■幾千の夜を越えて 第四章-3■
眼前に、見慣れた―――否、見慣れたはずの光景があった。
ドズル公国時代を懐かしんだダナンは三年ほど前にリボー城の玉座の間をドズル城のそれに似せて華やかに改装させた。大理石の柱。市松模様の床に一直線に敷かれた真紅の絨毯。賓客を主の下へと導くそれが伸びる先に、玉座がある。
何もかもが昔のままだった。違うところがあるとすれば周囲に控えるべきグラオリッターの姿がないことと、玉座の人物が盛装でなく重厚な鎧に身を包んでいることくらいで。
その人物―――ダナン王は、眼前に現れた我が子に唸るように呟いた。
「ヨハン……この愚か者が。よくものこのことわしの前に現れおって……」
「父上、お久しぶりでございます」
父王に一礼して挨拶するヨハンの声は硬質で冷え切っていた。
「貴様は自分が何をしているかわかっているのか。ドズル家をつぶすつもりか!」
「これは異なことをおっしゃる。ドズル家は父上とブリアン兄上さえおられれば安泰と常々申されておいでではありませんか」
「ッ……弟を殺しあまつさえ父をも手にかけるか!それがおまえの正義だとでも言うつもりか!?」
「帝国の言うなりに子供狩りの決行を主張した父上がそれをおっしゃるのですか?」
「くっ、何という……!たかが小娘などにだまされおって、ドズル家の面汚しが……恥を知れ!」
「なんとでも……父上、あなたも戦士ならば御託を並べずに斧を取られよ。もはや言葉は不要のはずですぞ」
冷たく言い放ったヨハンに、ダナンはギリギリと歯噛みして唸った。
「……よかろう!不肖の息子よ、せめて我が手で葬ってくれるわ!」
「ご安心を。スワンチカは握れずともこの身に確かに流れるネールの血が私を導いてくださる。天国でレックス叔父上に詫びられよ!」
決別の台詞を言い放ち、ヨハンは斧をかまえた。
父と子は正面から対峙し、じりじりと間合いを詰めた。弓に矢をつがえようとしたレスターをデルムッドが制する。この戦いに他者の介入が不要であることは誰の目にも明らかだった。
(さすが、父上……隙など微塵も見せないか)
全身を押しつぶすような圧倒的な威圧感に、ヨハンは背筋を冷たい汗が流れ落ちるのを感じていた。父とは訓練の時に何度か刃を合わせたことがあったが、その時とは比較にならない。まさに「荒ぶる神々の血脈」そのものだ。
(だが……負けるわけには行かない)
守ると決めた人がいる。そのためには他の何を捨ててもいいとさえ思えるほど愛しい女性がいる。その彼女が望む平和な世界を作るための、これは大切な一歩なのだ。
実の父親を手にかける罪は多分一生消えないだろう。それでも、決断は迷わない。そう、決めたのだから。
最初に仕掛けたのはヨハンだった。ダナンは鎧が思い分動きに制限がある。機動力では明らかにヨハンが勝っていた。ただその分守備力が高いので、ダメージを与えるには素早い攻撃を繰り返すしかない。
勇者の斧の刃が鎧に弾かれてぎぃん、と鋭い音を立てた。重い痺れが腕を襲う。それに耐えて、ヨハンは二度、三度と斬撃を繰り出す。始めは平然と受け止めていたダナンも勢いに押され、二歩、三歩と後退した。
「ぬっ、それは勇者の斧!ヨハン、貴様シュミット将軍までも!」
「叔父上の形見をあのような輩に下賜なさるとは父上の眼力も落ちたものだ!」
「何を言うか、大逆者が!」
「暗黒教などに手を染め国の未来をになう子供を悪魔の儀式に捧げるような帝国に忠誠を誓うことが騎士の道だとでも!?我らの祖が誰と戦っていたかよもやお忘れか、父上!」
「賢しげな口を利くわ、若造が!」
誰もが息を呑んで親子対決の行方を見守っていたその時だった。
「ダナン陛下ッ!」
広間の大扉が開いて重騎士の一団がなだれ込んできたのは。
「ぬぅ、遅いぞ!」
「加勢つかまつります!」
「させるか!」
叫んだデルムッドが一歩を踏み出した重騎士に斬鉄の剣で切りかかる。それを合図に、乱戦が始まった。
剣戟の音は廊下を駆ける双子たちの元にも届いていた。
「スカサハ、今の……!」
「まだやってるみたいだな。急ぐぞ!」
うなずきあい、二人は足を速めた。
(ヨハン……!)
