■幾千の夜を越えて 第四章-1■
本隊と合流してイザーク城を取り戻した彼らは、ここで朝を待ってからダナン王の居城であるリボー城を目指すことになった。リボーではまだシュミット隊が敗れたことを知らないはずだ。ここは勢いに乗って一気に城を落とすべきだという意見もあったが、オイフェの意見は違っていた。
これは長い戦いのほんの序章に過ぎない。緒戦に必要なのは、勢いだ。勝てる、という自信をつけること。自らの正しさを証明すること。その両方の意味において、これは決して負けることのできない戦いだった。言わずもがなであるが、民衆の支持は彼ら解放軍にある。その勢力自体はまだ帝国に比べて弱小に過ぎないが、ここで勝利することによって得る勢いは計り知れない。
教え子にそう説いたオイフェは、今ある決意と共に一つのテントの前に立っていた。
「……失礼する。ヨハン殿、少しよろしいか?」
あえて敬語を省いたのは当の本人がそれを望んだからだ。自分は解放軍盟主セリスに屈服した身なのだからと、丁重な扱いをかたくなに拒む彼にオイフェも根負けしたのだった。
その彼、ヨハンは点との中央で先のイザーク城下の戦いで受けた傷をラナに癒してもらっているところだった。テントの隅にはなぜかスカサハがひどく不機嫌そうな顔で座り込んでいる。どうやらラナをヨハンと二人きりにすることを危ぶんでついてきたものらしい。いかにも不本意そうな表情にくすりと笑みをもらして、オイフェはラナに問いかけた。
「ラナ、まだかかりそうか?」
手にしたリライブの杖を降ろして、ラナがにこりと微笑み返す。
「すみません、オイフェさん。すぐ終わりますから」
魔道の才が開花しつつあるとはいえ、ラナはまだ未熟な僧侶でしかない。それでなくてもこの連戦で負傷兵たちを癒しつづけてへとへとだろうに、気丈さはやはり母譲りということか。いまや負傷兵たちの間では聖母とも慕われる少女はさらにもう一度、今度はライブの杖を手にして聖句を唱えた。
淡い光がヨハンの肩に残る矢傷を癒していく。こんな時は癒しを受ける側も相手に同調して体の力を抜くのが常で、ヨハンも目を伏せておとなしくしている。そんな姿はかつて戦場をかけていた彼の叔父を彷彿とさせ、オイフェに苦い痛みを思い起こさせた。
やがて光が消え去ると、ヨハンは顔を上げてラナににこりと微笑みかけた。
「……ありがとう、ラナ殿。おかげでだいぶよくなった。そろそろ戻られるとよい」
「でも、まだ左腕の傷が……」
「何、心配せずともこのようなかすり傷は薬草で十分治せる。それに、あまり長く君を独り占めしてはそこにいる兄上殿ににらまれそうだからな」
顔を上げたスカサハがじろり、とヨハンを睨む。
「……あんたに兄貴呼ばわりされる覚えはないぞ」
非友好を絵に描いたような対応にもめげるようなヨハンではない。
「ラクチェの兄上ならば私にとっても同様。尊敬と敬愛を持って呼ばせていただいているつもりなのだが」
「気色悪い」
またしても一刀両断。オイフェは危うく失笑を漏らしそうになるところを何とかこらえ、ラナは眉をひそめて彼をたしなめた。
「スカサハ、言いすぎよ」
「俺は事実を言ってるだけだ。用がすんだんなら戻るぞ。レスターも心配してる」
言い捨ててスカサハが立ち上がる。当然のように差し伸べられたその手を、ラナは困ったように見上げた。
「スカサハも、レスター兄様も心配しすぎよ。私だってもう子供じゃないのに」
「何言ってるんだ。今日は半日ずっと杖を使いづめじゃないか。心配もするよ」
杖を使うには精神の統一を必要とする。疲労も半端ではない。実際、このときラナは軽い頭痛のせいで自力で立ち上がれる状態ではなかった。そのことに気づいたスカサハは、小さくため息をついてその一回りほど小さな細い身体を軽々と抱き上げた。
「スカサハっ……じ、自分で歩けるから」
「いいから、じっとしてろ。オイフェさん、失礼します」
本来のテントの主は故意に無視して、ラナを抱き上げたままスカサハが歩き出す。その肩越しに申し訳なさそうに会釈するラナに小さく頷き返して、ヨハンはオイフェに向き直った。
「失礼しました。して、オイフェ殿、お話とは?」
「うむ……実は、明日のリボー攻めのことなのだが」
