■幾千の夜を越えて 第三章■
追って現れた後続部隊にソファラ城制圧を任せ、ヨハンは直ちに戦場を取って返すことにした。それに反対したのはラクチェである。
「だめよ、ヨハン!そんな怪我をした身体でまだ戦うなんて無茶だわ!」
「だがラクチェ、ことは一刻を争うのだ。シュミット将軍は迅速な行軍で知られている。イザーク城に残してきたわずかばかりの守備隊ではとても歯が立たぬ。私が行かねば……」
「馬鹿ね、そんな強い軍隊が相手ならなおさら万全の状態で行くべきじゃない!せめて教会によってラナに応急処置だけでもしてもらいなさいよ。駆けつけたはいいけどへとへとで役に立たなかった、なんて事にはなりたくないでしょ?」
「それは……そうだが……」
「決まりね。じゃあ、行きましょうか」
一つうなずいて見せて、ラクチェはヨハンの馬の鞍に手をかけた。何気ないその言葉をヨハンが聞きとがめる。
「ラクチェ、行きましょう、とは……」
「あたしも行くのよ」
あっさりと答えるラクチェに、慌てたのはスカサハである。
「ラクチェ、何を言ってるんだ!?」
「何って、当たり前のことじゃない」
今度ばかりは険しい表情でヨハンも釘をさす。
「それはだめだ、ラクチェ。シュミット将軍の部隊はグラオリッターの直属で私やヨハルヴァの率いる部隊とは比べ物にならない力を持っているんだぞ」
「大丈夫よ。あたしには母さまが譲ってくださったこの勇者の剣がある。斧使いなんかに負けやしないわ」
「しかし……!」
言い募ろうとするヨハンをサファイアの瞳がきっと睨みつける。
「あたしは、母さまやシャナン様が育った場所を自分の手で守りたいの!もう二度とグランベルの奴らなんかに汚させやしない!」
「ラクチェ……」
しばらく同じサファイアの瞳で妹を見つめていたスカサハが、やがて小さなため息をついた。
「……そうだよな。おまえは昔から言い出したら聞かない頑固者だったんだよな。わかったよ、俺も行こう」
「スカサハ!」
「いや……しかし、スカサハ殿……」
なおも何か言おうとするヨハンを無視して、スカサハは使者に向き直った。
「悪いんだけど、あんたの馬を貸してくれないか?」
「は、はあ……」
戸惑った使者がヨハンを見る。ヨハンは苦笑してうなずいた。
手綱を渡されたスカサハは、なれないしぐさながら何とか馬の鞍に飛び乗り、ラクチェを振り返った。
「ラクチェ、後ろに乗れよ」
「って、スカサハ、あんた馬になんか乗れるの!?」
「失礼な奴だな。俺は歩兵だけどちゃんとオイフェさんに教えてもらってるんだぞ。少なくともおまえよりはましだ」
「でも……」
落馬なんてみっともない真似はできれば避けたいラクチェである。手綱捌きなら騎兵であるヨハンのほうがよほど信用できると言うものだ。
困ったように視線を向けたラクチェに、ヨハンは穏やかに笑って言った。
「私は兄上の後ろに乗せてもらったほうがよいと思うぞ。私はこのとおり大柄で馬には負担をかけがちなのでな。私とて君と離れるのは寂しいが、なに、案ずることはない。私の心は常に君とともにあるのだから」
最後はちょっと気取った様子で胸に手を当てて一礼してみせる。けっ、と舌を出したのはスカサハだけで、ラクチェはというとわずかに頬を染めてくるりと背を向けた。
「……バカね!」
そんなわけで、後続部隊に後を任せて戦場を移動し始めた三人である。
途中、ラクチェの進言どおり教会に寄った彼らは真っ直ぐにラナのもとを訪れた。
ラナは弓騎士レスターの妹でラクチェ、スカサハ、デルムッドとそしてセリスとともにティルナノグの隠れ里で育ってきた仲だ。幼いころから少し身体が弱かったこともあって母エーディンの後を追うようにシスターの道を選んだ。控えめでおとなしいが内に秘めた真の強さは誰にも負けない。母から受け継いだ魔道の才能は確実に開花し、今や解放軍になくてはならない一人である。
