■幾千の夜を越えて 第六章-1■
歩兵部隊中心の解放軍本隊が騎馬部隊中心の先遣隊と合流したのは一週間後のことだった。この頃すでに先遣隊はメルゲン城の魔法部隊を撃破し、本城と睨みあっているところだった。これにはさすがにセリスも驚いたが、彼はすぐにメルゲン城攻略の断を下し、彼らは休む間もなく城の守備隊との戦いに突入することとなった。主力を失っていたメルゲン城の部隊は逆に数がそろった解放軍の前には敵ではなく、三日間の激しい戦いを経てついに攻略戦は城主であるイシュトー王子の死をもって決着したのだった。
だが、戦いはこれで終わらなかった。解放軍がメルゲン城を陥落せしめたことが北方の商業都市ダーナに陣取る商人上がりの領主ブラムセルの猜疑心をかったのだ。小心で疑り深いこの男は配下の傭兵部隊に命じて解放軍の後背をつくべく画策を始めた。また、アルスター城のブルーム王も息子を殺されて黙ってはいなかった。すぐさま魔法部隊の派遣を命じ、同時にレンスター軍の壊滅を狙って重騎士部隊を出撃させた。これらの情報を天馬騎士フィーの偵察により知った解放軍に一気に緊張が走った。
両軍に挟撃されれば数に劣る解放軍に勝ち目はない。幸いにも両軍は協力関係にはないようで、その隙を突いて速攻で片をつけるしか方法は残されていなかった。セリスは直ちに騎馬部隊にダーナ軍迎撃の指示を下し、歩兵部隊にはアルスター軍の奇襲に備えて待機を命じた。こうして、新たな戦端が開かれた。
ダーナの傭兵部隊は解放軍にとっては始めての騎馬部隊相手の戦いとなったが、相手の内紛が功を奏してさほど苦もなく撃破することができた。何より大きかったのは魔剣ミストルティンを擁する今は亡きノディオン王エルトシャンの遺児アレスの加入だ。彼はダーナの傭兵部隊に所属していたのだが、上司で養父でもあった傭兵隊長の裏切りを知って解放軍に寝返ったのだ。彼の参加に際してはこれもまたひと悶着あったのだが、ここでは割愛することとして話をアルスターの魔法部隊戦に移そう。
こちらの陣容はヴァンパ、フェトラ、エリウという名の三姉妹を中心に歩兵と魔道士で構成されており、メルゲン地方からアルスターへ続く狭い峡谷と付近に広がる森に部隊を展開しての乱戦となった。木陰などに巧みに身を隠しながらの彼らの攻撃に解放軍は手を焼いたが、予想外に早くダーナを制圧し取って返した騎馬部隊の参戦によってどうにか撃退に成功したのだった。
これにより、解放軍はようやくしばしの休息をえることとなった。とはいっても、状況は依然余談を許さない。アルスターの魔法部隊を撃破したとはいえブルーム自身は健在で雷魔法トールハンマーも彼の手中にある。その彼が陣取るアルスター城を攻めるにはどうしても解放軍、レンスター両軍の力を合わせる必要があるのだが、レンスター軍はリーフ王子はかろうじて健在とはいえ相次ぐ戦闘に疲弊し残兵も残り少ない。解放軍本隊も砂漠越えの疲れも癒えぬうちの激戦の連続に疲労は極致にあった。ここはいったん休息をとらざるをえない、というのが本音のところだった。
ヨハンが救護室のラナの元に顔を出したのは戦闘の翌日、ちょうど昼時のことである。
「ラナ殿、ラクチェがどこにいるか知らぬか?」
顔を見るなりそう問うて来たヨハンに、ラナは首を傾げた。
「さあ、今日は見かけていませんけれど……この時間帯なら訓練場の方じゃありませんか?」
「先ほど見てきたのだが、姿が見えぬのだ。ようやく部隊編成に引き裂かれることもなく共にすごせるというのに……私は何かしてしまったのだろうか。どうも彼女に避けられている気がするのだが……」
肩を落とすヨハンに、ラナは引きつった笑みを返した。
「まさか……ちょっとすれ違っているだけですよ。そんなに心配しなくても……」
