■幾千の夜を越えて 第七章-1■
破竹の快進撃を続ける解放軍はついにトラキア王国を平定し、半島全土よりグランベル帝国及びロプト教の勢力を駆逐することに成功した。この勝利をもって、解放軍は強大なグランベル帝国に比肩する領土と勢力を有する一大勢力となったのだ。
民衆の支持はいまや完全に彼らのものだった。その彼らの元へ、ミレトスを始めとする自由都市連合より進軍の依頼が舞い込んだのは当然の成り行きと言えよう。かつて王国同士が群雄割拠していた時代は商業都市として自由を勝ち得ていたこれらの都市群は、帝国の圧力によりその自由を失い、昨今のロプト教復活による子供狩りの影響で目に見えて活気がなくなっていた。彼らは解放軍が帝国とロプト教を打倒し、新しい時代が来ることを待ち望んでいた。
かくして、解放軍は新たな土地に足を踏み入れることとなった。彼らが激烈な戦闘の末に帝国の手より自由都市ペルルークを解放したのは季節も晩秋から初冬に差し掛かった頃のことで、盟主であるセリスはこれを機に全軍にしばしの休息を命じた。
相次ぐ激しい戦闘に歴戦の勇者たちにも疲れが見え始めている。無理もない。イザーク王国の辺境ティルナノグを進発してよりここペルルークに至るまでに要した期間は一年に満たないのだ。その間にイザーク王国よりドズル軍を駆逐し、イード砂漠を越えてレンスター王国を解放、フリージ軍を追い払った余勢を駆ってさらにトラキア王国を平定してきた。まさに破竹の快進撃だ。だがそこにはいくつもの幸運な要素が絡んでいたことは否めない。そして、この先が勢いに乗るだけでは勝ち抜けない場所であること、ここに至るまでに伸びきった補給路を改めて慎重に確保する必要があることを彼らはよく理解していた。
「それが兵法の常道……だったよね、オイフェ」
そう言ってにっこりと笑った教え子を、オイフェはまぶしそうに見やった。
「そのとおりです。よく覚えておいででしたね」
「そりゃあ、あれだけ徹底的に叩き込まれればね」
彼、セリスが自身の身の上を知ったのは10歳の頃のことだ。彼に真実を告げたオイフェは、同時に様々なことを教えてくれた。剣や槍を学び、技を鍛えるだけではなく、かつて彼がシグルドの下で学んだ軍を束ねる将として必要な知識のすべてを叩き込んだ。それはティルナノグで暮らしていた他の子供たちも同様であったのだが、特にセリスに対してのそれは苛烈を極めるものであったことを付記しておく。
「あの頃は隠れて泣いたりもしてたけど……今なら、オイフェの言った意味がわかる気がするよ。私の肩には解放軍の命運がかかっている。軍を率いる人間は、決して間違えてはいけないんだ」
そう言って、先ごろ20歳の誕生日を迎えた若き解放軍の盟主は椅子の背もたれに背中を預けた。
「でも、正直なところここで軍を止めることができてほっとしてるよ。このまま一気にグランベルに突入しようなんていわれたらどうしようかと思った」
「一時はそれも迷いましたが……レヴィン王とヨハン殿に一時停止を進言されましたのでね」
「レヴィンはともかく、ヨハンが?」
シレジア王は各地を放浪した経験からセリスの相談役としてオイフェとはまた違った立場で常に助言を与えてくれる。トラキア王国への進軍を迷っていたセリスを一喝したことは記憶に新しい。その意味では、彼が解放軍の進路に対し口をはさんでくるのは珍しくないことだった。だが、今名の上がったドズルの王子は話が違う。
訝しげに問うたせリスに、オイフェは重々しく頷いた。
「はい。現在帝国内部、主に宮廷内の事情を探っている最中のようで、もう少し待って欲しいとのことでした」
その話にセリスも得心した。ヨハンはかつてドズル王国の第二王子として数ヶ月前までグランベルの王宮にも出入りしていた人間だ。その頃の伝を使えば、彼らでは決して得られない情報を得ることができる。
「そうか……彼にはいつも迷惑をかけるな」
前線での目覚しい活躍はあまり聞かない。その代わり、こういった情報戦に強いのがヨハンという男だった。その意味では、オイフェにとってはレヴィンとは別の意味でよき相談相手でもある。
「そのヨハン殿ですが……先ごろグレートナイトへの昇格資格を得られた由にて、レヴィン王が昇格の儀式を行いたいと仰せです」
「ヨハンが?それはよかった。さっそく手配しておかないとね」