幼なじみたちが訪れたと知ってラナはすぐに教会の与えられた一部屋から姿を現した。母譲りの黄金の髪。若葉色の瞳は、母に仕える騎士であった父にそっくりだった。真っ白なシスター服が野に咲く野菊を思わせる清楚さをひきたてている。幼いころの落馬事故のせいで不自由になった足を少し引きずりながら現れたラナに、真っ先にスカサハが駆け寄る。
「ラナ!?部屋にいろって言ったろ。足が弱いのに無理をしたら……」
「私なら大丈夫よ、スカサハ。これくらいしかできないんだから」
心配性気味のスカサハに微笑してみせて、ラナは差し出された手にそっと手を乗せた。もう一方の手には、出掛けに母に託されたリライブの杖が握られている。
「それより、怪我はない?三人だけでソファラ城に向かったって聞いて心配してたのよ」
「ああ、俺たちは大丈夫だ。でも、ヨハンが……」
「ラナ、ヨハンの怪我を治してあげて。私たち、すぐにイザークに向かわなきゃならないの」
すがるような目で頼むラクチェにうなずいてみせて、ラナはヨハンに向けて杖をかざした。
ふわり、と聖光に包まれるのとほぼ同時に、左肩を苛んでいた痛みがすうっとひいてゆく。小さく息をついたヨハンは、ラナに向かってにこりと微笑みかけた。
「……ありがとう。君はまるで聖母のようだな」
いつもの調子だが、こんな言葉を向けられることになれていないラナはぱあっと頬を染めた。不快そうに眉をしかめたのはスカサハで、じろりとヨハンを睨む。それをまったく意に介した様子もなく、ヨハンは彼女に近づくとその手を取って甲に恭しくくちづけた。
「では聖母殿、我々の勝利を神に祈っていただけますかな?」
「あの……」
「ああ、多くを申される必要はない。その清らかな御姿と声だけで十分加護に値するというものだ。……さて、スカサハ殿、ラクチェ、戦場へ参ろうか?」
にこやかに言ったヨハンだったが、二人の反応は冷ややかなものだった。ぎろりと睨みつけた後ふんと鼻を鳴らして肩を怒らせ歩いていく二人に彼はきょとん、と首を傾げて呟いた。
「二人とも、どうしたのだ?」
何もわかっていないらしいその様子に、小さくため息をついたラナである。
二人の不機嫌はそのまま馬に乗ってからも続いた。ヨハンは何かと話し掛けようとするのだが、二人は無言のまま、ラクチェに至ってはつーんとそっぽを向いて顔を見ようともしないありさまである。
「ラクチェ、そろそろこちらを向いてその大輪の花のような笑顔を見せてはくれぬか?」
「知らない!」
「ラクチェ?」
「あんたなんか知らないわよ!一人で勝手に言ってればいいんだわ」
「何をそんなに怒っているのだ?」
「何をですって!?」
きっと振り返る。兄につかまったままだったのでスカサハが一瞬体勢を崩しかけるが、すぐにバランスを取り戻したようだ。
「女と見れば誰にでもあんなこと言うくせに!まったくもう、信じらんないわね!」
ヨハンはその言葉に軽く目を見開いて、すぐににこりと微笑んだ。
「おお、つまりラクチェは私がラナ殿に言ったことに関して嫉妬していると、そういうわけなのだな?」
「なっ!?」
思いがけないことを言われてラクチェの頬が瞬時に真っ赤に染まる。
「安心してくれ。私の心は常に君のものだ。ただ私は美しいものを前にしてそれを賛美するという行為をおろそかにできぬ質なのだよ」
「な、何勝手なこと言ってんのよ!!」
「他意など微塵もない。できるものならばこの斧で我が胸を切り開いて君にすべて見せたいくらいだ」
「あ、あのねえっ……!」
反論の言葉を失って唖然とするラクチェに、スカサハが前を見つめたまま釘をさした。
「ラクチェ、相手にするな。放っておけよ」
「わ、わかってるわよ」
慌てて答え、ラクチェは正面に向き直った。だが自分に向けられるにこにことしたヨハンの視線は肌にちくちくと突き刺さってくる。それを無視するには多大な努力が必要だった。
(……冗談でしょ?あたしは……だって、シャナンさまのことが……)
10歳年上のいとこ。剣の師匠としても、一人の男性としても、シャナンはラクチェにとって理想の存在だった。彼の側にいたい一心で剣を覚えたといっても過言ではない。幼いころから大切に暖めてきた想い。それを、今さら否定しろというのか?
