■幾千の夜を越えて 第二章■
「ではヨハルヴァの元へはスカサハ殿が?」
尋ねたヨハンに、ラクチェはギクシャクとうなずいた。
「スカサハは、ヨハルヴァとは知り合いだから……きっとわかってくれるはずだって言って」
呟くように答えながら、そっとヨハンの様子をうかがう。部下に渡されたタオルで血糊を拭い落とした彼はいつもどおりの穏やかさで、さっきの畏怖すら覚えるほどの冷徹さは影をひそめている。だがラクチェは、初めて見た彼の激しさを忘れることができずにいた。
ただの軽い奴だと思っていた。いつもニコニコしていて、腹の底を読ませないあたりはさすがに大貴族の子弟らしいと言うべきだろうが、気迫というものに欠けるとラクチェはいつも思っていたのだ。なのに、内にあんな激しさを秘めていたなんて。
今彼は、ラクチェの言葉を受けて少し考え込んでいるようだ。少し眉を寄せたその横顔は普段は決して見せない憂いを漂わせている。しばし言葉もなくその横顔に見とれていたラクチェは、はっと我に返ってぶんぶんと首を振った。
(私ったら、何を……!ここは戦場なんだから、しっかりしなきゃ……!)
あえて眉根に力を寄せ、顔をしかめたそのとき、ヨハンがふっと振り返った。
「……ラクチェ、セリス皇子は今どちらに?」
「え、あ……セリス様なら、今は教会の方に……」
「そうか。ではまずご挨拶をせねばな」
「えっ?でも……ヨハルヴァのことは」
尋ねかけて、ヨハンが一瞬だけ見せた無表情にはっとする。いやな予感が脳裏を掠めた。彼は、何かを悟っている。そして、それを自分には悟らせまいとしている。そんな気がしてならない。
「ではラクチェ、案内してもらえるかな?」
ふ、と微笑したヨハンにはっと我に返り、こくこくとうなずいたラクチェである。
「セリス様、ヨハン王子をお連れしました」
そう告げて、ラクチェは礼拝堂へと続く重い扉を押し開けた。
正面に、一人の青年の姿がある。淡く光が差し込むステンドグラスをバックに、背後に口元にひげを蓄えた銀の甲冑姿の騎士を従えたその姿は一種異様なまでの存在感を持っていた。
セリス。解放軍盟主にして悲劇の英雄シグルドと薄幸のグランベル皇女ディアドラの忘れ形見。バーハラの悲劇から17年、グランベル帝国内にロプト教の魔の手が広がるにつれてその名は唯一の希望として語られてきた。
年齢は19歳になったばかり。父譲りの青い髪と、母譲りの優しい面影を宿した顔立ち。穏やかでありながら決して折れないしなやかな強さが伺える。過大な期待を背負わされた運命の皇子は、夜空の色の瞳を真っ直ぐに正面に向けていた。
背後に立つヨハンがかすかに息を呑む気配が感じ取れた。同じ聖戦士の血をひく者として、わかるのだろう。彼がまさしくこの乱世の光となるべく生まれてきた者であるということが。
かすかに小首を傾げて、セリスは口を開いた。
「ヨハン王子、我々の招きに応じてくれたことを感謝します」
す、とヨハンが進み出る。そして優雅なしぐさで膝をつき、深く頭をたれて、言った。
「セリス皇子、お会いできて光栄に存じる。敵対してきた私などに対するその温情、まことに感謝にたえぬ。どうか私をあなたの貴下の勢力に加えてほしい」
席を立ったセリスがヨハンの手を取る。
「それは私がお願いしたいと思っていたことです。ヨハン王子、どうか我々とともに戦ってください。このユグドラルからロプト教の暗雲を振り払うために」
その手をしっかりと握り返し、ヨハンは力強くうなずいた。
「もちろんだとも」
視線をひたりと合わせ、二人は微笑みあった。と、ヨハンが何かを思いついたように口を開いた。
「ああ、一つ忘れていたが……」
「なんですか?ヨハン王子」
きょとん、と首を傾げたセリスに、彼は思いがけないことを言い出したのだった。