前線に出る機会が減ったためか、上位クラスへの昇格が遅れていた彼であるがこのほどようやく資格を得ることができたらしい。素直にそれを喜んだセリスだったが、ふいに口元に悪戯げな笑みを浮かべた。
「ラクチェが喜ぶだろうな。案外、ヨハンもそれが一番嬉しかったりして」
「でしょうな。当人もずいぶん気にしていたようですし」
「あ、やっぱりそうなんだ」
「仕方ありますまい。恋人は軍内で真っ先に昇格しているのですから」
ラクチェが上位クラスであるソードマスターへの昇格を果たしたのはマンスター城に到達する直前のことだ。もちろん、軍内では一番乗りだった。彼女の前線での活躍ぶりを見れば当然の話であるが、彼女に近い人間から見れば内心忸怩たるものがあったに違いない。特に先を越された兄のスカサハなどはかなり落ち込んでいたらしいが、それは別の話である。
「じゃあ、盛大にやってあげないとね」
そのセリスの言葉どおり、昇格の儀式は盛大に行われた。
儀式そのものは、エッダ教の教会で行われる荘厳なものだ。正装に身を包んだヨハンは、床に膝をついて神妙な面持ちでレヴィンの語る祝福の言葉に耳を傾けた。やがて天より祝福の光が舞い降りる。優しい光に包まれて、ヨハンは静かに目を閉じた。
全身に、力が満ちてゆくのがわかる。神の祝福を受けて、今まさに自分は生まれ変わろうとしているのだ。
やがて目を開けたヨハンに、レヴィンは厳かに告げた。
「これで儀式は終了だ。今得た力の使い道を間違えることなく正しい道を歩んで欲しい」
「無論……私はこの力を私の愛するものとこの解放軍のためにだけ振るうことを約束しよう」
すっくと立ち上がった彼に、列席者から万来の拍手が送られた。その中には、彼の大切な恋人ももちろん含まれている。その恋人ラクチェはこちらに歩み寄ってくるヨハンに嬉しそうに駆け寄った。
「おめでとう、ヨハン」
「ありがとう、ラクチェ。君にはずいぶん遅れをとってしまったが、これでようやく胸を張れるというものだ」
「やだ、そんなこと気にしてたの?」
「おかしいか?私はいつでも君を守るための盾でありたいと思っているのだ。ソードマスターの盾になるのならそれなりの力を持っていなくてはな」
「そんなの、別にかまわないのに……あたしは」
あなたがいてくれるだけでいいんだから。
隣にいたスカサハには彼女が小声で呟いたその台詞がしっかり聞こえたらしい。花も恥らうその姿に彼はぽりぽりと頭を掻いて顔をそむけた。代わりに割り込んだのは、パティである。
「はいはいはーい、ラクチェ、あんたたちがラブラブなのはわかったからそのくらいにしといてよねっ。いつまでたっても次に進まないじゃない」
そのあからさまな物言いにラクチェがぱっと頬を染める。
「わ、私は、別に」
「この日のために皆で腕によりをかけて準備した料理が冷めちゃうわ。さ、早く行きましょ」
くるり、と身を翻すパティ。マイペースな彼女には誰もかなわないと言うのが解放軍内では定説と化している。事実、彼女は盗賊時代に培った審美眼を生かして解放軍の台所事情を一手に預かる身となっていたので誰も(そう、セリスやオイフェですらも)かなわないのだ。唯一勝てるといえばイザーク王子シャナンだが、彼はなぜかパティにだけは存外に甘いところがあるので結局パティが最強であることに変わりはないのだった。
儀式に列席していた者たちも苦笑して彼女の後に続いていく。最後にその後に続こうとしたスカサハは、隣にいたはずの恋人の様子がおかしいことに気づいて声をかけた。
「……ラナ?」
声をかけられてはっと我に返った様子でスカサハを見返してくるラナ。その顔色は肌の白さを差し引いても真っ白で、まったくと言っていいほど血色がない。そういえば、朝からあまり体調がよくないといっていたことを思い出す。最近ではその気丈な姿に周囲には忘れられがちであるが、元々彼女はひどい虚弱体質で幼い頃はベッドを出ることもできなかったほどなのだ。それをしっかり覚えていたスカサハは、心配そうに手を差し伸べた。
「どうしたんだ、真っ青じゃないか。具合でも悪いのか?」
「う、ううん、何でもないの」
「何でもないわけないだろう。ほら、施療院まで連れてってやるから」
「ほんとに、大丈夫だから……」
気丈に首を振るラナ。だが足元のおぼつかなさは隠しようもない。眉を寄せたスカサハは、肩を支えてやろうと歩み寄る。その手が伸ばされた刹那、だった。
「……ッ」
ふらりとよろめいたその細い身体が恋人の腕に倒れこんだのは。
「ラナ!」