「だが、姿を見なくなってもう二週間にもなるのだぞ?彼女との再会を求めてこの胸は張り裂けんばかりだというのに、神は私を見捨てたもうたのであろうか……」
大げさに嘆くヨハンに、ラナの背を冷たい汗が伝う。すでに救護室の注目の的だというのにこれ以上何か言われてはまた噂の種になってしまうではないか。
(もう、ラクチェったら……どこに行っちゃったのよー)
誰か助けてくれないだろうかとさ迷わせた視線がちょうど廊下を通りかかった恋人の姿を発見する。渡りに船、とばかりにラナは勢い込んで声をかけた。
「あ、スカサハ!ねえ、ラクチェを見かけなかった?」
その声に含まれる何やら切実な響きに気づいたのか、スカサハが振り返る。サファイアの瞳が可憐な恋人の姿を捉えてふっとほころびかけたが、その隣にいる男を認めてすぐにしかめられた。
「ラクチェなら今日は見かけてないぞ。……で、何であんたがここにいるんだ」
後半の冷たい台詞はもちろんヨハンに向けられたものだ。相変わらずの態度にラナは彼に声をかけたことを少しばかり後悔したが、ヨハンはまったく気にした様子もない。
「私はラクチェを探していてたまたま通りかかったのだが……義兄上ですらご存知ないとなると、一体どこへ……」
その台詞に、スカサハの目がさらに剣呑な光を帯びる。
「……その呼び方はやめろって何回言えばわかるんだ?俺はあんたより6歳も年下なんだぞ」
「ラクチェの兄上ならば私にとっても兄同然。尊敬と信頼をこめて呼ばせていただいている。年齢など関係あるまい?」
「だから……!」
「おお、こうしてはおれぬ。早くラクチェを探さねば昼食時間が終わってしまう。では、失礼」
あっさりとそう言って救護室を出て行くヨハンに、スカサハは小さく舌打ちした。それを聞きとがめたラナがため息をついて恋人を睨む。
「もう……スカサハったら、まだそんな態度をとってるの?」
「態度を変える理由はないと思うけどな。そろそろ昼食の時間だ、俺たちも行かないか?」
その誘いに否やはなかったので、ラナはおとなしく彼の後に従って救護室を出た。
「ヨハンさんは悪い人じゃないわよ。誰にでも優しいし、ラクチェのことをとっても大事にしてるわ。ちゃんと態度で証明してるじゃない。何が気に入らないの?」
廊下を歩きながらのラナの問いに、スカサハは不服そうに黙り込んだ。確かに彼女の言うとおりなのだ。ヨハンはとても誠実だった。反論の余地がないほどに。だがそれでも納得できないものはできないのだとばかりに押し黙る彼の強情さに、ラナは肩をすくめた。
「……その様子じゃ、わかってはいるのよね?ラクチェが彼のことを好きなのも、そのことでずっと悩んでるのも」
「当たり前だ」
「そうやってスカサハが反対してることでラクチェがよけいに苦しんでるってことも?」
「っ……」
鋭い指摘にスカサハの足が止まる。人目につく前にラナは彼の手を引いて物陰に入った。
「どうして反対なの?彼がドズルの人だから?」
まっすぐなラナの問いに、スカサハは肩の力を抜いた。そして、呟くように答えた。
「……あいつとじゃラクチェは幸せになれない」
「スカサハ」
「あいつが真剣にラクチェのことが好きなのは俺にだってわかってるさ。ラクチェのためにドズルを捨てられるなら、任せていいとも思った。でも、ダメだ。あいつはドズルを捨てられない。きっとどっちも選べない。それじゃラクチェは幸せになれないんだよ」
あの妹は一途過ぎるから。
呟いたスカサハを、ラナは痛みを堪えるように見つめた。
「……だから、ずっと反対してたの?」
「ああ。妹が不幸になるってわかってて止めない兄貴はいないだろ?」
「止められないってわかってるのに?」
