■幾千の夜を越えて 第六章-2■
アルスター城の攻防戦は予想通りの激戦となった。魔法部隊を失ったとはいえアルスターの主力である重騎士部隊はいまだ健在で、攻めかかる解放軍に対し頑強に抵抗した。その士気を支えているのがブルーム王有する神器トールハンマーの存在であることはもはや疑いようもない。それはつまり、アルスター軍の意気をくじくにはブルーム王を倒す以外にないということだ。
これは、大変に困難な命題だった。何しろ相手はフリージ家当主、しかも神器を所有しているのだ。イザークで倒したドズル家のダナンも神器の継承者であるが、彼は聖斧スワンチカを所有してはいなかった。つまり実力の半分も出せなかったということだ。それでもなお他を圧する力を誇った姿を思い出した古参の解放軍戦士は慄然としたものだった。
当然、軍議は紛糾した。だが何をどう話し合ったところで結論は一つしかなかった。神器の所有者を倒せるのは同じく神器を所有する者だけだ。そしてその神器の所有者は解放軍には二名しか存在しない。その二名、シャナンとアレスを中心に布陣が決定された。ここでも唯我独尊を貫く黒衣の傭兵を中心にひと悶着があったのだが、ここでは割愛することとして話を先に進めよう。
かくして、決戦は始まった。騎馬部隊が城門へ突撃し、厄介な重騎士部隊を引き離した隙に歩兵部隊が城門を突破して城内へと突入する。先頭に立つのはもちろん中核であるシャナンとアレスだ。彼らはそれぞれの神器を振るい、前に立つ敵兵をなぎ倒して奥へと突き進み、ついに玉座の間でブルーム王本人と対峙した。
さすがにブルーム王は強敵だった。手にしたトールハンマーを駆使し、突入部隊を圧倒した。神器を擁する二人を持ってしてもこれを制するのは容易ではなかった。
結局、わずかな隙を突くことでかろうじて勝利を収めたものの負傷したブルーム王はわずかな手勢に守られて東のコノート城へと逃れ、アルスター城の攻防戦は画竜点睛を欠く形で終結したのだった。
突撃部隊に参加していたラクチェがその少女の存在を知ったのは、アルスター城を制圧した日の夜、戦勝の宴の席でのことである。
「……え?」
「だからぁ、アーサーの妹が見つかったんだって!聞いてなかったの?」
呆れたように言うフィーに、ラクチェは困ったように肩をすくめた。
「ごめん、よく聞こえなかったのよ。それで、アーサーの妹がどうしたの?」
「うん、それがね……その子、元々はアルスターのフリージ軍にいたらしいのよ」
「フリージ軍に?」
「ほら、この間の魔法部隊。あの中にいたらしいわ。何でも、お母さんと一緒にブルームにさらわれてずっとだまされていたらしいんだけどね。確かにアーサーの妹がアルスターにいるとは聞いてたけど、まさかブルームの姪だったなんてねえ……びっくりしちゃったわよ」
肩をすくめるフィーは心底驚いた様子ではあったが、彼らが敵であるフリージ家の血筋であったことには何ら頓着していないようだ。そういえば彼女はヨハンがドズル家の人間であると知っても「あっそう?」の一言で終わったくらいだから元々こういったことにこだわらない性格なのかもしれない。そんなところが、今のラクチェには少し眩しくもあるのだった。
「それで、その子はどうしたの?」
「名前はティニーっていうらしいわ。いくらだまされてたって言っても育ての親を相手にするのはつらいだろうから今度の戦いでは後方に下がってるようにってセリス様がおっしゃったらしいのね。でも、そこからが問題なのよ」
「問題?」
訝しげなラクチェに、フィーは声を顰めて囁いた。