「実は……今日を限りにその敬称をやめていただきたいのだ」
セリスは少し面食らったようにヨハンを見返した。
「しかし、あなたは……」
「私には過ぎた呼び名だ。私はこの国をイザークの民とシャナン王子にお返しするためにここへきたのだから」
「ヨハン王子……」
「今日この日より私はあなたの部下だ。どうぞヨハンと呼び捨てにされよ」
「……わかりました。では今日よりあなたのことをヨハン殿とお呼びしましょう。解放軍盟主を名乗ってはいても私はまだまだ未熟者です。あなたにもいろいろと教えてもらわねばならないでしょうから」
生真面目に答えるセリスに、ヨハンが微笑する。
「ご好意、感謝する」
「では少し休息を取られるとよいでしょう。ラクチェ、彼を部屋に案内してあげてくれるかな」
うなずいたラクチェが進み出ようとするのを、ヨハンの静かな声がさえぎった。
「それには及ばぬよ。私はこれよりすぐソファラ城攻略に向かわねばならぬゆえ」
「え……」
「弟は……ヨハルヴァは、あれでいて気性の激しい男だ。私が解放軍に寝返ったことを知れば怒りに燃えて攻撃を仕掛けてくるだろう。私の手で決着をつけたいのだ」
「ヨハン!それは……!」
「いいのだ、ラクチェ。これは……私に課せられた使命なのだから」
そこで、セリスの背後に控えていた聖騎士オイフェが口をはさんだ。
「しかし、ヨハン殿……ヨハルヴァ殿の元へはすでにスカサハが向かっているはずだ。首尾よく説得に成功している可能性は……」
その問いに、静かに首を振る。
「おそらく……弟は説得を受け入れはしないだろう。あれは、変節を嫌う男だから」
答える横顔は、いっそ無表情ともいえるほどで。それが、よけいに彼の悲しみをうかがわせる。
「しかし、わざわざ兄であるあなたが出向かずとも……」
「―――17年前、叔父のレックスは父親の過ちに自らの手で裁きを下したと聞く。オイフェ殿、お心遣いには感謝するが……これは、私が行うべきことなのだ」
オイフェが一瞬言葉に詰まる。17年前のことは、彼自身が誰よりもよく知っていた。だからこそ、ヨハンの壮絶な決意に気づかざるをえなかったのだ。
静かに微笑して。ヨハンは、再び立ち上がった。
「では、失礼する」
「ヨハン、まってよ!」
ラクチェが慌ててその後を追っていく。それを止めようと手を伸ばしかけたセリスを、オイフェが制した。
「セリス様……この場はあの二人に任せるが賢明と存じます」
「しかし……」
「彼は、自分の為さねばならないことをよくわかっています。彼を支えられるのは……おそらくラクチェだけでしょう」
一瞬、つらそうな顔をして。結局、セリスは黙り込んでしまった。そんな彼に、オイフェは静かに進言した。
「我々は一刻も早く陣容を整えねばなりません。ソファラ方面は彼らに任せて、進軍の準備をすすめるべきかと存じます」
「……そうだね。イザークが同盟関係になった以上リボーまではあと少しだ。今はそのことだけを考えよう」
リボー城にはダナン王がいる。聖斧スワンチカは長男ブリアンに預けてあるとはいえ、ドズル家の当主が相手だ。彼らも聖戦士の血をひくとはいえまだ若く、兵数もそろっていない。一筋縄でいかないのは自明の理であるといえる。
理解の早い教え子の言葉に、オイフェは微笑して引き下がった。
* * *
「イザーク軍が反乱軍に寝返っただと!?」
思わず声を荒げたヨハルヴァに、報告にきたソファラ兵はびくっと肩をすくめた。
「は……はい、間違いありません。ヨハン様以下半数が反乱軍に投降し、残る半数は戦場を離脱したと……」
「くっ……やりやがったな、あのクソ兄貴!」
がん、と拳をテーブルに叩きつけて、ヨハルヴァは吐き捨てた。