どう切り出すべきか逡巡したのは一瞬だった。あの日失ってしまった人のため、そして仕えると決めたその人の遺児のため、すでに私情は捨てた身である。
「残酷とは重々承知しているが、あえて申し上げよう。明日の戦い、我々に同行してはもらえまいか」
明日の戦いの相手はダナン王、ヨハンの実の父親である。その場にあえて彼を伴うということはつまり父の死に立ち会えということだ。
双子たちとは微妙に違う色合いの青の双眸がひたりと見つめ返してくる。その視線をそらさぬまま、彼はきっぱりと言った。
「そのことなら、私のほうからお願いにあがろうと思っていたところだ。オイフェ殿、私を突撃部隊へ加えてはいただけまいか」
「ヨハン殿……?」
「イザークの民からすれば残虐非道の悪王なれど、わが父であることには変わりない……身内の汚名を漱ぐ機会を与えていただきたいのだ」
発言の意図がつかめないままオイフェは戸惑ったようにヨハンを見返した。
「心中はお察し申し上げるが……いくらあなたの申し出といえどダナン王の助命は無理とお心得いただきたい」
ドズル家とダナン王の名はいまやイザーク全土の怨念の的である。彼を処断せずして解放軍の勝利はありえない。助命することによって寛容を示す、という段階をとうに越えてしまっているのだ。
しかし彼はオイフェの予想に反して小さく笑いを返して答えた。
「いや……そのような虫のよいことを申し上げるつもりはない。むしろその逆というべきか」
「……今、なんと?」
「逆、と申し上げたのだ。父の処断は……私がこの手で行いたい」
オイフェは絶句した。
ダナンはイザークの仇敵であり、許されざる存在である。虐げられてきた人々の溜飲を下げ、解放軍への支持をえるには先にも述べたとおり彼の処断は最重要事項なのだ。だが、もっとも適任であるイザーク王子シャナンはここにはいない。ならばその役割は盟主たるセリスか、もしくはシャナンと同じくイザーク王家の血をひくスカサハ、ラクチェの二人のいずれかが負うこととなる。そこにヨハンを伴うことは彼の追従を示すことともう一つ、末期を見取らせるという意味を含んでいた。助命の嘆願を聞き入れるわけには行かない以上、それが彼らのヨハンに対する贖罪だった。その彼がまさか自身で手を下すことを申し出るとはさすがにオイフェも予想外だったのだ。
「いや……ヨハン殿、それは……」
「ドズル家の再生を決意した以上これは私の使命だと思っている。オイフェ殿、許可をいただきたい」
頭を下げるヨハンを、オイフェは苦いものを飲み込んだような顔で眺めやった。
「……あえて父殺しの汚名を被ると仰せか、ヨハン王子」
あえて用いた呼称に、端正な貌に苦笑がにじむ。
「お忘れか?すでにこの手は弟の血で汚れている……汚名など、それこそ今さらな話だ。私には、他の道など残されていないのだから……」
瞬時に消え去ったその表情が、オイフェに決意を固めさせた。
「……貴殿の決意、あいわかった。セリス様には私から伝えておこう」
「感謝する。ところで、一つ願いがあるのだが……」
「なんなりと申されよ」
「実は……」
と、ヨハンが告げた内容にオイフェは再び絶句することになるのだが、それはまた後の話である。
そして、深夜。
「―――ラクチェ、どこに行くの?」
勇者の剣を手にこっそりとテントを抜け出そうとしていたラクチェはその声にぎくり、と足を止めた。
恐る恐る振り返れば、とっくに眠りについていると思っていたラナが身体を起こしてじっとこちらを見つめている。
「……ちょっと、眠れなくて……夜風にあたろうと思ったのよ。ごめん、起こしちゃった?」
ごまかすように笑ってみせたが、この二つ年下の幼なじみにはまるで通じない。
「夜風にあたるだけでどうして剣が必要なの?ごまかしてもダメよ、ラクチェ。一人でなんて行かせられないわ」
やっぱり、と肩を落とすラクチェを、ラナは心配そうに見上げた。
「あなたの気持ちもわからないわけじゃないけど……これはセリス様がお決めになったことですもの。ちゃんと守らなくちゃだめよ」
おとなしく枕もとに戻ってきたラクチェは、不満そうにラナを見る。
