■幾千の夜を越えて 第八章-4■
夜明けを待たずに解放軍は進軍を開始した。
彼らが取れる戦法は限られていた。最も効果的なのはシアルフィに迫るグラオリッターをかわしてドズル城に迫り、これを陥落させることだ。だがそれは進軍の速度上問題があった。彼らは歩兵が中心だったし、対するグラオリッターは騎馬部隊である。シアルフィに先に到達された場合、城に残してきた守備隊だけではひとたまりもないだろう。城内に避難させた領民の安否を考えても、ばくち的な賭けに出ることはできない。万が一にもセリスたちが戻る前にシアルフィを落とされることだけは避けねばならなかった。
シアルフィにこもり、篭城戦を仕掛ける作戦もあったがこれはシャナンが却下した。シアルフィは長年にわたる帝国の搾取で疲弊しきっていたし、冬を越えるためのわずかな蓄えしか残されていない。領民の命の糧ともいえるそれを差し出させるわけには行かなかった。
シアルフィは確かに堅牢な城であるが、先ごろの対皇帝アルヴィス戦で弱点が露呈している。これを周到な策を用いるブリアンが知らぬはずもあるまい。何より、彼ら自身が城を守って戦う戦法に慣れていなかった。
結果として、彼らは平原での正面からの対決を選択せざるを得なかった。幸いにもシアルフィ城近くの平原までには両側に切り立った崖を有する狭い渓谷がある。ここで敵を迎え撃ち、多少なりとも足止めをできれば。そうすれば、セリスたち本陣が戻るまでの時間を稼ぐことができるはずだ。
「一日でいいんだ。それだけここを耐えることができれば、我々が勝つ」
そう言いきったシャナンに、誰もが頷いた。ヨハンが進み出る。
「シャナン殿、先陣はこの私、ヨハンめにお任せ願いたい。グラオリッターのことは私が一番よく知っている。きっとお役に立てるだろう」
シャナンは、頷いた。
「こちらも貴殿に先陣をお願いしようと思っていたところだ。よろしく頼む」
「承知!」
力強く頷くヨハン。続いて、スカサハとラクチェが進み出ようとするのをシャナンは視線で抑えて、言った。
「これより我が軍は小休止に入る。間もなく先方より偵察隊の報告が入るはずだ。各自、周辺への警戒を怠るなよ」
「はっ!」
彼らが口を開く間もなく軍議は終了してしまった。
「おい、ちょっと待てよ!」
スカサハがようやくヨハンを呼び止めることに成功したのは、軍議の場となった一角からかなり離れてからのことだった。それも、腕をつかんで強引に引き止めてだ。ヨハンのほうでも面食らった様子で振り返った。
「スカサハ殿?どうなされた。軍議はすでに終了したのだから、今のうちに休憩を取っておかねば後に響くのは必定。何故このようなところまで?」
「あんたがちゃんと呼んだときに止まってくれりゃこんなところまで追いかけてきてないさ」
乱暴に言い放って、彼は目の前の男を睨みつけた。
「あんた、どういうつもりだ」
「どういうつもり、とは?」
「何を考えている。まさか死ぬつもりじゃないだろうな」
糾弾の構えを見せるスカサハに、ヨハンは苦笑して言った。
「なぜそのように?」
「正気の沙汰じゃないからだ。あんたがグラオリッターについて一番詳しいのは確かに事実だろうさ。でも先頭に立っているのがスワンチカを持ったあんたの兄貴である以上、先陣はシャナン様に任せるのが当然だろう?神器は神器でしか倒せないのが通説なんだからな。それなのに、あんたは先陣を切ると言う。俺には、それは死にに行くとしか聞こえない」
断言したスカサハに、ヨハンの口元の笑みがすっと消える。
「……だから?それが、どうしたと?」
「……正直に答えてもらおう。もしあんたがそのつもりなら俺にも考えがある」
「考え?」
目を眇めたヨハンは、次のスカサハの台詞に唖然とした。
「返答次第によってはこの場であんたを叩きのめしてでも先陣を変わってもらう」
「……それは」
「ドズル家の……ネールの血を引いているのはあんただけじゃない。あんたが言っているその責任とやらは、本当は俺たちが三人で平等に負うべきものじゃないのか」
「……スカサハ殿……」
ひとつ、呼吸を置いて続ける。
「……ドズルを継ぐなら、俺はここで逃げるわけには行かない。手を汚すことを怖がっていては新しい世界は作れない」
「では……!」