四つ年上の兄ヨハンは、ヨハルヴァにとって微妙な存在だった。生まれて間もなく母を失い、ほとんど四面楚歌の状況にあってなお前へと進みつづける姿は尊敬に値する。自分も母は健在とはいえ同じ妾腹の身、才覚を示さねばいつ野に放逐されるとも知れない。母を守るため、そして何より己のために努力を必要とした自分にとってあの兄は格好の目標だったのだ。
一方で、なじめない何かを感じてもいる。長兄ブリアンよりは確かに信頼も尊敬もできるはずなのに、どうしても一歩を踏み込めない。顔を見れば苛々してまるで八つ当たりのように接してしまう。そのもっとも大きな理由は、あの鷹揚な態度と大げさな台詞回しにあるとヨハルヴァは思っている。
(……本音が見えねえんだよな)
ヨハルヴァは良くも悪くも一本気な青年である。真っ直ぐにぶつかっても答えを返してくれない相手がどうも苦手なのだ。いくら本音を引き出そうとしても、ヨハンはするりとかわしてしまう。口元には笑みを浮かべながら、目だけが笑っていない。いつも、深く沈んでいる。あの目に見つめられると自分の未熟を思い知らされる気がして、どうしても反発してしまうのである。
その兄が、一人の美しい少女に執心していると知ったのは一年前のことだ。興味を覚え、さっそく城下に出て……そして、ラクチェに出会った。
一目で心を奪われた。美しさばかりでなく気の強さや潔さといった部分はグランベル本国で見てきた王侯貴族の娘たちよりもはるかに好ましいものにヨハルヴァには思えた。同時に、納得もしたのだった。あの兄がとりこになるだけのことはある、と。
常に先を歩いていた兄。自分は追いつこうとあがき、それはこれからも続いていくのだと、いつか絶対に追いついて肩を並べてみせると、そう思っていたのに。まさかその兄が、これまで築き上げてきたすべてをなげうってラクチェのもとに走るとは、さすがに予想外だった。
(……俺にはできねえ)
ラクチェを愛している。それはもちろん、心から。でも、自分には捨てられない。他に頼る者もなく今もリボーの城の片隅で自分の訪れる日を待っているであろう母を。あの冷酷な父のことだ。自分が裏切ったと知れば、見せしめとして真っ先に母を殺すに違いない。
しがらみに縛られる自分。それらを断ち切ったヨハン。自分たちの間に、どんな差があるというのだろう。それを確かめたいと、ヨハルヴァは思った。
「……出撃だ。逆賊もろとも反乱軍を叩く。総攻撃で一気に片をつけるぞ!」
顔を上げて言い切ったヨハルヴァに、ソファラ兵は姿勢を正して敬礼した。
「はっ!」
整然と進軍を始めて間もなく、ソファラ軍は前方に立つ一人の兵士の存在に気づいた。背中に背負った大剣に、ヨハルヴァはすぐにそれが誰であるか知った。
「……スカサハか」
ラクチェの双子の兄だ。顔立ちは性別の違いを覗いてもよく似ている。細身の身体に似合わぬ大剣を軽々と振り回して神速の秘技『流星剣』を繰り出す様をかつてたった一度だけ見たことがある。
性格は、勝気な妹に比べて一歩ひいて穏やかに見えるが、その実誰よりも真摯で一本気だった。ヨハルヴァにとっては初対面で大喧嘩をやらかして以来、妙に気の合う相手でもある。
イザークの王族と知っても、父王へ連絡する気にはなれなかった。そんなところがスカサハも気に入ったらしく、グランベル軍ということで最初は警戒を解かなかった彼が最近は少しずつ打ち解けてきていたのだが。
ここにスカサハがいる意味を、ヨハルヴァは正確に理解していた。彼は、自分を説得にきたのだ。部下を誰一人連れていないのが何よりの証拠である。そして、自分がもはやその説得に応じるわけには行かないこともわかっていたのだった。
近づいてくるソファラ軍に、スカサハは姿勢を正して言い放った。