「ちょっと、大丈夫!?」
「すぐに薬師を!」
集まった人間のうちほとんどが退室していたとはいえ、儀式の場はちょっとした騒ぎになった。
怪我の治療はプリーストの仕事であるが、彼らの力は疲労や病には効かないのが常だ。ゆえに、この世界には薬師と呼ばれる病気を治療する専門の人間が存在する。彼らは様々な効能を持つ薬草を駆使し、神ではなく自然の力にすがることによって人々を治療していた。
当然であるが、解放軍にも軍医のような役割を果たす薬師が同行している。話を聞いたレスターに引きずられるようにして控え室に連れてこられた薬師は、居並ぶメンバーの身分の高さに多少気後れしつつラナの診察にあたった。
「どうですか?」
これほど不安げなスカサハの声は恐らく二度と耳にすることはないだろう。薬師はなかなか答えない。ただ彼女の額に触れて熱を測ったり脈を診たりしている。幾分のんびりとしたそのしぐさにスカサハがわずかな苛立ちを見せ始めたその時、薬師はようやく顔を上げた。
「……ふむ。どうも私の分野ではないようじゃな」
「それは、どういう……?」
「どなたか、この教会のシスターを連れてきては下さらんか」
首をひねる彼らの中で真っ先に動いたのはやはりラナの兄であるレスターだった。
「しばらくお待ちください」
退出していくレスターを見送って、人垣の後ろにいたフィーは隣に立っていたパティにこそこそと尋ねた。
「ねーねー、シスターってもしかして……」
「あ、フィーもそう思った?」
「うん。だってラナ、最近あんまり食欲ないって言ってたし。その割に柑橘系とかはよく食べてたし……」
「スカサハとの仲も絶好調だったしねー。ってことはァ……」
そこへ、レスターがシスターを連れて戻ってきた。
「私に何か御用でも?」
「ふむ。こちらのお嬢さんなんじゃがの……わしの見立てでは」
「え?」
後半はこそこそと告げた薬師にシスターは目を丸くした。そして、居並ぶ人々を振り返り、告げたのだ。
「申し訳ありませんがしばらく外に出ていてはいただけませんか?」
「どうしてですか」
食い下がるのはもちろんスカサハだ。そんな彼に、シスターは優しく微笑んで答えた。
「御身体の様子を見させていただきますのでね。殿方がいらしては診察もままなりませんでしょう?」
もっともな言い分にスカサハが顔を赤くする。
「……そうですね。すみません」
「いいえ。あなたはこの方の…?」
「恋人です」
「そう。心配なのはわかりますがもう少し待っていてくださいね」
シスターに見送られて彼らは控え室を出た。
「大丈夫かな……最近は熱を出すことも少なくなったから安心してたのに」
呟いたセリスに、スカサハが頭を下げる。
「すみません。俺がもう少し気をつけてやれば……」
レスターが小さく首を振った。
「スカサハのせいじゃないよ。ラナががんばりすぎなんだ。今日みたいな場合にも何も言わないんだからな。あいつは昔からそうなんだ」
ラクチェが同調する。
「そうよね。あたしの心配をする半分だけでも自分の身体に気を使えばいいのに」
「そうだよなあ。ラクチェの心配はするだけ無駄なわけだし」
見当違いのことを呟いてうんうん、と頷くデルムッドをじろりと睨んで、ラクチェはその足を蹴飛ばした。
「痛っ!何するんだよ!」
「あんたは一言多いのよ」
その傍らで、ヨハンがひとつ頷いて呟いた。
「そうだな……ラクチェの心配は私に任せてラナ殿はもう少しご自身の心配をされるべきであろうな」
「ヨハンも!いきなり何言ってんのよ!」
こちらは真っ赤になって叫ぶラクチェ。その対応の違いにデルムッドがくさった。
「ったく、幼なじみなんてこんなもんだよな……」
「まあまあ」
レスターがぽんぽんとその肩を叩いてやる。
そこへ、ドアが開いてシスターが顔を覗かせた。
「どうですか?」
勢い込むようにして真っ先に尋ねたスカサハに、シスターはにっこりと笑って答えた。
「ええ、大丈夫。もう心配はいりませんよ」
彼らの間にほっとしたような空気が広がっていく。そこへ、シスターはさらに続けた。
「ただ、つわりがひどいようなのでしばらくは安静にしなくてはいけませんよ」
「……つわり?」
言葉の意味が伝わるまでにはしばらくの時間が必要だった。
全員が呆然とする。スカサハも、パクパクと口を動かして、ようやく声を絞り出した。
「……あの、それって……」
シスターはにっこりと笑って、さらに爆弾を落としたのだった。