幼なじみよりも誰よりも真っ先に浮かぶのはその名前だ。いつも陽気で優しい男。恥も外聞もなく人前で愛を囁くような恥ずかしい男だけれど、その言葉はいつも真実だった。虚飾に満ちて聞こえる台詞の一つ一つに、いつも本当の想いを乗せていた。
印象に残るのはあの広い背だ。幾多の言葉を費やすよりも雄弁に語る。伝わる優しい波動に、いつのまにか甘えている自分に気づいてしまった。
まだ何も返していない。自分が本当に彼のことを好きなのかも、わからない。ただ、いつかは断ち切られるはずだった関係をつないだこの戦いの一区切りとなるであろう場面を見届けたい。それだけだ。
「はあっ!」
気合一閃。スカサハの繰り出した銀の大剣が大扉を撃砕する。その大音響に一瞬怯んだ敵の隙を見逃さず、ラクチェが突撃した。
「がっ!」
空中に光の糸が走るような、そんな美しい軌跡を残して勇者の剣が閃く。短い、魂消る悲鳴とともに重騎士が崩折れる。視界の端でスカサハが別の相手を切り伏せるのが見えた。二人の登場は突撃部隊を活気づけ、重騎士優位に進んでいた形勢はたちまち逆転した。
「ぐはあっ……!」
セリスの一撃を腹部に受けたダナンが苦鳴をあげた。巨体がよろよろとあとずさる。今にも倒れそうな足を斧を杖代わりにつくことで踏みこらえ、ダナンは叫んだ。
「く……反乱軍どもがッ……わしは、わしは負けんぞ!」
致命傷のはずだった。それでもなお倒れないダナンに、解放軍に戦慄が走る。血走った双眸がぎょろりと動き、ラクチェを捉える。
「……貴様か……!」
射すくめられて、ラクチェはびくんと固まった。これほど剥き出しの憎悪を向けられるのは初めてだった。足が、すくんだように動かない。
「ラクチェ!」
スカサハのあせったような声が妙に遠くに聞こえた。
「おのれ……我が弟ばかりか息子まで誑かしおって……!貴様が、貴様がおらねば……!」
ズシン、とひどく重い音とともにダナンが近づいてくる。スローモーションのようにゆっくりと振り上げられる斧を、ラクチェは声も出せずに見つめていた。
銀色の閃光が走った、刹那。
ふいにその視界を真紅が覆った。
それがヨハンのマントの地色であると知ってラクチェはびくんと肩を竦ませた。
そのヨハンの手に握られた血染めの勇者の斧に気づいて息を呑む。
「……ラクチェを貶める者は許さない……たとえ父上、あなたでもだ」
ダナンの巨体がぐらり、と傾いだ。
ゆっくりと倒れ伏すその双眸からはすでに光は失われていた。
* * *
17年の時を経てようやく為された解放に、リボー城は歓喜に震えていた。
ドズルの旗が引き摺り下ろされたことで落城の事実を知った城兵は次々に降伏し、乱戦は急速に終結した。片付けるべきいくつかの課題は残されていたが、それよりも今このときだけでも解放の喜びに浸りたいのが人情というものだ。
ティルナノグを出てわずかに一ヶ月足らず。当の解放軍ですら予想だにしないほど急速に展開した戦いだった。彼らが迅速に行動しえた最大の理由はやはりヨハンの合流及び協力によるところが大きい。それは誰もが認めるところだ。だが、最後の戦いにおける衝撃はいまだ覚めやらず、そのためか主力メンバー、特に突撃部隊に参加した者たちの表情はどこか浮かないものが多かった。
「そうか……それで、ヨハン王子は?」
合流したばかりのレヴィンに事情を説明していたオイフェが小さく首を振った。
「さすがに誰も声をかけられませんでした……今は自室で休んでいると思います」
少し考え込むように顎に指先を当てていたレヴィンはやがて呟いた。
「……我々は彼に感謝せねばならんかも知れんな」
「ええ。彼の協力がなければこうまで早いイザークの解放はなかったでしょう」
「いや、私が言っているのは心構えの問題だ」
「は?」