「そのセリス様の言いつけを破ってティニーが前線に出ちゃったのよ!幸い、すぐ見つかったらしいんだけど……そのティニーを見つけた人が、ヨハンさんだったってわけ!」
「ヨハンが?」
不意打ちのようにその名を聞かされてラクチェはびくり、と肩を揺らした。
「そう!これってまずいわよー!」
「どうして?」
わけがわからず首を傾げるラクチェに、フィーはぶんぶんと拳を振りまわした(でも声は顰めたまま)。
「んもう、鈍いわね!剣や槍が飛び交う危険な戦場でたった一人で孤立したところによ、あわやの危機に颯爽と助けが現れてみなさいよ。女の子なら心が動かないわけないじゃない!いわばこれは強力なライバル現る、ってことよ!」
ようやくフィーの言わんとすることを理解したラクチェは、思わず吹き出してしまった。
「ラクチェ!」
「ごめん、フィーが言いたいことはわかるんだけど……それって飛躍しすぎじゃない?」
「そんなことないわよ。ラクチェだったらどう?そんな場面で助けにきてくれた人にドキドキしない?ただでさえ戦いの時ってそうなりやすいっていうし」
フィーの問いに、ちょっと考えてみる。つい前線に出すぎて孤立することは多いが、そんな時に助けにきてくれるのはもっぱら双子の兄のスカサハだ。唯一の例外は砂漠で暗黒魔道士を相手にしたときに現れたシャナンだが、あれは久しぶりの再会からくる懐かしさが先に立っていたような気がする。だいたい、まだ周囲に敵がいるかもしれないのにそんな余裕を持てるものだろうか。
「周りに敵がいるのに?あたしだったらそんな余裕ないわよ」
ややあってそう答えたラクチェに、フィーは心底呆れたとばかりに肩をすくめた。
「んもう、現実的なんだから……」
「夢がなくて悪かったわね」
「とにかく!そうなる可能性もあるってこと、忘れちゃダメよ」
「はいはい、忠告はありがたく受け取っておくわ」
膨れるフィーにひらひらと手を振って、ラクチェは宴の場を離れた。
ささやかな祝いの席ではあるが、多少の酒も振舞われている。特にアルスター名産の果実酒は好評で、ラクチェも勧められるままに二杯ほど口にしたのだが口当たりがよい分だけ酒精が回るのも早かったらしい。少し頭がぼうっとしている。これを覚ますには熱気に包まれた宴の席に留まるよりは夜風にあたったほうがいい。
広間を出ると、廊下はしんと静まり返っていた。昼間ここで激しい戦闘が行われたとは思えないほどの静けさに包まれている。何とはなしに足音を立てないように歩いていたラクチェは、階上へ向かう階段の途中でぎくりと足を止めた。
階段の途中、踊り場の大きな窓の側に二人の人影があった。月明かりで外はかなり明るいようで、頭髪の色とシルエットくらいしかわからない。だが一方の人物はシルエットだけでもすぐにわかった。なぜならそれはラクチェがそれまで避けつづけていた人物だったからだ。
(ヨハンと……もう一人は……?)
もう一人には、見覚えがない。長い銀髪を二つに分けて赤いリボンで編みこんだその少女はラクチェよりもさらに身長が低いようで、ヨハンの胸のあたりまでしかない。両手を胸に抱きしめるようにして俯く姿は儚げで可憐だった。
話し声は聞こえてこない。そのことが逆に気になった。思わず一歩を踏み出しそうになって、慌てて思いとどまる。
(……やだ、これじゃ立ち聞きしてるみたいじゃない)
自分のしようとしていたことに気づいてかっと頬が熱くなった。慌ててその場を離れようと身を翻そうとした、その刹那だった。
少女が、倒れこむようにしてヨハンの胸に飛び込んだのは。
(………!)