ヨハンは自分のためにすべてを捨ててきてくれた。では、自分は彼に何を返せるのだろう。その想いに応えられないのなら、自分はどうすればいいのだろう。今さらのようにそのことに気がついて、ラクチェは愕然とした。同時に、気がついてしまった。彼の存在をすでに無視できなくなっている自分に。
「――――見えてきたぞ。イザーク城だ」
スカサハの声に、はっと顔を上げた。崖の向こう側に視界が開けてくる。そこに、見えてきたものは……
「―――――!」
後方に上がる黒煙。そして、前方に展開する騎馬部隊。
「落ちたか……!」
呟いたヨハンの声は苦渋に満ちていた。城に残してきた守備隊の部下たちのことを思っているのだろう。
手綱をひいて馬を止めたスカサハが、悔しそうに声を絞り出した。
「くっ……仕方ない、ここはいったん引こう」
「スカサハ!?何を言ってるの、イザーク城は目の前なのよ!?」
「すでに落ちているなら話は別だ!奴らはすでに俺たちを迎え撃つ準備を終えている。俺たちもちゃんと体勢を整えてこないと返り討ちにあうだけだ!」
「でもっ……!」
「ラクチェ、ここはスカサハ殿の言うとおりだ。ここはいったん引いてセリス殿の本隊と合流してからの方が……」
言いかけたヨハンの声を、大音声がさえぎった。
「おや、そこにお見受けするは弟殺しのヨハン王子ではござらぬかな!?」
騎馬部隊の中からひときわ目立つ白馬に騎乗した騎士が進み出てくるのが見えた。かなり大柄の騎士だ。三白眼の眼差しは怜悧な光を放ち、口元には皮肉げな笑みが浮かんでいる。
ヨハンは騎士とは旧知のようで、苦虫を噛み潰したような顔でその名を呟いた。
「……シュミット将軍か」
「あなたの裏切りを聞いてお父上は大変なお怒りようですぞ。いいかげんあきらめて投降なさってはいかがですかな?」
「貴様に言われる筋合いのことではないな」
「それは残念です。では、ダナン陛下より賜りしこの勇者の斧でこのシュミットが自ら裁きを下して差し上げましょう」
そう言うなり、シュミットが腰から一本の斧を抜き放つ。それを見た瞬間、ヨハンの顔色がさっと変わった。
「貴様、それは……!」
「ではヨハン王子、お覚悟を!」
斧を振り上げたシュミットが馬の腹を蹴る。馬をひくかに思われたヨハンだったが、意外にも彼はそのまま進み出ようとした。
「ヨハン!?」
さすがに驚いたスカサハが叫ぶ。さっきまでいったん引く気でいたはずのヨハンの豹変ぶりに、ラクチェも驚きを隠せない。その二人に、振り向きざまヨハンが叫んだ。
「二人はいったんひけ!本隊と早急に合流するのだ!」
「無茶よっ!あなた一人でどうする気なの!?」
「やつだけは許せん!絶対にこの手で葬ってくれる!」
その激しさに、ラクチェは一瞬息を呑んだ。
「ヨハン!!」
スカサハは手綱をひき、馬首を返した。
「スカサハ!?待ってよ、ヨハンを置いていくつもり!?」
「ラクチェ、感情に走るな!今は一刻も早くセリスさまの本隊と合流して援軍を呼ぶのが先だ!」
「でも!」
「俺たちだけで何ができる!?」
一瞬、目を閉じて。ラクチェは、走り出そうとする馬の背からひらりと飛び降りた。
「ラクチェ!?」
「スカサハ、急いでセリスさまに知らせて!」
「何をする気だ!?」
「ヨハンだけじゃ無理よ!あたしは残る!」
それだけを言い残して勇者の剣を抜き放ち走り出すラクチェに、スカサハは小さく舌打ちした。
「……あいつ!」
引き止めるひまはない。仕方なく、彼は手綱をひいて馬の腹を蹴った。
ヨハンとシュミット。実は、その実力には大差はない。だがシュミットは将軍職という立場もあってすでにグレートナイトへの昇格をはたしていた。それは、神から新たな力を授かっているということだ。加えて、彼の持つ勇者の斧はその軽さから素早い攻撃が可能でヨハンのもつ鋼の斧とは比較のしようもない。結果、ヨハンはシュミットの猛攻の前に苦戦を強いられることになった。
「ふははは!ヨハン王子、いいかげんお覚悟なされよ!アクスナイトのあなたがグレートナイトのこの私にかなうとでもお思いか!?」
「たとえかなわぬとしても戦わねばならぬこともあるのだ!貴様にはわからんだろうがな!」
「よろしい、ではこの勇者の斧でとどめをさして差し上げましょう!」
「させん!!」
斧同士が激しく打ち合う鋭い金属音があたりに響き渡る。その周囲では、ラクチェが獅子奮迅の活躍を見せていた。