ヨハンの表情がぱっと明るくなる。その青の瞳を正面から見据えて、スカサハは言った。
「俺は、ドズルを継ぐ。父さんの国を立派に立て直してみせる。……でも、それにはあんたの力が必要だ。こんなところで勝手に死なれちゃ困るんだよ」
脳裏を懐かしい故郷の風景が過ぎった。
イザークを出立するとき、いつか必ず帰ると心に決めていた。厳しい自然と温かな風土。いつもこの胸にある優しい故郷。捨てるのではない。旅立つのだ。かの地の記憶はいつまでも色あせることはない。決して。
言葉を失ったように立ち尽くしていたヨハンは、やがて震える手を差し出してスカサハの手を握りしめた。
「……かたじけない……まさか、本当に引き受けていただけるとは……!」
「礼なんかいらない。俺が自分で決めたことだ。それより」
「ご心配めさるな……私は死にに行くわけではない。私が先陣を切るのはそれが私の使命だからだ。ドズルを裏切った人間として私は兄に正面から対せる人間でなければならないのだ。堂々と胸を張って前線に立ってこそ我々の正しさが証明できるのだから」
「……本当だろうな?」
「無論。騎士の誇りに誓って申し上げる」
しばらく自分よりもやや背の高い男を睨みつけていたスカサハは、やがて小さくため息をついて言った。
「……一応信用してやる。でも覚えておけよ。もし、ラクチェを悲しませるようなことをしてみろ。その時は、俺があんたを殺しに行ってやる」
ヨハンは微苦笑を浮かべて答えた。
「心しておきましょう」
わずかに得られた小休止に、兵士たちはそれぞれの準備に入った。小休止の名のとおり仮眠を取る者、緊張を抑えきれず鍛錬を始める者、周辺の警戒にあたる者など様々に分かれる中、ラクチェはヨハンの姿を探して歩いていた。
打ち消したはずの不安が心の隅で蠢いている。何が聞きたいわけでもない。ただ、姿が見たかった。声が聞きたかった。戦いを前にこんなに心乱されるのは初めてだった。
この戦いは、今までとは違う。見知らぬ人間が相手ではない。自分にとっては憎い帝国兵だが、ヨハンにとっては本国で慣れ親しんだ友人たちだ。まして、その先頭に立っているのは彼の血を分けた兄なのだ。その彼らを前にして先陣を申し出たヨハンの心のうちを思うといてもたってもいられなかった。イザークで旗揚げしたばかりの頃も、彼はこんな痛みを抱えて戦っていたのだろうか。
そんな彼女の耳を突いてその噂が聞こえたのは、ほんの偶然だった。
「まさか先陣を申し出るとは……」
はっと振り返る。数名の下級兵士たちが寄り集まって囁きあっていた。その外見からイザークの出身であることは容易に見て取れる。
「功を焦っておるのだろうよ。このところろくな活躍も見せておらぬゆえな。ドズルの先行きを思えば……」
「また肉親の血で己が地位を贖うつもりか。何と浅ましい……」
一瞬、目の前が真っ暗になった。
自分の耳が信じられなかった。まだそんなことを言う人間が存在したのか。しかも、こんな身近に。
拳が震える。とても、看過できることではなかった。思わず剣の柄に手をかけそうになったその手を、とっさにつかんだ者がいる。
「!……ヨハン……!」
その声にびくりと振り返ったのは噂をしていた兵士たちのほうだ。彼らが慌てて逃げさっていくのをとっさに追おうとしたラクチェを強い力が引き止める。
「どうして止めるのよ!あいつらは……!」
「言いたい者には言わせておけばいいのだ。それより、部隊長である君がこのような場所で問題を起こしてはまずい」
「でも……!」
「さあ、こちらへ」
宥めるようにその肩を抱いて、ヨハンはラクチェを近くの木陰へと促した。
「どうして反論しないのよ!」
解放するなり噛みついてきたラクチェを、ヨハンは優しく宥めた。
「その必要がないからだ。私は彼らにそう見えてもおかしくないことをしているのだから」
「そんなわけないでしょう!?あいつらは何も知らないんだわ。あなたが今までどんなに苦しんできたかも、解放軍のためにどれだけ尽くしてきたのかも!そのくせに、あんなことを言い出すなんて……!」
「そうだ。彼らは何も知らない。知らぬが故に、戦えるのだ。それでよい」
「いやよそんなの!だって、理不尽じゃない!あなたは何も悪くないのに……!」
地団駄を踏みそうな勢いで叫んだラクチェに、ヨハンはふわりと微笑んだ。
