■幾千の夜を越えて 第八章-2■
今でも、夢に見ることがある。
血まみれで横たわり、目の光を失っていく弟。ゆっくりと倒れ伏していく、父の巨体。いずれも、その命の火を絶ったのは自分だった。彼らは恨みの眼差しを向けて、囁きかける。
『ドズルを立て直すだって?ふん、笑わせるな。そのドズルの名を一番汚しているのは誰だ?』
『この、肉親殺しめ。貴様は大義を掲げてその手を汚す理由をつけるただの殺戮者だ』
そんなことはわかっている。自分の罪は、自分が一番よく知っている。それでもなお、この道を選んだのだから。後悔はしない。そう、決めたのだ。
それでも。消しきれない罪悪感が、この夢を見せる。何度も、何度も。
遠くなってしまった眠りを引き寄せることをあきらめて、ヨハンは身を起こした。
解放軍はエッダ城に程近い平原に陣を構えていた。不安視された周辺公国からの軍隊の派遣も見られず、明日にも落とすことができるだろうというのが上層部の見解である。帝国と本格的な戦闘を交えるその緒戦ということもあって、軍内でも選りすぐりの精鋭を投入してこの戦いに臨んだセリスはほっと安堵の息をついていた。
ここはその野営地の中でも士官用のテントが集まる中央からわずかに外れている。ヨハン自身が希望したことだった。肉親との戦いを控えた彼に、誰もが気を遣っている。それを、少しでも和らげるためだった。
身支度を整え、テントを出る。夜明けを控えた外は真闇の中だった。野営地の周辺には敵の夜襲に備えるため篝火が焚かれているが、それもここからではほとんど見えない。それだけこの解放軍が大所帯になったということなのだろう。この闇はまるで今のドズル家のようだと、苦笑する。六公爵家という地位に踊らされ、肥大しすぎて己の姿を見失っている。その全体像を把握できるものは誰一人おらず、ただ闇の中で静かに腐っていくのを待つだけ。それが、今のドズル家だった。
その闇を、切り裂きたかった。例えどんな痛みを伴おうとも、自分がその闇の一部になろうとも。
導きの光は、既に灯された。ユグドラル大陸にセリスが現れたように。
最近、よく考える。罪に手を染め、闇の一部となった自分のなすべきことは、なんだろう。
ヨハンは夜空を見上げた。美しい星々の瞬き。数多の命の輝きにも似たそれは、太陽が昇るごとに一つ一つ消え行く運命にある。夜にはまた現れるけれど、それはまったく同じものではない。セリスという名の太陽が昇る光にまぎれ消え行く星々のひとつになるのもまた一興だろうか。そんなことを考えたときだった。
茂みで何かが動く気配に、ヨハンは足を止めた。油断なく身構える。いつものくせで、着替えの際に手斧を腰にさしていたのが幸いだった。その柄に手をかけながら、ヨハンは声を発した。
「動くな。動けば命はないと思え」
「……!」
気配がびくりとする。
「深夜の闇にまぎれてのこととはいえここまで入り込んだことは褒めてやる。このままおとなしく帰れば命まではとらぬ。それとも、この斧の錆になりたいか?」
「……そのお声は……殿下?ヨハン殿下であられますか?」
『殿下』と。ヨハンをそう呼ぶ者は、旧ドズル家にしか存在しない。彼は眉を寄せた。
「?なぜ私の名を」
「私をお忘れですか?」
慌ててまろび出てきたのは、ブリアンに偵察を任じられていた密偵だった。その顔を見て、ヨハンは愛好を崩した。
「おまえは……ベルトホルト!生きていたのか……!」
相手が自分を覚えていたことに安堵したのか、彼も愛好を崩して答えた。
「はい。お懐かしゅうございます……!」
「まさかこのようなところで既知に出会うとは思わなかった。ここへは何用で……とは、愚問だな」
ヨハンは苦笑する。密偵である彼がここにいる理由など、一つしかありえなかった。
「兄上の命令か?」
「……はい。反乱軍の陣容を偵察せよ、と……なれど、ここにいるは我が意思にございます」
「何だと?」
「ブリアン様にご命令いただいたのはシアルフィの偵察のみ。ブリアン様は、精鋭グラオリッターを率いスワンチカを手に既に出陣なされた由にございます」
「……それを、なぜ私に?」
ヨハンの問いに、彼は苦笑した。
「お忘れですか……?カスパルは我が同胞にして我が親友ですぞ」
それは、ヨハンが本国に放っていた密偵の名だ。得心して、ヨハンは頷いた。
「そうか……そうだったな。カスパルは、壮健にしているか」
その問いに、彼は俯いた。
「……先にシアルフィ潜入の任に失敗し……そのまま……」
自分が重用していた密偵の末路を知ってヨハンの表情が苦渋に歪む。
「……すまぬ。無理を強いた私の責任だ」