「ソファラ軍司令ヨハルヴァ王子とお見受けする。私は……」
「固い言い方するんじゃねえよ、スカサハ。用件を言いな」
さえぎるヨハルヴァに、やや鼻白んだ様子で押し黙る。だがすぐに気を取り直し、言葉を続けた。
「……俺がここに来た理由はたった一つだ。ヨハルヴァ、すぐに武器を捨てて投降してくれ。俺はおまえとは戦いたくない」
「馬鹿言うんじゃねえよ。俺はソファラ軍の司令官だぜ?味方を捨てて投降なんてできるわけねえだろ」
「なぜだ?おまえたちと俺たちの間に何の違いがある?おまえだってグランベル本国のやり方には嫌気がさしているんだろう?俺は……セリス様は、虐げられたこの国の人たちを救うために立ち上がったんだ。だから……」
「忘れるんじゃねえよ。俺は、その虐げる側の人間だぜ。どうしたっておまえたちと同じにはなれやしねえんだ」
「ヨハルヴァ!」
「馬鹿でどうしようもねえけど、あれでも俺のオヤジだ。俺は、オヤジを捨てられねえ。おまえたちの目的がオヤジを倒すことなら、俺はおまえたちと戦うしかねえんだ」
そう言って、ヨハルヴァは腰にさした鋼の斧を抜き放った。
「そういうわけだ。問答は無用だぜ。俺はおまえを倒して先へ進む。止めたければかかってきな!」
「ヨハルヴァ……」
「それとも何か、その背中に背負った大剣はただのお飾りか?イザークの王族が聞いて呆れるぜ」
わざと挑発する。だがそれにのってしまうほどスカサハは思慮の浅い男ではない。剣の柄に手をかけはしたが、抜き放つことには迷いを感じているようすだった。
「オラ、抜けよ!抜いて、俺と戦え!」
いらついて、叫んだときだった。
「――――相変わらずのようだな、ヨハルヴァ」
場にそぐわない、静かな声が緊迫しかけた空気を引き裂いた。顔を上げなくても、ヨハルヴァにはそれが誰の声かわかっていた。ある意味、彼が現れるだろうことはまるで既定された事実のように理解していたからだ。
「……やっときたかよ、クソ兄貴」
吐き捨てるように、ヨハルヴァは呟いた。
さかのぼること、一時間ほど前。
「ねえ、ちょっと、本気なの!?」
後ろを追いかけながら尋ねてきたラクチェに、ヨハンは静かに答えた。
「もちろんだ。さっきも言っただろう、これは私の使命なのだよ」
「使命って……ヨハルヴァはあなたの弟でしょ!?」
「弟だからこそ、だ。弟の過ちは、兄の手で正してやらねばな」
「だからって、戦うことはないじゃない!ちゃんと話せばわかるかもしれないのよ!」
そこでヨハンは初めて足を止め、振り返った。いきなりの行動に、勢いのとまらなかったラクチェはどすん、と突っ込んでしまう。
慌ててはなれようとしたが、かなわなかった。背中に回された腕に、ぎゅうっと抱きしめられていたので。
「ちょっ……ヨハン!?」
「……君にはまだわからないかもしれないな。刃を交わすことで伝わる思いがあるということが」
「え……」
「確かに……私は今までヨハルヴァと面と向かってきちんと話したことがない。あいつの目が怖かったからだ。真っ直ぐすぎて……何もかもを見抜かれてしまいそうで……」
「ヨハン……」
「今となっては後悔しても遅すぎるがな。ヨハルヴァも今さら私の言うことなど聞くまい。だから、戦うのだ」
「あなた……まさか」
死ぬつもりじゃ、といいかけた言葉は声にならなかった。抱きしめる腕にさらに力がこもる。
「ラクチェ……見届けてくれ。これは、君にしか頼めないのだ」
小さな痛みがラクチェの胸を走った。確かに、これは自分の使命なのだろう。変わらぬ真実の想いを向けてくれた二人に対して、自分も何らかの形で答えねばならないのだから。
ヨハンの愛馬に同乗する形で、二人は戦場を目指した。会話はない。それでも、ヨハンは背中に感じるラクチェの気配だけで不思議と心が凪いでいる自分に気がついていた。