「何笑ってるのよ!あなたのことなのよ!?」
勢いで噛みついたラクチェだったが、ヨハンの発した言葉に呆然とした。
「ありがとう、ラクチェ。君がそう言ってくれるだけで私には十分だ」
「……ヨハン」
「私のことを理解して、こうして私のために怒ってくれる人がいる。私には、それで十分なのだよ」
「でも」
「事実を話したところで本当に理解してくれる人はわずかしかいない。後の歴史には私は自分の保身のために家族を売った大罪人として記録されるのかもしれない。それでも……それで本当に大切なものを守ることができるのなら、安いものだ」
「ドズルはどうするのよ。あなたはドズル家を再建するためにここまできたんでしょう?!」
「ドズルは……スカサハ殿にお任せする。義兄上なら、立派にドズルを再建してくださるだろう」
一瞬目を見張って。ラクチェはくしゃりと顔をゆがめた。
「……バカ。あなたって、どこまでバカなの?」
「仕方がない。これが、私なのだから。……愛想を尽かしたか?」
背中に腕を回してぎゅっと抱きしめる。
「……ホントにバカね。でも、仕方ないわ。愛してしまったんだもの」
真紅のマントがふわりと広がって彼女を包んだ。
「おお、ラクチェ……我が愛しの女神。君の愛がある限り私はどこへでも行ける。君の盾となり、君の行く道を切り開いてゆこう」
「あなたを信じてるわ、ヨハン」
薄闇に包まれた木陰で、恋人たちはそっとくちづけをかわした。
彼らは谷合に陣を張り、待った。そして。
「前方に敵確認!グラオリッターです!」
前方に出ていた偵察隊の報告に、一気に緊張が走った。
朝日を背に、騎馬の軍団が整然と進軍してくる。畏怖すら覚えるその光景に、解放軍の歴戦の勇者たちも一瞬足が出なかった。先頭に立つ騎士の手に握られた斧がきらりと輝いた。誰に問うまでもない。それが聖斧スワンチカであること、それを手にした騎士こそがドズル家の現当主ブリアンであることは明白だった。
その騎士は、解放軍まであとわずかのところで馬を止め、大声で呼ばわった。
「我はドズル家当主ブリアン!平和を乱し帝国に仇なす蛮徒どもよ、貴様らの悪事もここまでだ!」
「なっ……」
「なれど、我も聖斧の刃を蛮徒の血で汚すには偲びぬ。ここはひとつ、取引と行こうではないか」
いきり立ちかけた解放軍は、思わぬ申し出に呆然とした。逆光のブリアンの表情は彼らには見えない。だが、彼が口元をゆがめて笑う気配は確かに伝わってきた。
「簡単なことよ。我が血統に連なる不肖の者をこちらに突き出せばよいのだ。もちろん、そちらの手でこの場で始末をつけてもらってもかまわぬがな」
視線が尾を引いてヨハンに集中した。彼は表情ひとつ変えずにただ軽く目を眇めて兄を見やった。
「その者はあろうことか女子に血迷い己が父と弟を手にかけた。己が保身のため今もなお解放軍の禄を食んでおる。そのような愚か者の肉親殺しの諫言に迷うほど貴殿らも腑抜けではあるまい?」
しん、とあたりが静まり返る。
静寂を破ったのは、鋭い叫びだった。
「愚か者はおまえのほうよ!」
戸惑う兵士たちをつきのけ姿を現したのは、ラクチェだった。彼女は剣を抜くこともなく、ただ鋭い眼差しで目の前の人間を、自分にとって従兄にあたる相手を睨みつけた。
「……蛮族の娘が、我に意見する気か」
嘲るような言葉にも、彼女は眉ひとつ動かさない。
「敵の諫言に乗るほど私たちは愚かじゃない。私たちは彼の真実の姿を知っている。そんな言葉で私たちを惑わせられると思っているおまえは愚かを通り越して浅はかと言うべきね」
その言葉に色めき立ったのはブリアンの背後に控えるグラオリッターたちだ。
「何だと?蛮族の小娘如きがブリアン様に対しなんという口を……!」
ラクチェは口元に冷笑を浮かべて言い放った。
「けだものが人の言葉を話せるとは思わなかったわね」
「何ぃ!?」
「自分のしていることの善悪も判断できずにただ上の言うなりに戦場に出てくるような輩は餓えたけだもの以下よ!文句があるなら出てきなさい、すべてこの勇者の剣の錆にしてあげるわ!」
「小娘が……!」
いきり立ちかけた部下たちを、ブリアンが片手で制した。
「……娘、名は」
その問いに、ラクチェは胸を張って答えた。
「我が名はラクチェ、ドズル公子レックスとイザーク王女アイラの娘!この身に流れるオードとネールの血にかけて、おまえを許しはしない!」