「それ以上おっしゃいますな。カスパルは任務に失敗した。それだけのことです。あれは、あなたの元で働けることを誇りにしておりました。ただ、あの者を忘れずにいてくだされば、それで……」
「……わかった」
たいまつの光が二人を照らし出したのはその時だった。
「―――そこで何をしている!」
見回りに現れた衛兵の声に、ベルトホルトはびくりと肩を揺らした。ヨハンがすい、と動く。
「見回りご苦労」
「え、あ……よ、ヨハン様?」
「心配はいらぬ。この者は私の手の者だ。火急の報告を持って推参した次第。すぐにセリス皇子にお目通り願いたいのだが、取り次いでもらえるだろうか」
「は、はっ!」
衛兵はしゃちほこばった敬礼を返して走り去った。ほっと胸をなでおろすベルトホルトに背を向けたまま、ヨハンは言った。
「ベルトホルト、このまま立ち去れ」
「ヨハン様?」
「おまえは兄上の密偵だ。兄上に報告の義務があるはず……おまえの任を全うして来い」
「しかし、それでは……」
「……伝言を、頼む。『私は逃げも隠れもしない』と……兄上に、そう伝えてくれ」
言葉を失った彼は、低く頭を下げた。そのまま茂みに飛び込み、気配を消す。彼が去ったことを確認して、ヨハンは真紅のマントを翻して歩き出した。
東の空が、白み始めていた。
深夜にもたらされた報告は、彼らを驚かせるに十分なものだった。
ドズルのグラオリッターは、フリージのゲルプリッター、ユングヴィのバイゲリッターと並ぶ帝国の精鋭部隊だ。その主力部隊が解放軍の本拠地であるシアルフィ城に迫りつつあるという。その事実は、彼らを戦慄させた。
「すぐに軍を返したほうが……」
呟いたセリスを、オイフェが制した。
「しかし、それではここまで追いつめたエッダ軍に後背をさらし勢いづかせることになります。それでは緒戦に勝利した意味が……」
「だが、本拠地を奪われては話にならない。シアルフィには最小限の部隊しか残していないんだ。それに、仮に守備隊が持ちこたえたとしても後背を突かれたらひとたまりもないよ」
「それは、確かに……しかし」
そこで、それまで黙っていたレヴィンが口を開いた。
「……ワープの杖は、今誰が所持している」
思いがけない問いに、セリスが面食らいながらも答える。
「え?あ……ワープは、今はティニーに持ってもらっているよ。ラナが本城待機で扱えないからね」
「リターンは?」
「リターンは今まで通りナンナが所持しているはずですが……それが、何か」
「本隊はこのままエッダ城を攻略する。一部の部隊のみ杖を用いてシアルフィ城へ送り返し、守備隊と合流させればよい。エッダ攻略には一日もあれば十分だ。それが完了次第、全軍で取って返す。それで、間に合うはずだ」
「なるほど……わかった。オイフェ、すぐにティニーとナンナを呼んでくれ」
「はっ」
一礼した聖騎士がテントを出て行く。
「帰還部隊の人選についてだが……」
言いかけたレヴィンに、ヨハンが口をはさんだ。
「それは、私にお任せ願いたい」
「ヨハン殿?」
「寄せ手の先頭に立つのはスワンチカを所持した我が兄ブリアンです。身内の不始末は我が手にてつけさせていただきたい」
レヴィンは感情のこもらない眼差しでヨハンを見やった。
「それは、できない」
「なぜですか」
「相手が神器所持者であるなら尚のことだ。神器は神器にてしか倒せぬもの。おまえの手には余る」
「しかし」
「シアルフィへはアレスを向かわせよう。奴のミストルティンならスワンチカを破ることもできるはずだ」
見かねたセリスが口をはさむ。
「レヴィン、待った。アレスはダメだ」
「なぜだ、セリス」
「エッダ城の城主はスリープの使い手だ。アレス以外では城に近づく前に眠らされてしまう」
そう言って、セリスはヨハンに向き直った。
「ヨハン殿、あなたにシアルフィ守備隊の全権を委譲します。どうか全力を注いでください」
「承知した」
「セリス」
顔をしかめるレヴィンに、セリスが苦笑する。
「レヴィンの言い分はわかる。でも、私は彼の意見を尊重したい」
「この戦いは感情論では勝てないぞ」
「その感情をもてあましたまま戦後を迎えるわけには行かないよ。真の平和を築くためにもね」
レヴィンの反論を封じておいて、セリスはヨハンに言った。
「選抜部隊にはイザークの者を中心に……特に、シャナンたちはきっと戦いたがるだろうから」
「わかった。……だが、よいのだな?私が全権を持つ以上、シャナン殿にも私の配下に加わっていただくことになるが」
未だにくすぶるドズルとイザークの確執に火種を投げ込むことになりはしないか。
そう言外に尋ねるヨハンに、セリスははっとした。それに、ヨハンは頷き返して見せる。