息を呑むラクチェが見つめる前で、少女はそのまま細い肩を震わせて泣き始めた。ヨハンはなだめるように、慈しむようにその大きな手で少女の銀髪を撫でた。それは、彼女にとって異様に正視に耐えない光景だった。
気がつけば、身を翻し走り出していた。さっきまで身を包んでいたふわふわと心地よい酩酊感はとうに吹き飛んでいる。気がつけば城を飛び出して中庭の噴水のところまできてしまっていた。
頭がくらくらする。反射的に噴水に手を突っ込んでばしゃばしゃと顔を洗った。その漣が消えても水面には波紋が一つ、また一つと広がっていく。頬を伝わる生ぬるい雫の存在に気がついたラクチェは自嘲しようとして失敗した。
「は……あはは、バカみたい。あたし……なんで、泣いて……」
絞り出した声は自分のものとは思えないほど掠れて弱々しく響いた。波紋で歪んだ水面に映るくしゃくしゃになった自分の顔。拳を叩きつけたところで消えるはずもないそれが、明確な事実を告げていた。
本当は、とっくにわかっていたことだった。離れるなんて最初から不可能だったのだ。あの、真実を正面から見据えるまっすぐな眼差しに自分はとっくの昔に囚われてしまっていたのだから。ただ、気づかないふりをしていただけ。気づくのが怖かったから。気づいて、自分が変わってしまうのが怖かったから。
自分はいつもそうだ。真実を認める勇気がない。だから、肝心な時に一歩を踏み出せず、大切なものを失ってから後悔する。彼は優しくて。振り返ると、いつもそこにいた。だから、甘えていたのだ。いつでも、いつまでもそこにいてくれるのだと。どうしてそんなことを思ったりしたのだろう。永遠の想いなど存在するはずがないと、知っていたのに。
初めて知る恋の甘さと、それを失う痛み。今さら否定できなくなってしまったそれを抱きしめるように、ラクチェはその場にうずくまった。涙は、とても苦かった。だが泣き叫ぶ術をなくした今の彼女にはその苦い涙を噛みしめて俯くことしかできなかった。
* * *
ようやくアルスター城を制圧した解放軍だったが、十分な休息を取る時間はなかった。ぐずぐずしていると東のコノート城に逃れたブルーム王が自軍を建て直して再び攻めてくる怖れがあったからだ。敗れたとはいえ彼の軍は強大であり、グランベルのフリージ本国にはゲルプリッターと呼ばれる帝国正規軍の一翼を担う精鋭部隊が無傷のまま待機している。これが呼び寄せられるような事態にでもなれば、成立したばかりの解放軍などひとたまりもない。
今ひとつの不安は、南方のトラキア王国の存在だった。彼らがかねてより半島北の豊かな土地を狙っているのは周知の事実だ。レンスター軍を砂漠に葬り、ようやく北の土地を手に入れようとしたその矢先に隙を突いて侵攻してきたブルームに横から掻っ攫われた17年前の屈辱は想像するに余りある。現在のフリージ軍の弱体化を彼らが見逃すとは到底思えなかった。
以上の理由から、彼らは最小限の休息を取っただけですぐにコノート城に向けて出陣しなくてはならなかった。連続する戦いは兵を疲弊させていたが、連戦連勝の事実が士気の昂揚を生み、状況は決して悪くはない。それはこのアルスター城と北方のレンスター城に向けて大軍がコノート城を出発したと聞いても変わらなかった。兵士たちはむしろ意気揚揚と出陣し、コノート軍を迎え撃った。
ラクチェにとっても、今のこの状況はありがたいものといえた。戦いに集中していれば余計なことを考えずにすむからだ。正面から顔を見ることができない。どんな話をしたらいいのかわからない。どんな時もまっすぐに相手を見据えてきたラクチェにとってそれは初めての経験だった。騎馬部隊と歩兵部隊は基本的に別行動になるためヨハンの姿を見なくてすむのがありがたい。
だが、一方で問題もあった。歩兵部隊ということは魔法部隊も含まれるわけで、その中にはあの銀髪の少女ティニーの姿もあったのだ。姿を見かけただけで平静でいられなくなるという点では彼女も変わらない。その姿を避けるようにしてラクチェは自然、前線へと突出していくことになった。
ザン、と鈍い音を立てて勇者の剣が敵の重騎士の甲冑の隙間に食い込む。血泡を吐いて崩れ落ちるその巨体から剣を引き抜き、ラクチェは次の敵を探した。木陰から味方を狙う弓手の姿を発見し、すぐさま距離を詰める。弓手は腰の短剣を抜く間すらなく右腕を切り落とされて悲鳴をあげて地面に転がった。