「……ラナ」
ラナの白い柔らかな手が恋人の頬を包む。
「母様がね、昔おっしゃっていたの。恋は幸せになるためにするんじゃない。不幸になってもいいから側にいたいと思う相手とするものだ、って。私だって、幸せになりたいからスカサハのことを好きになったわけじゃないわ。ラクチェも、きっと同じだと思う……」
スカサハは何も言わずにそっと彼女の肩を抱き寄せた。
* * *
同じ頃、ラクチェはメルゲン城の食堂の隅で重いため息をついていた。
前日までの激戦の疲労はもちろんある。特に今回は相手が魔道士ということでいつも以上に気の抜けない戦いだった。ローブのみで鎧をまとうことのない彼らは近づくことさえできれば確実に倒せる代わりに、彼女にとっては致命傷にもなりうる強力な魔法を放ってくるからだ。今回も、危機を救ってくれたのは右手薬指のバリアリングだった。それを自分に贈った男が今ごろ自分を探して城内を駆け回っているだろうことも、わかっている。だが、素直に顔を合わせることがどうしてもできない。
会えば、きっとまた傾いてしまう。彼に惹かれる自分を止めることができなくなってしまう。そんなことが許されるわけがないのに。怖いのは、ブレーキの利かない自分自身の心だ。
本当は、もう会わない方がいいのだろう。彼の思いを受け止めることができない以上このリングも返すべきなのだと、わかっているのに手放せないのはこれが今後の戦いに欠かせない貴重な品だからなんかじゃない。これだけが揺れ動く自分をつなぎとめる唯一の品だからだ。母の形見である勇者の剣とは違った意味で自分を支えてくれている。
「浮かない顔してるじゃない。どうしたの?」
ふとかけられた声に、顔を上げる。そこにいたのは緑の髪の天馬騎士だ。前掛けに手には調理用の木匙といういでたちから察するに、今日は食事当番だったようである。
「……フィー」
「今日のスープ、けっこう自信作なんだけどな。ひょっとして口にあわなかったりする?」
あまり手をつけられていないスープ皿を示して言うフィーに、ラクチェは慌てて首を振った。
「ううん、そんなことないわ。すごくおいしいわよ」
「それにしては全然食が進んでないじゃない。具合でも悪いの?」
心配そうに問うてくるフィーに、ラクチェは無理に笑顔を作って見せた。
「そういうわけじゃないの。ちょっと疲れてるだけよ。ほら、ずっと戦いが続いてたから……」
半分は本当で、半分は嘘である。確かに歩兵部隊は激戦の連続だったが、ラクチェ自身は一週間の謹慎処分を受けていたからあまり前線に出ていないのだ。だが騎馬部隊とともに行動していたフィーはそれを知らないらしく、納得した様子で肩をすくめた。
「ああ、そういうこと……確かに、ここんところ立て続けだったもんねえ。あたしも毎日偵察ばっかりでもうくったくたよ」
「ペガサスナイトはフィーだけだもんね。ごめん、一番疲れてるのに愚痴なんか言っちゃって」
「やだあ、そんなの気にしないでよ。ラクチェだって前線でバリバリ戦ってるんだもん、他の人より疲れて当然だわ。パンのおかわりいる?」
「ううん、もう十分」
そのまま立ち去るかに思えたフィーだったが、何かを思い出したようにラクチェの前にすとん、と腰を降ろした。
「ねえ、ラクチェ。前からずーっと聞いてみたかったんだけど……」
その改まった様子に、ラクチェはぎくりと肩をすくめた。
「な、何?」
何を聞かれるのかと思わず身構える。
「あの……ね……」
フィーが口篭もる。心なしか頬が赤い。
やがて、彼女は意を決したようにその質問を口にした。
「……オイフェさんって、好きな人いるのかなあ」
「え?」
予想だにしなかったその問いに、ラクチェが目を丸くする。思わず見返すと、フィーは首筋まで真っ赤になってしどろもどろに言い訳した。