「戦いを続ける上で妥協は許されん。時には人に憎まれる覚悟が必要になることもある。そういうものは教えようとしてできることではないからな」
不退転の決意。
それを解放軍に植え付けたのは、確かにヨハンのあの行動だった。
ややあってオイフェも納得したようにうなずく。その時だった。
「失礼します」
ノックの音とともにデルムッドが姿を現した。
「デルムッドか。城内の調査は終わったのか?」
「はい。潜伏兵の討伐はほぼ終了しています。その際、北の塔の最上階に閉じ込められていた女性を一人救出しました。現在玉座の間にお通ししてあります」
「セリス様は?」
「玉座の間ですでにお待ちです」
「わかった、今行こう」
そう答えて、オイフェは立ち上がった。
戦闘の痕跡がすでに拭い去られた玉座の間にはすでに戦いに参加した主力メンバーが集結していた。その中にはヨハンの姿もある。ラクチェはといえば、彼女らしくもないことに少し離れたところで悄然と佇んでいるのだった。
戦闘の衝撃がもっとも色濃く残ったのはラクチェだった。普段の戦場で剣を取り兵の先頭に立って戦う姿からは想像がつかないほどだ。今も息絶える寸前のダナンの鬼の如き形相が脳裏に焼きついて離れない。
あの瞬間、はっきりと思い知らされた。自分がヨハンに対してどれほどの犠牲を強いてきたのか。自分のたった一言が、彼にどれだけのものを捨てさせてしまったのか。眼前に突きつけられた己の罪に目が眩む思いだった。今更どんな顔をして会えばいいのかわからない。
隣に立つラナが心配そうに自分を見つめている。視線は感じるのだが、今のラクチェにはそれに答えるだけの余裕がない。ほとんど立っているのがやっとの状態だった。
やがて開け放たれた―――正しくはスカサハが先の戦いで破壊してしまったのだが―――扉から一人の女性が騎士に伴われて入ってきた。
年のころは40代半ばといったところか。栗色の髪を結い上げてきっちりと盛装している。顔色はほとんど青ざめていたがその態度に怯えや卑屈な部分は見られない。閉じ込められていたということは、ダナンがどこかの街からさらってこさせたのか。それにしては助け出されたことに対して感謝している様子でもないようだが……
そんなことをつらつらと考えていると、玉座についていたセリスが静かに口を開いた。
「私は解放軍の盟主セリスです。あなたのお名前を教えてはいただけませんか」
丁寧なその言葉に、だが女性は表情一つ変えることなく冷ややかに答えた。
「反乱軍の小僧如きに名乗る名は持ちあわせておらぬ」
ざわ、と集まっていた騎士たちがざわめく。それを片手で制して、セリスは言葉を続けた。
「ではそれでもかまいません。あなたは北の塔に閉じ込められていたと伺いましたが、どちらのご出身ですか?」
「そのようなことを聞いて何とする」
「失礼ですがイザークのご出身ではないようにお見受けしました。戦乱が始まろうとする現在女性の一人旅は何かと大変でしょう。差し支えなければ送って差し上げようと思うのですが……」
「余計な世話じゃ。反乱軍の施しなど受けぬ」
冷ややかに撥ね付ける言葉に周囲の気温が低下する。不穏な気配を察して、セリスは困ったような表情になった。
「では、何をお望みですか?」
ふ、と女性が視線をめぐらせる。ある一点で視線を止めた彼女は、そのまま白い指をすっと上げてまっすぐにラクチェを指差し、言い放ったのだった。
「そこなおなごの首を所望じゃ」
「な……」
一瞬誰もが耳を疑った。その間に女性はラクチェにつかつかと歩み寄る。
「ふん……その顔で私の息子を誑かしたのかえ?」
「何を……」
「とぼけるでないわ!おまえさえおらねば、私のヨハルヴァは……!」
雷に打たれたような衝撃を覚えた。ではこの女性はヨハルヴァの母なのか?