飛び散る血飛沫。耳をつく断末魔の悲鳴。死に行く者の虚ろな眼差し。それらは氷の刃となって心を切り裂いてゆく。慣れることなど、ない。ただ心をよろう術を覚えていくだけだ。やらなければ、やられる。自らの望んだ平和を実現するためには、この手を汚すしかないのだ。心でそう唱える。奇麗事が通用する世界ではない。戦争、なのだから。
「ラクチェ、あまり出すぎるな!集中攻撃を喰らうぞ!」
スカサハの声が聞こえる。この兄はいつも自身よりも自分のことを案じて、その無茶な攻撃のフォローをしてくれる。この兄と背を合わせている限り負ける気がしないのは事実だ。その安心がより無謀な行動へとつながっているのだが、ラクチェはそれを意識していない。
「スカサハ、後ろは任せたわよ!」
「あ、バカ!……ったく!」
走り去る後ろ姿を視界の端に認めて、スカサハは小さく舌打ちした。いつもむちゃばかりする妹だが、今日は輪をかけてひどい。
「スカサハ、ラクチェのあとを追え!ここは私が引き受ける!」
叫んだシャナンが流星剣で敵兵をまた一人血祭りに上げるのを見て、スカサハは頷いた。
「わかりました、後はお願いします!」
銀の大剣を握りしめて、スカサハは妹の後を追って走り出した。
ラクチェが自分が前に出すぎたことに気づいたのは、二人の剣士が突撃してくる姿を目にしたときだった。
「小娘、死ね!」
迫り来る刃に、だが彼女は冷静だった。まず一人目が振りかざした刃をかわし、無防備になった胴をなぎ払う。血しぶきの中を身をすくめて二人目が横に払った刃をかわし、今度は下から斜めに切り上げる。驚愕に見開かれた目はすぐに光を失い、二人の剣士は同時に地に倒れ伏した。
血糊を振り払い、素早く周囲を見回す。そして、ぎくりとした。
「……女の剣士とは珍しい。なかなかやるようね」
声の主も、女だった。それも、まだ若い。恐らくラクチェと大差はないだろう。フリージ家の血筋の証である長い銀髪を一つにまとめ、身には魔道士のローブをまとっている。その手に握られた魔道書に、ラクチェははっきりと見覚えがあった。あれは先だってのアルスターの攻防戦で、ブルーム王が手にしていたはずの……
「……トールハンマー……!」
噂で聞いたことがある。フリージ家の次代の神器継承者は長男ではなく、そのあとに生まれた長女であると。女だてらにマンスターの総督を務め、その魔道の才は父ブルームをも凌ぐといわれた娘―――『雷神』イシュタル。
紫水晶の瞳をすっと細めて、彼女は嫣然と微笑んだ。
「そう……これを知っているの。では、私が何者かも知っているというわけね。なら話は早いわ。道を開けなさい」
「何を……!」
「おまえの力では私を倒せない。神器を持つこともできない傍系の小娘に用はないわ。死にたくなければおとなしく道をあけなさい」
命令口調で傲然と言い切ったイシュタルに、ラクチェは息を呑んだ。
『雷神』イシュタル。彼女はそれまで相対してきた敵とは明らかに違っていた。オーラが感じ取れそうなほどの圧倒的な魔力は右手のバリアリングを持ってしても防ぎきれないだろう。もし戦いになれば……もし一発でもあの魔法を喰らえば、確実に死ぬ。そう思うと背筋がぞっとした。
だが、ここで引くことは剣士としてのプライドが許さなかった。
「……そうかしら?やってみなければわからないわよ」
そう言って剣を構え直したラクチェに、イシュタルは気分を害した様子で目を眇めた。
「この『雷神』にはむかうとはね……おまえ、死にたいの?」
「あたしもイザークのラクチェと呼ばれた剣士よ。敵を前にして戦いもせずに逃げ出すような教育は受けていないわ」
「なるほど……少しは気概があるということかしら。では相手をしてあげるわ。後悔なら天上ですることね!」
「それはこっちの台詞よ!」
叫び返して、ラクチェは突撃した。
魔道士との戦いは何度か経験している。唱える呪文が高度であればあるほど詠唱には時間がかかるから、その隙に距離を詰めて連続攻撃を仕掛けるのが最も効果的だ。相手が神器の継承者であっても理屈は変わらない。その、はずだ。
予想通り、詠唱の半分も終わらないうちにラクチェは彼我の距離を詰めることに成功していた。その驚くべき速さにイシュタルが目を見張る。
「覚悟っ!」
勝利を確信して、ラクチェは剣を繰り出した。
「くっ!」
とっさに魔道書をかばった手から血が飛び散る。さしものイシュタルも次はかわしきれないと踏んでか、さっと飛び退った。ラクチェがあとを追おうとした、そのときだ。
「姉さま!」
場にそぐわない可憐な少女の声に、イシュタルが振り返る。そして、驚愕の表情を見せた。
