き締めていたところだっただけにかえって気力をそぐ結果になったといえる。解放軍の戦士たちは進軍の許可が下りない苛立ちの中で交代で見張りに立ったり訓練の時間を増やしたりすることでじっと耐えて出発の時を待っているのだった。
ここリボー城の見張り台は役割を果たすにふさわしいすばらしい景観を有している。古くはイザーク王国の玄関口及び交通の要衝としても栄えた地である。古い話はともかくとしても、眼下に広がる雄大な自然は出撃できない苛立ちにすさみかけていた兵士たちの心を癒すだけの効果を十分に持っていた。
「あの砂漠の向こうにイード神殿があるのね……」
呟いて、ラクチェは目を細めて西の空を眺めやった。
リボー城から西になだらかに続く草原がある一定距離でふいにぷつりと途切れる。そこから先は灼熱の黄砂と荒涼とした岩山ばかりが続き、吹き荒れる砂嵐に地平線すら見えない。死の砂漠イード。かつてここでレンスター王国の王太子夫妻と配下のランスリッターがトラキア王トラバント率いる「戦場のハイエナ」ことトラキア竜騎士団によって全滅の憂き目に遭った事実は『イードの虐殺』として名高い。砂漠の中央に座する神殿はロプト教団の根城で、教団の暗黒魔道士たちが道行く旅人を襲うようになってからは鳥すら行き交うことのない文字通りの死の砂漠となっていた。
イードと聞いてラクチェが反射的に思い出すのは10歳年長のいとこのことだ。イザーク王子シャナン。正統の証たる神剣バルムンクを取り戻しに暗黒魔道士の巣窟に単身乗り込んでからすでに二ヶ月がたとうとしている。イードへ赴くことが決まった際には同行させてくれるようにスカサハと共に何度も頼み込んだのだが、結局連れて行ってはくれなかった。それは未熟な自分たちを思いやってのことだったのだと今ならわかる。だが当時は置いていかれた悔しさに涙で枕を濡らしたものだった。
この砂漠の向こうに、シャナンがいる。もうすぐ会える。それはラクチェにとっては半ば決定事項のようなものだ。暗黒魔道士の恐怖がどれほどのものかはいまだに想像の域を出ないが、彼ほどの凄腕の剣士が負けるなど考えられない。いっそ無邪気なほどに彼女はそう思い込んでいた。
とはいえ、心配していないのかというとそういうわけではないのだ。この見張り台にあがるたびに毎日のようにそのことを思い出し、ため息をつく日々が続いていた。
もう一度見上げた空に、ふと鳥の影を見た気がしてラクチェは目を細めた。だんだん近づいてくるそれが鳥でないと気づいたのは五分後だ。朝から偵察に出ていたペガサスナイトの少女フィーが戻ってきたのだとわかる頃には、騎影はすでにはっきりと天馬ペガサスの形をとっていた。
馬上で少女が手を振っている。ラクチェは苦笑して手を振り返してやった。ひゅう、と風を切って城の上空を旋回したペガサスは、今度は見張り台のバルコニーめがけてまっすぐに舞い降りてきた。
「ただいまぁ。あー、疲れたぁ!」
ペガサスの背から飛び降りるなりそんなことを言ってぐるぐると腕を回すフィーに、ラクチェは笑いながら水筒を差し出した。
「お疲れ様。お水いる?」
「わ、ラクチェったら気が利くー!」
歓声を上げて水筒を受け取ったフィーはそれをごくごくとあおる。その間にラクチェはフィーの愛馬に水を与えるための手桶を取って戻ってきた。
「ありがと、ラクチェ。後は自分でやるわ」
「いいの?疲れてるならやってあげるのに」
「ペガサスナイトたるもの、命を預けるペガサスの世話は必ず自分でせよ、ってね。シレジアの天馬騎士団の薫陶の一つなのよ」
「へえ……厳しいのねえ」
「なーんちゃって、あたしのはただの受け売りだけどね」
ぺろりと舌を出して無邪気に笑ったフィーは手桶を受け取ってペガサスに近づいていった。
「マーニャもお疲れさま。今日はたくさん飛んだもんねー」
愛しげに背を撫でるフィーにマーニャが鼻面をすり寄せる。鼻先を指先で掻いてやると気持ちよさそうに鼻を鳴らした。
「今日はどこまで行ってきたの?」