「では、守備隊の全権はシャナン殿にお預けしよう。私はその命令に従う。それでよろしいな?」
「……すみません、私が至らないばかりに余計な気を遣わせて……」
「いや……こちらこそ、わがままを聞いていただき感謝する」
口元に小さな笑みを閃かせ、ヨハンは身を翻した。
テントを出たところで、ティニーとナンナを伴ったオイフェに出くわした。
「ヨハンさん!……あの」
何かを言おうとするティニーをそっと制して、ヨハンは彼は小さく笑みを返した。
「このたびは世話になる。我が軍の誇る勝利の女神たちに送られるならば我々も本望というものだ」
軽口でおどけてみせる彼に、ティニーは言葉に詰まった。代わりに、ナンナが丁寧に頭を下げる。
「お勤めご苦労様です。私たちも後ほど参りますので、それまでに陣容を整えておいて下さいね」
「承知した」
出撃が決まったその頃。
悩みに悩んだ挙句、スカサハは年長の従兄の下へ相談に訪れていた。
「シャナン様……俺、どうしたらいいんですかね」
剣を手入れする手を止めぬまま、シャナンは従弟に逆に問うた。
「おまえはどう思うんだ?」
「……最初は、イザークに戻るつもりで……シャナン様やラクチェやラナと一緒に国を復興させる手伝いができればって、そう思ってました。でも、ヨハンの奴があんなことを言うから」
その声には困惑が滲んでいる。彼はいつもヨハンを「あいつ」と言っていた。決して名を呼ぼうとはしなかった彼の中にその心境の変化を見て取り、シャナンは微笑する。
「それで、どうしたい?」
「……わかりません。俺は今でも俺の故郷はイザークだと思ってる。でも、ヨハンの意見は無視できない。あいつは、そのために自分のすべてを捨ててきたんだ。それを無視してまで自分の意見を通せるかと言うと……正直、迷います」
磨き上げた鋼の大剣を傍らに置き、シャナンはスカサハに向き直った。
「それで、私の意見を聞きたいわけか」
「はい」
小さなため息をついて、シャナンは年若い従弟を見やった。
「スカサハ。おまえの人生を決めることができるのはおまえだけだ。他人の意見に左右されているようではこの先が思いやられるぞ」
「それは……わかってます、けど……」
「おまえの故郷がイザークであることには変わりないし、その復興に尽力するのも一つの選択だろう。だがな……故郷はどこにいても故郷なんだぞ」
「シャナン様」
「おまえが正しいと思う道を選ぶんだな。おまえが決めたことなら誰も反対しない。私も、ラクチェも、ラナも」
「………」
「本当は答えはとっくに出ているはずだぞ。自分に問い直してみろ」
そう言って、シャナンは立ち上がった。腰につけた剣帯にバルムンクを、背中に鋼の大剣を収める。
「出撃の時間だ。今はそのことは忘れろ。この戦いに集中するんだ。いいな」
「……はい」
二人がテントを出ると、ちょうど走ってきたラクチェに出会った。
「スカサハ、どこ行ってたの!遅いわよ!」
勇者の剣を腰に佩いた彼女は美しい眉をしかめて兄を糾弾した。それに、苦笑しながらシャナンが答える。
「少し、相談事をな。すまん、出遅れたか」
「あ、いえ、シャナン様は大丈夫ですけど……何よ、剣も持ってきてないんじゃないの!ほら、もたもたしないで!事態は一刻を争うんだからね!」
「わかってるよ!じゃあシャナン様、失礼します!」
「ああ。先に行っているぞ」
何かを吹っ切った様子で駆け出していくスカサハの後ろ姿を見送るシャナン。ラクチェはまだぷんぷんしている。
「まったく、ラナがいないとすぐああなんだから……シャナン様、スカサハの相談ごとって何だったんですか?」
「ああ、まあ……ラクチェは、この戦いが終わったらどうするんだ?」
シャナンの唐突とも思える問いに、彼女はきょとん、とした。
「戦いのあと……ですか?」
「ああ。ヨハンについてドズルに行くのか?」
恋人の名にさっと頬を赤らめる。
「それは……わからない、です。ヨハンは、まだ何も言ってくれないし……」
ミレトスで身も心も結ばれた二人であるが、ラクチェはまだヨハンの口から正式なプロポーズの言葉を聞いてはいなかった。この戦いが終わってから彼がどうするつもりであるのか、未だにつかめていないというのが現状だ。それに対して、不安がないわけではない。だが、そればかりを考えていられない立場というものもある。彼女はシャナンの指揮下で歩兵部隊を束ねる部隊長だ。余計なことを考えている時間はなかった。
「……とにかく、今は考えないことにしてます。まずはこの戦いに勝利しないと」
「そうだな。では、行こうか」
「はいっ!」
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