「……ティニー?なぜあなたがここにいるの?」
驚いたのはラクチェも同様だ。魔道士のはずの彼女がなぜこんな前線にいるのかわからず、思わず剣を引いてしまう。
銀髪の少女はまろび出るように駆け寄ってきた。そして、驚きが覚めやらぬ様子のイシュタルに必死の様子で訴えた。
「イシュタル姉さま、お願いですから戦いを止めてください!あんなにお優しかった姉さまがどうしてこんなことを……!」
姉さま、と。ティニーは確かにイシュタルをそう呼んだ。二人が従姉妹同士であることをラクチェが思い出すまでにはわずかに時間が必要だった。驚きの表情を浮かべていたイシュタルもその間に我を取り戻した様子で、目を眇めて妹のようにかわいがっていたはずの従妹を見た。
「そう……あなたが裏切ったという話は本当だったのね。話を聞いたときはまさかと思ったけれど……」
「姉さま、お願いです!この方たちと話し合ってください!そうすればきっと……!」
「ムダよ!忘れたの?こいつらはイシュトー兄様を殺したのよ!それを忘れて敵に下るなんて……恥を知りなさい!」
「姉さま、それは……」
「私の邪魔をするならティニー、たとえあなたでも許さない……!」
「イシュタル姉さま!」
悲痛に叫ぶティニーに、イシュタルが詠唱の構えに入る。はっと我に返ったラクチェは、とっさに叫んだ。
「ティニー、逃げなさい!」
「ラクチェさん……でも、」
「イシュタル王女は本気よ!ここはあたしに任せて逃げなさい!」
言い捨てて、切りかかる。
今度はイシュタルも予想していたようで、凄まじいスピードで繰り出された斬撃を紙一重のところでかわす。その間も詠唱は止まらない。
「ラクチェさん!……姉さま、やめて!」
ティニーの叫ぶ声が聞こえる。ラクチェの背を冷や汗が伝った。自分だけなら何とかかわせるかもしれない。だがティニーには無理だ。
「これでおしまいよ!さよなら、ティニー!」
詠唱が完成した瞬間、ラクチェは動いた。
飛び掛るようにしてティニーを抱え、飛びのいた。
わずかに遅れて。凄まじい轟雷が、地上を貫いた。
目を開けていられないほどの光の奔流の中、イシュタルが笑う。その光はわずかにはなれたところにいたスカサハの目にも映った。
「ラクチェ―――っ!」
彼は叫び、走った。背筋が冷たくなるようないやな予感がする。その光の先に妹の姿がないことを祈って必死に走った。
兄の声が、遠くに聞こえた。
体が動かない。左足に感覚がない。光の奔流が視界を灼いて、わずかに引くのが遅れた左足に激痛が走った。後は、わからない。ぼんやりとした視界にほっそりとした白い脚が映る。
「よくかわしたわね……でも、次はないわよ」
冷たい、声。
「姉さま、やめてください!」
間近に聞こえた別の声。誰かにぎゅう、と上半身を抱きかかえられた。
「どきなさい、ティニー」
「いいえ、どきません!」
緊迫した従姉妹同士の会話も、ラクチェの耳には届かない。
自分は死ぬのだろうか。いやだ。まだ死にたくない。まだ何もしていない。何もなしていないのに。
ぎゅっと目を閉じる。脳裏に浮かんだのは、たった一人の面影だった。
(……ヨハン……)
こんなことなら、思いを伝えておけばよかった。
たとえ自分から思いが離れてしまったとしても、他に好きな相手がいてもかまわない。せめて一言、伝えたかった。ありがとう、と。本当は好きだった……と。それももうかなわない夢なのだろうか。
空気が電気を帯びてゆく。もう一発喰らえば自分は確実に死ぬだろう。せめて、自分を抱きしめて動かないこの少女だけでも助けなくては。掠れる声を絞り出す。
「……ティニー……あなただけでも……」
「いいえ……いいえ、私、逃げません!」
頑是無い子供のようにティニーは首を振る。
「だめ……あなたには、待っている……人が……」
「それはラクチェさんだって同じのはずです!私……逃げません!」
震える細い腕は、それでもラクチェを抱きしめたまま放そうとしない。
「そう……ではその娘と心中なさい!」
断罪を下すようにイシュタルの声が響いた、そのときだった。
空気を切り裂く音と共に飛来した何かに、イシュタルはとっさに飛びのいた。その手に集まっていた魔力が霧散する。そのイシュタルが立っていた場所に鈍い音を立てて突き刺さったのは―――見覚えのある、手斧だ。
「そこまでだ、イシュタル王女!」
凛とした声が空気を引き裂いても、ラクチェにはまだ状況がつかめない。これは夢ではないのか?もう一度会いたいという自分の願望が見せた幻ではないのか?