「でも、ラナ。リボーは目の前なのよ。私たちを……イザークのみんなを苦しめてきたあのダナン王がすぐそこにいるのよ。そう思うと私……いてもたってもいられなくて」
「だからってくたくたに疲れた状態じゃ意味がないでしょう?ここは明日に備えるためにもちゃんと休まなきゃ。ね?」
理屈はわかっている。ラナの言うことは正しい。ここで先走っても、きっと何にもならない。自分たちはまだまだ弱く小さな存在でしかなく、帝国に抗するには周到な策を実行する必要があるのだから。それでも押さえがたい衝動に、ラクチェは唇をかんだ。
「でも、ラナ。もしダナン王が夜のうちに逃げ出したら?あいつを逃がしてしまったらこの戦いの意味がなくなるわ。イザークのみんなが私たちに期待してるのに……私たちは絶対に負けちゃいけないのに!」
爆発しかけた感情を、ラナの静かな声が遮る。
「グランベルに逃げ込んだって誰にも相手にされないわ。生き恥をさらすだけよ」
「だって、本国には長男がいるのでしょう?」
「ブリアン王子は厳格だから逃亡者を受け入れはしない。ダナン王もそれをわかっているし、小心でもプライドは高いからまだ弱小でしかない私たちを相手に逃げ出すようなことはない、スワンチカ継承者の名にかけて。……ヨハンさんが言ってたことよ」
その名にラクチェは一瞬呼吸を詰めた。
「ラクチェ……ダナン王は確かに私たちにとって憎い敵だけど、ヨハンさんにとっては血を分けたお父様なのよ?夜のうちに奇襲をかけて、だまし討ちにして……それであなたは、ヨハンさんになんて言うの?彼に顔向けできるの?」
「ラナ……あたしは、別に」
遮ろうとしたが、ラナは力を込めて言葉を続けた。
「私たちは確かに負けちゃいけない。でも、人に顔向けできないような戦いをしてもいけないのよ。だって、みんなが私たちを見ているんだもの。私たちは帝国とは違うことを証明しなくちゃいけない。そうじゃなきゃシグルド様の……私やあなたのご両親の信じたものが正しいってことを証明できないわ。そうでしょう?」
ラナの白く細い手が自分の手に重なる。薬草の調合や水仕事のせいですっかり荒れてしまったが、やさしいぬくもりは以前と変わらない。剣を握るせいでごつごつとした自分の手とは全然違う、でも同じ、戦う手だ。
その手を静かに握り返して、ラクチェはうつむいた。
「……ラナは、強いね……私、ダメだわ。戦女神なんて言われて、いい気になってたのかもしれない。こんな大事なことを忘れそうになるなんて」
細い腕が優しく抱きしめてくる。
「ううん……ごめんね、えらそうなこと言ったりして。私はあなたみたいにみんなと一緒に前線には立てないけど……でも、心はいつも一緒に戦ってるつもりだから。それだけは、忘れないでね」
そう言ったラナに、ラクチェは微笑を返した。
「うん、忘れない。……ラナ、エーディン母様に似てきたね」
「え……そう?」
「うん。同じ僧侶だからかな……あったかくて、安心する。あたしたちみんなラナに支えてもらってるんだなあって思うの」
はっと目を見開いたラナが、ぱあっと華やいだ笑顔をみせた。
「ありがとう、ラクチェ。嬉しい……だって私、みんなの支えになりたいってずっと思ってたんだもの。足が悪いからいつでも足手まといにしかなれなくて……だから」
「やだ、そんなこと言わないでよ。あたしたちみんなラナがいてくれたからここまで戦ってこれたのよ?」
「ほんとに?」
「ほんとよ。スカサハなんて、ラナがいなかったら何回死んでたかわかんないわ。ほんと、妹のあたしよりラナのほうが大事なんだから、あいつ」
はたから見れば確かに過保護すぎるきらいはあるが、それだけ大切にされているラナが実は少しうらやましいラクチェである。
「あたしもいつかそんなふうに誰かを支えられたらいいんだけどなあ……」
そう呟いたラクチェを、ラナはじっと見つめた。その彼女の支えを必要としている人間がすぐ近くにいることに、彼女はいつ気づくのだろう。口にしかけて、やめた。すぐに気づくはずだ。彼は……ヨハンは、いつも思いを込めてラクチェを見つめているのだから。
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