「べ、別に、大した意味じゃなくて……その、ほら、オイフェさんってあんなに渋くてかっこいいのに女の人の話って聞かないじゃない?だから、イザークに好きな人がいるのかなあって……何よォ、悪い?」
ぶうっと膨れたその顔にラクチェは自分が笑みを浮かべていたことに気づいて頬を引き締めた。
「別に何も言ってないじゃない」
「目が言ってる!……もう、別にいいじゃない、あたしが誰を好きだって」
「だから何も言ってないってば。でも気づかなかったなあ……いつからなの?」
にこり、と笑んで問うと、フィーはかすかに頬を染めて答えた。
「……笑わないでね……6つの時からずーっとよ」
「6歳から?って……だって、その頃は」
自分たちは逃亡生活のさなかだった。フィーとてそれは変わらないはずだ。
「ああ、ラクチェは知らなかったのよね。オイフェさんね、お母様を訪ねて今までに二回くらいシレジアに来てるのよ」
「シレジアに……じゃあ、その時から?」
「うん、道に迷って泣いてたあたしを馬の上に抱き上げて運んでくれたんだぁ……あの時のオイフェさん、かっこよかったなあ……」
夢を見るような目つきのフィーにラクチェは苦笑する。
「それがフィーの初恋ってわけね」
「そ。で、どうなの?オイフェさん、好きな人っているの?」
「詳しくは知らないけど……たぶんいないと思うわよ」
「よかったあ!」
ぱっと花が咲いたように笑うフィーに、ラクチェは続けようとした言葉を飲み込んだ。
オイフェに特定の女性がいないのは事実だ。だが、それは彼がセリスに忠誠を誓って滅私に徹してきたことを意味している。その彼が、フィーのアプローチに振り向くとは思えなかった。
だが、ラクチェは同時に心が温かくなるのを感じていた。あのまじめで誠実でその分カタブツな自分たちの保護者のよさに気づいてくれる存在がいたことが本当に嬉しかったのだ。
だから、彼女は自然にその言葉を口にしていた。
「がんばってね、フィー」
「がんばっちゃうわよー。絶対振り向かせてみせるんだから。押しの一手あるのみ!」
むん、と握りこぶしを作るフィーに、自然に笑みがもれた。
「その調子!でもオイフェさんってほんとに難物よ?覚悟できてる?」
「そんなのとっくに知ってるわよお。そっちこそヨハンさんとはどうなってるの?」
思わぬところから話がつながってしまった。ぎくり、と止まったラクチェの手から匙が落ちる。からん、とやけに大きく響いた音に、フィーも察したらしい。
「……進展してないわけね。ていうより、ひょっとして逃げ回ってない?」
「フィー……」
「図星みたいね……あのね、ラクチェ。ヨハンさんってけっこう女の子に人気あるのよ?油断してたらほんとに他の人に取られちゃうんだから……彼の何が不満なのよ」
彼の大仰な言い回しに引いているのは男たちが多い。女性に対しては完璧な紳士であることも手伝って、女性たちの間ではヨハンの評価は決して悪くはなかった。もっとも、それはヨハンがラクチェに示す一途な愛情も手伝ってのことであるが。
「別に、不満ってわけじゃ……とにかく、こっちにもいろいろあるのよ」
としか、ラクチェには言えない。ドズルとイザークの確執はシレジア出身のフィーには理解し難いことのように思えたし、自分でもうまく説明できないような気がした。フィーもこの件に関しては半分あきらめているようで、肩をすくめる。
「もう、贅沢なんだから……足元すくわれちゃっても知らないからね」
まさかその台詞が現実になろうとは、このときは二人も思ってもみなかったのだ。
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