弟を手にかけようとしていることに関して、罪悪感がないわけではない。それでも、ドズル家の再生を決意したからにはためらいは許されないこともわかっていた。ヨハルヴァがあくまでも戦うつもりなら、自分は受けてたたねばならない。
刃を交わすことで伝わる思いがあるとヨハンは信じている。この戦いがどんな結末を迎えるにせよ、せめてこの思いが正しく弟に伝わればいいと願っていた。そして、自分がもし敗れ去ったならあの弟が後を引き継いでくれればと。
口に出したなら、ラクチェは何と言うだろう?あの忠誠の誓いはなんだったのだと怒るかもしれない。だが、信じてほしい。この想いに嘘のないことを。
30分ほどもいくと、森を抜けて視界が開けた。前方の草原にところどころ光るのはソファラ兵たちが所持する斧だ。背後から覗き込むように身体を伸ばしていたラクチェがあっと声をあげた。
「スカサハ!」
敵兵と対峙するスカサハの姿を認めて、ヨハンは手綱をひいた。
「ラクチェ、しっかりつかまっていろ」
声をかけて、愛馬の腹を一蹴りした。
ヨハンの愛馬は二人分の荷重をものともせずに快足を飛ばし、ものの5分とたたないうちに二人を現場につれてきた。
スカサハは剣を抜いてはいなかった。柄に手をかけて、迷っているようすだ。対峙するヨハルヴァはすでに鋼の斧を抜き放ち、かまえている。馬の速度を落としたヨハンは、ゆっくりと二人に近づいていった。
「――――相変わらずのようだな、ヨハルヴァ」
声をかけるとスカサハがはっと振り返った。ヨハルヴァのほうは、微動だにしない。ただ低い声で呟いたのみである。
「……やっときたかよ、クソ兄貴」
ひらり、とマントを翻し、ヨハンが馬を下りる。後に続いたラクチェがその足でスカサハに駆け寄った。
「スカサハ!」
「ラクチェ!?おまえ、どうしてここに!」
その前で、ドズル家の兄弟は緊迫した対面を迎えている。
「その様子ではやはり従う気はないようだな……愚かな弟を持って私は悲しいぞ」
「馬鹿はてめえだろ。オヤジを裏切ってなんとも思わねえのかよ?」
「心が痛まぬではないな。だが私はラクチェへの愛に生きると決めたのだ」
「フン……てめえにゃどうせその程度のことなんだろうよ。わかった、もう話すことはねえ。てめえとはいずれ決着をつけようと思ってたんだ!」
「問答は無用!ヨハルヴァ、己が正しいというのならその斧にかけて証明して見せろ!」
二人が同時に斧をかまえる。それを、ラクチェは唇を噛みしめて見つめた。
「ラクチェ、止めないのか!?」
かえってスカサハのほうが動揺しているようだ。その兄に、ラクチェは静かに首を振った。
「……止められないわよ。二人とも……全部わかってて、それでも戦うって言ってるんだから。あたしが何かいえるわけないじゃない」
じり、と二人が動く。ばさり、とマントを脱ぎ捨てたヨハンが叫んだ。
「では、いざ!」
「おう!」
ガキン!と鈍い音を立てて鋼の刃が打ち合った。
二人の間に力かげんはまったく見て取れない。本気で、打ち合っている。ヨハンのなぎ払う刃をヨハルヴァが受け止め、跳ね返す。隙を突いて打ち込むヨハルヴァの刃をヨハンが叩き落す。力はわずかにヨハルヴァが勝っているだろうか。スピードはヨハンが上のようだが、次第に押されぎみになっている。
やがてつばぜり合いになったそのとき、ヨハルヴァが憎々しげに吐き捨てた。
「てめえ……本気でやれよ!こんなもんじゃねえだろ!」
「く……気楽に言ってくれるな、ヨハルヴァよ」
「ふざけんじゃねえ!本気でなきゃ意味ねえんだよ!」
ギイン!
神経に障る鋭い音とともに二人が離れる。わずかに体勢を崩したのはヨハンだった。そこへ、踏み込んできたヨハルヴァが刃を振りかざす!