ブリアンは軽く眉を上げたようだった。やがて、肩を揺らして笑い始める。
「何がおかしい!」
「これが笑わずにいられるか。そうか、おまえがあの逆賊の娘か……我が血統を汚す者よ、我が聖斧の錆と消えよ!」
びり、と走った気迫にラクチェは身構えた。
背筋にちりちりと何かが駆け抜ける。強敵を前にしたとき独特の感覚だ。聖斧の力は予想以上だった。宝珠から放たれる力はブリアンの全身を包んでいる。この手にした勇者の剣でも破れるかどうか。
馬蹄の音が隣に並んだのは、その時だった。
「先約を忘れていただいては困りますな……兄上」
ブリアンの視界からラクチェを隠すように立ちはだかったのは―――
「……この臆病者が。ようやく出てきおったか」
兄の言葉に、ヨハンは唇をゆがめた。
「それは心外な言われようですな。ただ少し出遅れただけのこと。まさかあのような戯言を申されるとは思いもせなんだのでね」
ブリアンは唇の端を吊り上げて笑った。
「我が斧を振るうにふさわしい相手か確かめただけのことよ。敵の諫言に乗せられ味方を売るような愚か者の血でこの聖斧を汚すわけにはいかんのでな」
ラクチェがはっとヨハンを見る。ヨハンは小さく眉を寄せて、続けた。
「……今一度問いましょう。兄上はこの戦いに正義があるとお思いか」
「知れたこと。平和を乱す者より帝国を守るのが我らの使命だ」
「それが偽りの平和でも?今の帝国の内情を知らぬ兄上ではありますまい。帝国の中枢を支配しているのは今やロプト教の息のかかったものばかり。国の未来を背負うべき子供を生贄に捧げ復活する神のどこに正義があると?」
「我が忠誠は皇帝アルヴィス陛下に捧げたもの。主亡き今その正義を貫き通すもまた騎士の道よ。主を捨てた貴様にはわからぬかもしれんがな」
「騎士の道はただ主のみに捧げられるものにあらず!どうしても引く気はないと仰せか!」
「今さら繰言など聞く耳はもっておらぬわ!貴様もドズルの男ならその斧を持って語ってみせよ!」
ヨハンの拳がかすかに震えた。やがてその手が、腰から勇者の斧を抜き放つ。
「……では、いざ!」
「おう!」
両者の馬蹄が同時に地を蹴った。
ただ一合。それだけで、ヨハンの手にはびりびりと衝撃が走った。鍛えぬいてきたこの勇者の斧と己が腕を持ってしても、やはり聖斧の威力は止めきれない。二合、三合と繰り出される斬撃を受け流すのがやっとだ。正面からあたるのは不利と判断して、ヨハンは距離をとった。そこへ、両軍がなだれ込んできた。たちまち両者は引き離され、乱戦となった。
それは、凄惨な戦いだった。文字通り、血で血を洗う乱戦だった。一人一人の力で言えば完全にグラオリッターのほうが上だったに違いない。だが、解放軍は複数で協力して戦う術に長けていた。複数相手に戦うことに慣れていないグラオリッターの騎士たちは、数人を相手にするうちに別の数人に討ち取られ次第にその数を減らしていった。
特筆すべきはやはりシャナン及び双子たちの活躍だろう。彼らはイザーク王家にのみ伝わる神速の秘剣を駆使し暴れまわった。彼らを敵に回したグラオリッターの大半が、その太刀筋を読み取る間もなく地に叩き伏せられていく。
その一方で、ブリアンもまた鬼神の如き戦いぶりを披露していた。聖斧スワンチカの放つ聖なる光は所有者に害を成すものを撥ね退ける力を持っている。並みの兵士ではかすり傷ひとつ負わせることもかなわなかった。聖斧が一閃するたびに彼の周囲には死体の山が築かれていった。
戦いが解放軍に優勢となり始めた頃、兄弟は戦乱の中で再び相対した。
ヨハンはあちこちに薄傷を負っていたがほぼ無傷だった。既に馬は乗り捨てている。手にした勇者の斧は振り払っても取れない血糊でべっとりと濡れていた。さすがに息を切らしている彼に、ブリアンは息一つ乱さずに唇の端を上げて言った。
「一応はネールの血を引くだけあるということか。我がグラオリッターを相手にここまでよく生き残ったものよ」
「兄上……まだお分かりにはならぬか」
「その肉親と同朋の血にまみれた手でドズルを導くか?笑わせるな。貴様はただの殺人鬼だ。戦争で人殺しをするのに理由をつけようなどと小賢しい!」
「委細承知!なれど誰かがやらねばドズル家は永遠に闇に閉ざされたままだ!誰かが身をもってこの闇を破らねばならないのだ!」