「砂漠の入り口辺りかな。ホントはもう少し近づきたかったんだけど、危なくて全然ダメだったわ」
「危ないって?」
「知らない?最近じゃあの辺りにも暗黒魔道士がうろついてるらしいのよ。木の陰とか岩山とかに潜んでて通りかかる人間を片っ端から襲ってるって話よ。今にもその辺の影から出てくるんじゃないかとひやひやしたわ」
肩をすくめるフィーに、ラクチェは少し考え込んだ。
「……イード神殿は……見えた?」
「ほんの少しね。岩山の上に建ってるから遠くからでも割とよく見えたわよ」
「そう……」
シャナンは無事だろうか。
考え込んだラクチェの心を見透かすようにフィーが覗き込んできた。
「なあに、またシャナン様のこと?ラクチェったら、浮気もほどほどにしとかないと後で後悔しても知らないわよ?」
最初はきょとん、としたラクチェだったが言われた意味を理解すると慌てて反論した。
「う、浮気って何のことよ。あたしは別に」
「そりゃヨハンさんは端から見ててもモロバレなくらいラクチェにベタ惚れ、って感じだけどぉ。そうやって他の人ばっかり見てたらいつか逃げられちゃうんだから」
「ち、違うわよ!あたしとヨハンは別に、こ、恋人ってわけじゃ」
「え、うそー!違うの?あたし、てっきりそうだと思ってたのに!」
そのフィーの驚きように、かえって冷静さを取り戻したラクチェはがっくりと肩を落としてフィーを見た。
「もう……どこからそんな話が出てくるのよ」
「みんなイイカンジだって言ってるわよ。だって、ヨハンさんはラクチェのためだけに軍ごと投降して仲間になったわけでしょ?最近はよく一緒にいるみたいだし。だから、てっきりもうくっついちゃったんだと思ってたのに」
痛いところをつかれたラクチェは声を失って黙り込んだ。確かに、彼は自分のためにすべてを捨てて仲間になってくれた。そのことには感謝している。けれど、それで今までのわだかまりをすべて捨てられたかといえば、そうではないのだ。
ドズル家の人間。そのただ一事にこだわる者は多い。事実、新しい志願兵の中にはヨハンを殺意をこめた眼差しで睨む者もいる。リボーまでの一連の戦いで彼がどんな苦悩を背負ってきたかを知らない彼らはただドズル家の人間であるというだけで怨嗟をぶつけてくる。爆発すれば解放軍にとっても致命傷になりかねないそれを牽制するためにラクチェはなるべくヨハンの側にいるようにしていたのだが、その彼女だとて完全に割り切れたわけではなかった。むしろ誰よりもドズル家を憎んでいただけに、今の自分に対する戸惑いは大きい。
同じ解放軍の仲間とはいえ、フィーはシレジア出身でイザークの事情を知らない。説明してわかることとも思えなかった。
言葉につまったラクチェにフィーは首を傾げたが、ふと背後を見やってにんまりと笑った。
「……噂をすれば影、ってね。じゃ、あたしはこの辺でv」
「え?フィー?」
慌てて背後を振り返ったラクチェは、そこに話題に上っていた人物の姿を見つけてどきりとした。
「お邪魔虫は退散しまーす。ごゆっくりーぃv」
あっという間にマーニャの背に飛び乗って宙に舞い上がったフィーに、ラクチェは拳を振り上げた。
「フィーったら!……もう、ちゃんと偵察の報告に行きなさいよー!」
「わかってるー!」
あっという間に天空に駆け上がったペガサスは軽く旋回してから厩舎の方へ向かった。その姿を見送ってため息をついたところへ、話題の主である当のヨハンが歩み寄ってきた。
「ラクチェ、見張りの交代の時間だぞ。……今のはフィー殿か?」
「……他にペガサスナイトはいないでしょ」
つい答え方がつっけんどんになるのは認めたくないが彼を意識しているからなのだろう。さっきまではシャナンのことで頭がいっぱいだったはずなのに、もう今は目の前の男に全神経が向かってしまっている。そんな自分に、ラクチェは内心で舌打ちする。恋愛沙汰で自分が振り回される日が来るなんて思いもしなかったのに。
(……って、違う!!)