―――一瞬、だった。すんでのところで踏みとどまったヨハンが、刃を振りかざしたことで無防備になったヨハルヴァの下から斜めに切り上げたのだ。わずかに遅れて血飛沫があがり、ヨハルヴァの手から鋼の斧がゆっくりと滑り落ちた。地につく寸前、伸ばされたヨハンの腕がその身体を抱きとめる。
「ヨハルヴァ!」
「ヨハルヴァ様!!」
周囲のソファラ兵とスカサハが叫ぶ。兄の腕に抱きかかえられたヨハルヴァは、呼吸を詰まらせながら声を絞り出した。
「ぐ……ざまあねえな……ちくしょう……」
「ヨハルヴァ……なぜ手を止めた?あそこで迷うおまえではないだろう……?」
尋ねるヨハンの声がわずかに震えている。
「兄貴こそ……やっぱ、すげえよな……邪魔が入っても、止まりやしねえ……」
「まさか……おまえ、」
そのとき初めて、ラクチェはヨハンの左肩に突き刺さる矢の存在に気づいた。おそらくソファラ兵の誰かがヨハルヴァに加勢しようと放ったものだろう。だが矢が刺さってもヨハンの動きは止まらず、逆にそれに気づいたヨハルヴァが一瞬のためらいを見せた。それが、今の一瞬で二人の勝敗を分けたすべてだった。
「今さら、言えた義理じゃねえんだが……一つだけ、頼まれてくれねえか……?」
「母君のことなら任せておけ。私の名にかけて悪いようにはしない」
「……へっ、お見通しかよ……」
小さく笑ったヨハルヴァが激しく咳き込む。長くもたないと気づいたヨハンは、顔を上げてラクチェを見た。視線を受けて、ラクチェが駆け寄る。
「ヨハルヴァ、しっかりして!」
「ラクチェ……すまねえ……でも、俺は……」
「わかってる!わかってるから、今はしゃべらないで!」
伸ばされた手を、ラクチェがしっかりと握る。遅れて走りよったスカサハも心配そうに覗き込む。
「ヨハルヴァ!」
「スカサハも……ありがとよ。おまえのこと、忘れねえ……」
呼吸が細くなり、途切れた。握る手から力が失われたことを悟ったラクチェがサファイアの瞳を見開き、硬直する。握りしめた拳を震わせたスカサハが、きっとヨハンを睨んだ。
「何で、殺した……?こいつはあんたの弟だろう!?殺すことはなかったじゃないか!」
ヨハンは、答えない。その顔からは表情が抜け落ちている。内面をうかがわせない、むしろ拒絶するかのようなその様子に目を眇めたスカサハは、すっと立ち上がった。
「……俺はあんたを認めない。弟を手にかけて平然としてるような奴に妹はやらないから、覚えといてくれ」
「スカサハ!何も今そんなこと言わなくたって……!」
とがめるラクチェにも耳を貸す様子もなく、背中の大剣を抜き放つ。
「なんか言ってるひまはなさそうだぜ。ラクチェ、おまえも剣を構えろ」
見れば、司令官を失ったソファラ兵が斧をかまえてじりじりと詰め寄ってきている。はっとしたラクチェは母の形見でもある勇者の剣をすらりと抜き放った。
決着はあっさりとついた。双子の剣技の前に司令官を失ったソファラ軍はもはや敵ではなかったのだ。肩の傷を押して戦ったヨハンの活躍もあり、一時間とたたないうちに草原はソファラ兵の血の海と化していた。
「ヨハン……傷の手当てをしないと……」
血糊を振り払って剣を鞘に収めたラクチェは心配そうに振り返った。同じく斧についた血糊を振り払っていたヨハンはにこりと笑って答える。
「心配は無用だ。何しろ今私の隣には戦場の女神がいるのだからね」
「またそんなことを……」
一見ふざけているようにしか聞こえない彼の台詞にラクチェは困ったように目を伏せる。もう、以前のように怒りをぶつけるようなことはできない。そんな彼女に、ヨハンが何かを言おうとしたときだった。
「―――ヨハン様!」
慌てたような声とともに馬蹄を轟かせて駆けつけてきたのは彼の部下だった。
「……何事だ?」
目を眇めて尋ねたヨハンに、部下は思いがけないことを告げたのだ。
「急ぎお戻りください!イザーク城に、シュミット将軍率いるリボー軍が向かっているとの情報が入っております!!」
(C)miu 2005- All rights reserved.