「それが貴様だとでも言うつもりか!貴様とてこの闇の一部であろうに!」
「未来を作るは我が手にあらず。我が手はただ道を拓くのみ。未来は既に次の世代に託された!」
「何っ!?」
目を見開くブリアンに、ヨハンは勇者の斧の切っ先を向けて言い放った。
「兄上……あなたはドズル家を包む闇の最後の一部なのだ。私と共に沈んでいただこう。ドズルの未来のために!」
「私が、闇だと……!?」
「そうだ。先ほどあなたはラクチェを蛮族と呼んだ。同じ血肉を持つ人間をその生まれの違いだけで蔑む心こそあなたに巣食う闇の証!今こそその闇を切り払ってくれよう!叔父上の、この斧で!」
「賢しげな口を……裏切り者が!」
このとき、初めてブリアンは平素の冷静さを失った。怒りに燃えて聖斧を振りかざす。一瞬早く、ヨハンが大地を蹴った。
斧の打ち合う金属音が響いた。凄まじい衝撃だった。耐えかねたヨハンが大地に膝をついた。
「ヨハンっ!」
わずかに離れた場所で別のグラオリッターと打ち合っていたラクチェが悲鳴に近い声で叫んだ。それを隙と見て打ちかかる相手をただ一合で切り伏せ、駆け寄ろうとする。それを、ブリアンがぎろりと睨んだ。
「邪魔をするな、小娘!」
裂帛の勢いで叫んだ彼は、その勢いのままに手にしたスワンチカを投げつけようとする!
「ラクチェ!!」
叫んだヨハンが体勢も整わないまま、それでもブリアンめがけ飛び出す!
その瞬間、大地から音が消えた。鈍い衝撃。血飛沫が空を深紅に染め上げる。
びくり、と震えたヨハンの体がゆっくりと兄に倒れかかる。聖斧が目指す目標物とはまるで違ったあらぬ方向に飛び、地面に突き刺さった。どさり、と鈍い音を立てて地に落ちたのは……斧を握りしめたままの、彼の右腕で。
「―――っ!」
視界に飛び込んだ凄惨な光景に、ラクチェが声にならない悲鳴をあげた。
「血迷いおって……馬鹿者めが!」
顔面を紅の血に染めて弟の体を受け止めたブリアンは吐き捨てるように呟いた。その次の瞬間、だった。
その背を突き破るようにして、短剣が飛び出したのは。
「が……はっ!」
ブリアンは大量の血を吐いた。膝から力が抜け、鈍い音を立てて後方に倒れ伏す。全身を血に染めたヨハンも同じように兄の体の上に倒れこんだ。
「ヨハン……!や……いやあっ、しっかりして!」
その瞬間、ラクチェは自分の置かれている状況を忘れ去っていた。まろぶように自分をかばって右腕を失った恋人の元に駆け寄った。
「……大丈夫だ。心配は……」
「大丈夫なわけないでしょ!?いいから、じっとしてて!すぐに助けを呼んで」
「それより……兄上は……」
大量の血を失いながら、それでもヨハンはうわ言のようにそう問うた。涙で顔をくしゃくしゃにしながらラクチェは首を振った。意識があることがおかしいほどの重傷なのだ。動かせるわけがない。
ヨハンはもがいた。左腕一本で体を起こそうとする。押しとどめようとしたラクチェを制したのはスカサハだった。
「スカサハ!?」
咎めるような妹の声には答えず、スカサハは無言でヨハンの肩を支え助け起こした。そのひょうしに、下敷きになっていたブリアンの体がびくりと震えた。
ブリアンは、まだわずかに息があった。だがその顔にははっきりと死相が現れている。うつろな瞳が弟の姿を捉えてわずかに光を取り戻した。
「……無様よな……これが、聖斧継承者の末路か……愚か者と笑うがいい」
「……不器用な方だ。なぜ、この場所へ……」
「貴様が言ったのだぞ。ここで、待つと……逃げも隠れもせぬと……」
血にまみれた手をゆっくりと持ち上げて、ブリアンは笑った。
「聖斧がこうもたやすく敗れるとはな……天は貴様に味方したか……」
「兄上……」
伸ばされた手をスカサハとラクチェに支えられたヨハンが残る手で握りしめる。
「……頼む……ドズル…を……妻と、子供たちを……」
声は喉をつく血泡にかき消された。びくん、とひとつ震えたその手からすべての力が失せた。
「……必ず」
体温を失ってゆくその手に額を押し当てて、ヨハンは呟いた。ぐらり、とその体が揺れる。
「ヨハン!」
「いやあああっ!」
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