その疑惑は、ティニーの声で晴れた。
「ヨハンさん……!」
馬の蹄が地を蹴る音が近づいてくる。視界に閃いたのは、見覚えのある赤いマント。
「おまえは……ドズルの第二王子」
つぶやいたイシュタルに、ヨハンは馬上から応じた。
「ヨハンと申す。以後お見知り置き願おう」
「裏切り者の父親殺しがこの私に何の用?」
イシュタルの痛烈な言葉にも、ヨハンは動じない。
「知れたこと……ここは手を引いてもらいたい」
その言葉にイシュタルはわずかに目を見開いた。やがて、朱唇をゆがめてくくっと笑いをもらす。
「……おもしろい戯言ね。でも聞く耳は持たないわよ。死にたくなければそこをどきなさい」
「それこそ聞けぬ話だな。あなたは私を父親殺しと呼んだ。そのあなたが今度は従妹殿を手にかけるのか?」
「っ」
鋭い指摘に、雷神がはじめて動揺を見せた。
「私たちにはなさねばならぬことがある。ティニー殿の目の前で手を下すには忍びないが逆らうなら容赦はしない。もう一度言う。おとなしく手を引いてもらいたい」
「……答えはさっきも言ったわ。聞く耳は持たない、とね!このトールハンマーを防げるものならやってみるがいい!」
言い放ったイシュタルが詠唱を始めようとしたその瞬間、だ。その喉元に二つの白刃が突きつけられたのは。
「そうはさせない……!」
「貴様が呪文を唱え終わるのが早いか、それともこのバルムンクが貴様の喉を掻き切るのが早いか……試してみるか?」
いつの間に近づいたのか。スカサハとシャナンの二人が背後からそれぞれの剣を突きつけていた。そのただならぬ気配を察したイシュタルの額に脂汗が浮かんだ。
「おまえは……オードの……!」
「形勢逆転だぞ。どうする、『雷神』?」
「くっ……!」
緊迫した空気が流れる。
触れれば切れてしまいそうなそれに割り込んだのは、にわかに掻き曇った空の異変と。
そこから一条の光と共に舞い降りた、赫い髪が印象的な一人の少年だった。
「探したぞ、イシュタル」
場違いなほど冷静な、感情の揺れをわずかなりとも感じさせることのない声だった。はっと少年を見たイシュタルの紫水晶の瞳が驚きに再度見開かれる。
「ユリウス様……!?」
「こんなところで何を遊んでいる。バーハラへ帰るぞ」
遊んでいた子供が家に帰るといいだすような口調。その手がふい、と揺れる。ただそれだけで、イシュタルの姿が掻き消えた。
「!?」
わずかの後。ユリウスと呼ばれた少年の隣に再びイシュタルの姿が現れる。呆然とするイシュタルの腰に腕を回して、少年はにこりと笑った。
その無邪気な、だがひどく禍々しい笑みに、全員が慄然とした。
根源的な恐怖にも似たその感覚は、二人がワープ魔法でこの場を立ち去っても彼らから消え去ることはなかった。
そして、ラクチェの記憶もその光景を最後に途切れたのだった。
(C)miu 2005- All rights reserved.