思わずぶんぶんと頭を振ったラクチェを、ヨハンは不思議そうに覗き込んだ。
「どうしたのだ?先ほどから様子がおかしいぞ?」
「……何でもないわよ。それより、話は聞いてなかったでしょうね」
ちらりと見上げると、ヨハンは苦笑して大げさに肩をすくめて見せた。
「心外だな。この私とて騎士のはしくれ、女性同士の秘密の会話を立ち聞きするような無粋は持ち合わせておらぬつもりだが?」
「信用できたら聞いてないわよ。あんたはいちいち芝居がかってるんだから」
そんな噂が流れていることを知ったら浮かれて何をするか想像もつかない。いやな予感というよりはむしろ恐怖に近いそれに二の腕が総毛立つ感触を覚えたラクチェは腕をさすった。
「おお、なんと冷たい……我が麗しの女神はこの下僕にいまだその心を開いてはくれぬと見える」
今度は額を押さえてそんなことを言い出したヨハンに、
「誰が下僕よっ!」
思わず叫んだラクチェは振り上げた拳でその頭を殴り倒した。だがヨハンは堪えた様子もなく頭を押さえてにこりと笑う。
「いつつ……さすがは我が女神、怒った顔もよく似合う。浮かぬ顔で落ち込んでいるよりはよほどいいというものだ」
「……余計なお世話よ」
それが彼なりのはげましだと、気づいた上でラクチェはそっけなく答えた。だが、次の台詞にはさすがに呼吸がつまるほどの衝撃を受けた。
「浮かぬ顔の理由はイードに赴かれたシャナン殿の安否を気遣ってのこと……かな?」
はっと振り返る。ヨハンは、笑っていた。だが、先ほどの笑顔とは違う。穏やかではあるのにどこか先が読めない。表情がどう変化するのかまったく想像がつかない。
息を呑んだラクチェの目の前で、ヨハンは再び肩をすくめてみせた。
「やはり図星か。心配せずとも、シャナン殿ほどの手練がロプトの暗黒魔道士などに討ち取られるはずもなかろうに」
「そんなのわかってるわよ。あたしは、ただ……」
「それでも不安、か?乙女心とはかくも複雑なものか……いかに詩歌を愛する私といえどもその深遠さを理解するにはまだ程遠いようだ」
「何よ、茶化しにきたの?」
「まさか。私は見張りの交代の時間を伝えにきたのだ。先ほども言ったはずだが?」
「じゃあ、わかったからさっさと行きなさいよ」
邪険に手を振るラクチェにヨハンは小さく首を振って踵を返した。ラクチェの視界に真紅のマントが翻る。心臓の音がうるさい。足音がふと止まったことで、びくりと肩が揺れる。
「ああ、ラクチェ」
「……何よ」
「今朝方の軍議で今後の進路が決定した。三日後にはイード砂漠に向けて出発だそうだぞ」
「……イードへ?」
「シャナン殿と合流したのちに南下してレンスター軍の救助に向かうとのことだ。あちらでも挙兵したはいいが帝国の大軍の中で孤立しているらしい」
レンスターと敵対しているのはアルスター城に陣取るフリージ家当主ブルーム王である。雷魔法トールハンマーを所持する強敵だ。その姿を思い浮かべたとたんにキインと頭が冷えた。ぎゅっと拳を握りしめる。
ぽん、と頭に手が置かれたのはそのときだった。
「よかったな。もうすぐ大切ないとこ殿と再会できるぞ」
はっと顔を上げたラクチェが目にしたのは、先ほどの張り付いたような笑顔で。
息を呑んだ彼女には気づかなかったのか、それとも気づかぬふりをしたのか。手を引っ込めたヨハンはそのまま踵を返して見張り台を立ち去っていったのだった。
「……ヨハン……?」
曰く言い難い感情を覚えて、ラクチェは呆然と立ちすくんだ。
ヨハンが軍紀を乱したという理由で後方待機を命ぜられたのはその数日後のことである。
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