元来、剣はその扱いの素早さから斧に勝るといわれている(ちなみに長さの差から槍には劣り、その槍は柄を叩き折られることの多さから斧には劣るとされているのが兵法上の常識である)。彼女の剣は一流の名工の手による業物(シャナンの話では父が母のためにわざわざあつらえたものだという)だ。加えて彼女は非力な代わりに素早さに優れていたので大振りばかりのシュミット隊のアクスナイトたちをいいように翻弄していた。
ラクチェのサファイアの瞳が緑の輝きを放つとき、その剣は神速の秘技『流星剣』を発動する。いかな戦いになれたアクスナイトたちといえど、それを見切ることは不可能だ。彼らの斧は彼女の影すら捉えられず、次々に血の海へと沈んでいく。それはしばらくの後に合流した本隊も同様で、形勢は一気に解放軍が有利となった。
だがその間にも、ヨハンは次第に窮地へと追い込まれていた。
「ぐっ!」
斧が左腕を掠め、ヨハンは小さくうめいた。そこへ、かさにかかるようにシュミットが襲い掛かる。
「お覚悟!」
だが、とどめは振り下ろされることはなかった。すんでのところで飛び込んできたラクチェがその斧をタイミングよく弾き返したからだ。
「ここからはあたしが相手よ!」
「邪魔をするな、小娘!」
シュミットが吼える。ラクチェは油断なく剣をかまえ、迎えうとうとした。だが、その細腕をヨハンが強い力で押さえた。
「ラクチェ、下がっていてくれ」
「ヨハン!?何を言ってるの、そんな怪我をして……!」
「いいから……ここは、私に任せてくれないか」
「でも……!」
なおも言い返そうとして、ラクチェは言葉に詰まった。苦しげなヨハンの表情の中に、それでも動かしがたい決意を見て取ったからだ。
「……わかったわよ」
押し殺した声で呟いて、ラクチェは場所をヨハンに譲った。
再び斧をかまえなおしたヨハンに、シュミットは嘲りの笑いを口元にひらめかせて言った。
「ほほう。ようやく覚悟ができましたかな?」
「ああ、貴様を殺す覚悟がな」
「ほう……この勇者の斧にその鋼の斧で勝てるとでも?」
「貴様にその斧を持つ資格などないということを教えてやる。能書きはもういい、かかってこい!」
ひく、とその頬が引きつる。怒りで顔を真っ赤にして、シュミットは斧を振り上げた。
「……私にその資格がないかどうか、今ここで証明してやろう!」
渾身の力で振り下ろされた斧を、ヨハンは受け止めることをせず斧の柄を滑らせて受け流した。すかさず斧を横へ払い、自分の斧もろとも跳ね飛ばす。
「なっ!?」
瞬時に失われた自分の武器に、シュミットが驚愕に目を見張る。そこへ飛び込んだヨハンは、腰にさしていた手斧で斜めにその胴をなぎ払った。
「ぐあぁっ!」
短い、絶命を上げてシュミットが崩れ落ちる。苦しい呼吸の中でそれを見届けたヨハンは、小さく息を吐いた。
「ヨハン!」
ラクチェが駆け寄る。その彼女を制して立ち上がったヨハンは、静かに自分の斧の元へと歩み寄った。だが、その手は自分の斧ではなく、今までシュミットが使っていた勇者の斧を拾い上げた。
「ラクチェ、君にこれを……」
そう言って斧を差し出したヨハンを、ラクチェは息を詰めて見つめた。
「え……?」
「これは……君の父上が使っていたものだ。あのバーハラの悲劇の後……叔父上の遺体はドズル家に引き取られ秘密裏に処理された。この斧は……武器庫に保管されていたのだが……」
「ヨハン……じゃあ、あなた……まさか」
「叔父上は……私の誇りでもある。その叔父上の遺品を……この国を侵略するために使うことは、どうしても許せなかったのだ。これは……君と、スカサハ殿で保管してほしい」
差し出されるままに斧を受け取ったラクチェは、胸の奥に痛みを覚えた。
一瞬、目を閉じて。次に目を開けたとき、そのサファイアの瞳には怒りの色があった。
「……ばかっ!」
いきなり怒鳴りつけられて、ヨハンが目を見張る。
「……ラクチェ?」
「そんなことしてもらっても嬉しくなんかないわよっ!あたしは……」
あなたが生きていてくれれば、それでいいんだから。
そう言いそうになって、慌てて言葉を飲み込む。代わりに強い光をこめてヨハンを睨み返す。そして、困ったように見つめ返してくるヨハンに今受け取ったばかりの勇者の斧を乱暴につき返した。
「これ、あなたが持ってていいわ」
「ラクチェ?」
「あたしたちじゃ使えないもの。それに、お父様の加護が必要なのはあなたの方みたいだし。いつだってあたしが助けられるとは限らないんだから」
「だが……」
「スカサハだって文句言わないわよ。いいから使いなさいよ」
「ラクチェ……」
痛ましげに歪んでいたヨハンの表情がふっとほころぶ。それを目の当たりにして一瞬どきりとしながら、ラクチェはふんと身を翻した。
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