「『おめでた』ですよ。そろそろ三ヶ月になるところですわね」
真っ先に我に返ったのは、レスターだった。ものも言わずに呆然としているスカサハにつかつかと歩み寄る。それに気づいたのはデルムッドで、彼は慌てて両手を上げて親友を止めようとした。
「わあっちょっと待てレスター!いくら妹をキズモノにされたからって暴力はダメだ暴力は!」
これには後ろで笑いながら成り行きを眺めていたパティもギョッとする。
「ええっ!?ちょっと何考えてんのよレスター!弓騎士のあんたが腕力で剣士に勝てるわけないじゃない!」
男の沽券に関わりかねない言われように、レスターはがっくりと肩を落としてこの年下の従妹を振り返った。
「あのな……何の話をしてるんだよ」
「だって、デルムッドが」
「ったく、すぐ早とちりするんだから……」
ぶつぶつ呟いて、レスターはスカサハに向き直る。
「当然、覚えはあるんだよな?」
ストレートなその問いに女性陣が赤くなる。スカサハもちょっと赤くなったが、すぐにまじめな顔になってこくりと頷いた。
「ああ」
その頃は、トラキア王国へ進軍を開始した時期にあたる。当時妹や従兄と共に常に前線に立っていたスカサハは当然のことながら市民の風当たりも強く、精神的にかなり追いつめられていた。どうしてもはずせない用事で街に出た際に心無い人間から石を投げつけられたこともあったのだ。ここにいる面々は、この優しい青年がどれほど苦しんでいたか、妹が同じ目に会わないようにどれほど心を砕いていたかをよく知っていた。
「こんな時期に……その、悪いなとは思ってるよ。でも、俺は」
頭を下げようとするスカサハに、レスターはふっと笑って言った。
「謝るなら、俺に対してじゃないだろ?」
「え?」
「それに、俺はおまえを責めるつもりはないよ。俺は、兄貴のくせにあいつには何もしてやれなかったからな。今さら兄貴面してしゃしゃり出たりしたらラナに怒鳴られそうだ」
「レスター……」
「ほら、早くラナのところにいってやれ」
小さく頷いて、スカサハは控え室に入っていく。それを見送って、レスターは事の成り行きを見守っていたセリスにぺこりと頭を下げた。
「そういうわけです。申し訳ありません、セリス様」
神妙な様子に、セリスはふわりと笑って言った。
「どうして謝るんだい?せっかくのおめでたいニュースなのに」
「こんな状態では妹は戦線離脱は免れません。そういう意味では、彼らの行動は確かに軽率でした。これは俺の監督責任でもあります」
「うん、確かにそういう考えもあるかな」
「処罰は俺だけにお願いします。妹にはこれ以上心労をかけたくありません」
子供の父親であるスカサハが処罰を受けたとなれば、ラナは受け入れた自分のせいだと自分を責めるだろう。安定期前の不安定な母体に負担はかけたくない。そう進言するレスターに、セリスはしばし考え込むそぶりをみせた。
「そんな、処罰だなんて……誰も悪いことしてないじゃない」
不満そうに呟くパティをデルムッドが嗜める。
「それは戦争のない平時であれば、という条件付だろう?ラナは後方部隊とはいえ重要な回復役だ。そのラナが動けなくなるってことは、その分他の人に負担がかかるってことなんだぞ」
「あ……」
ようやくわかったようでパティも口をつぐむ。
やがて、セリスはひとつ頷いて顔を上げた。
「レスターの言い分もわかるけど、ここはあの二人に平等に罰を受けてもらうよ」
「セリス様!」
「その一、しばらく外出禁止。そのニ、レスターとスカサハは兵の訓練に率先してあたること。その三、これが一番重要なんだけど……生まれた子供の名付け親を私にやらせること。以上三点でどうだい、オイフェ?」
彼らの親代わりを勤めてきた保護者は重々しく頷いてみせた。
「よろしいのではありませんかな」
「セリス様……」
「そういうわけだから、よろしくね」
そう言ってにっこりと笑ったセリスに、彼らは顔を見合わせてくすりと笑った。
後にセリスはこの時のことをこう述懐している。
「だって、父上の頃は日常茶飯事だったんだろう?私だってそうやって生まれているんだしね。それを考えれば、彼らを責められるわけがないじゃないか」
心温まる話題に和んでいた彼らが突然舞い込んできたユリアの誘拐失踪という凶報に戦慄するのは、この数日後のことである。
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