立ちすくむラクチェに、彼女はなおも刃のように鋭い言葉を投げつける。
「イザーク如き蛮族の小娘が、どのようにして取り入ったのじゃ!?どうせ色仕掛けで迫ったのであろうが、この売女めが……!」
頭ががんがんする。立っていられない。地面が足元から崩れていくような、そんな感覚を覚えて目を閉じた時。
ぱしん、と乾いた音が響いた。
開いた視界に現れたのは、またしても真紅の布地で。
「お戯れがすぎますぞ、セシリア殿」
感情を消した低い声は確かにヨハンのものだった。
「ヨハン……っ、この、裏切り者!よくも、よくも私のヨハルヴァを……!」
瞳に怒気が閃いた次の瞬間、セシリアは手の中に握りしめていたナイフを振り上げた。ヨハンは、よけようとはしなかった。
「ヨハン殿!」
誰かの叫ぶ声に重なるようにパッと鮮血が飛び散った。ナイフは受け止めたヨハンの掌を貫いていた。ぱたり、と真紅の滴が大理石の床に滴り落ちる。
「これで気はすみましたか」
「……て……」
「セシリア殿?」
「返して……返してたも!あの子は、ヨハルヴァは私の命ぞ!それを……おまえのせいで!わあああっ!」
悲痛に泣き叫び握りしめた拳で何度もヨハンの胸を殴りつけるセシリアを、ラクチェは声もなく見つめた。
白い手。自分のように剣を握るためのごつごつしたたこも、ラナのように水仕事による荒れたがさがさ感もない貴婦人の手。苦労一つなさそうなその手が息子を奪われた恨みだけで刃を握った。同じことは、いくらでも起こりうるだろう。戦いがある限り。自分たちが戦い続ける限り、どこかで誰かが泣くことになる。
では戦いを止めるか?否、と心のどこかが叫ぶ。やめても同じことだ。同じように我が子を奪われた母親の嘆きに耳をふさいでいられなかったからこそ自分たちは立ったのだから。だから、耐えねばならない。この手が血に濡れる罪に。この手が命を奪う罪に。この手が新たな悲しみを生み出す罪に。
きつく拳を握りしめるラクチェの耳をヨハンの静かな声が打つ。
「ヨハルヴァは……最後まであなたのことを案じていた。自分に何かあったらあなたのことを頼むと……」
「おまえに言われとうない!あの子の命を奪ったおまえなどに……!」
「私を憎んでくれてかまわない。だが、ラクチェを貶めることだけは金輪際看過しかねる。かつては母とも呼んだあなたを手にかけるのは忍びないが……今後は気をつけていただこう」
低い恫喝。感情のかけらもない声に彼女がひくりと息を呑む。
小さく息をついてヨハンはセリスを振り返り、優雅なしぐさで膝をついた。
「セリス皇子、お見苦しいところをお見せして申し訳ない……この女性は我が弟ヨハルヴァの母にてセシリアと申す者。見ての通りかたくなゆえ温情が侮辱とも取られかねぬ。戦が終わるまでこのリボーにて蟄居させるが最良と思われるが」
はっと我に返ったセリスは小さく笑って答えた。
「……そうだね。その方が安全だろう。彼女のことは残留部隊によく言っておくから、心配しないでくれ」
「かたじけない……」
深く頭を下げて。す、と音もなく立ち上がる。
「聞いてのとおりだ。よろしいな?」
答える余裕もなく泣き崩れるセシリアにはもはや視線もくれず、ヨハンは周囲に一礼を返した。
「失礼……少し疲れたようだ。宴は遠慮させていただく」
カツ、と軍靴が床を打ち鳴らす。立ち去る気配をラクチェは全身で追った。だが、足が動かない。後を追うことすらできない。
別の騎士がセシリアを引き立てるようにして連れて行く。ようやく呼吸することを思い出したようにほっとした空気が流れる中で、そのラクチェの手をぎゅっとつかんだ者がいる。
「ラクチェ、追いかけないの!?」
「ラナ……あたし、」
「今行かなきゃ絶対後悔するわよ!」
その声に背中を押されるようにうなずいて、身を翻したラクチェが駆け出していく。その背を見送るラナに、スカサハが近づいてきた。
「……余計なことして、って思ってるでしょ」
機先を制されて、スカサハは小さく肩を竦める。
「……少しな」
「無駄よ。あとは本人たちの問題だもの。いいかげん子供っぽいやきもちはやめたら?」
妹を取られそうで悔しい気持ちはわかるけど?
少しすねたような表情で見上げてくるラナの肩をそっと抱き寄せる。
「……簡単に言うなよ。生まれた瞬間から一緒だった妹なんだぞ」
「贅沢言わないの」
こつん、と額を小突かれてスカサハは苦笑した。なんだかんだと言ったところでこの幼なじみにはいつもかなわないのだ。
息を切らせて廊下を走る。あちこちから何やら声をかけられたが、今のラクチェの耳には何も届かない。見慣れたはずの長身の背中を求めて必死に走る。
やっとたどり着いたのは城下を一望できるバルコニーだった。ヨハンはそこでぼんやりと町の風景を眺めていた。
一瞬何と声をかけようかと迷う。だがすぐにその掌から滴る鮮血を思い出し、つかつかと歩み寄っていった。
「……ラクチェ」
数歩手前で気配に気づいたヨハンが振り返る。ふわり、と口元に浮かべられた微笑にほっとして、少し切なくなった。
きっと心から笑んではいない。ただ、心配をかけたくないから。ただそれだけ。この数週間のうちにわかってしまった。本当に辛い時や悲しい時には彼は誰にも悟られないよう表情を消してしまうのだと。それが育ってきた環境のせいだとしたら―――なんて悲しいことなんだろう。
「……手、貸して」
ぶっきらぼうにしか言えない。でないと、声が震えていることがわかってしまう。
「え?」
「左手。……いくら利き手じゃないからってナイフを受け止めるなんてどうかしてるわよ」
「ああ……急なことだったから。でもこのおかげで我が麗しの女神の御手を拝借できるなら安いものだろう?」
「バカなこと言ってないで、早く出しなさいよ」
乱暴にそう言って、ラクチェは取り出したハンカチを手早く結んでやった。
血はようやく止まったようだが、それでも痛々しいことには変わりない。ラクチェが手を止めたのをいぶかしんでかヨハンが首をかしげる。
「……痛い?」
「いや……君が手当てしてくれたおかげかな。さっきよりはだいぶいい」
「うそつき」
「ラクチェ?私は嘘など……」
「いつもそうだわ。笑ってばかり。痛いなら痛いって言えばいいじゃない。辛いなら辛いって言えばいいのよ。それなのに……!」
言い募るうちに視界がじわり、と滲む。ヨハンが慌てるのがわかった。
「ら、ラクチェ??」
「あたしはあんたに守って欲しいわけじゃないわ。ただ背中に隠れて震えてるなんていや。あたしも誰かを守りたいんだもの。そのために剣だって一生懸命に練習してきたんだから!」
「もちろん、ラクチェは強いぞ。そのことは私が一番よく知っている」
「じゃあ、あたしを頼ってよ!笑ってばかりいないで!怒った顔も、泣いた顔も、全部見せてよ!隠さないで!」
癇癪を起こすように叫んだラクチェを、ヨハンは困ったように見つめている。そして。
「違うんだ、ラクチェ。私は君に何も隠してなどいない」
「嘘言わないでよ!」
「本当だ。私は……泣いたことがないだけなんだ」
「え……」
「……叔父上が出奔されてからは本当に一人きりだったからな。泣き方を忘れてしまったのかもしれない」
ふわり、とぬくもりに包まれる。
「君を見て、笑い方を思い出すことができた。空に太陽があることを思い出せたんだ。だから……君さえいてくれれば、私は……」
背に回された腕に力がこめられる。痛いくらいに強い抱擁に、ラクチェは目を閉じた。
ぬくもりが全身に染みていく。
自分は、この哀しい男を癒せるだろうか。
でも、守りたい。もう二度と彼が哀しい思いをしないように。
たとえ今は、淡雪のように触れれば溶けてしまいそうなこの想いに名をつけることができなくても。
祈るように、そう思った。
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