■幾千の夜を越えて 第六章-3■
ふ、と。闇から意識が浮上する。
途切れた意識がつながる感覚。同時に、五感が戻ってくる。長い睡眠からの覚醒にも似た、それ。いつもならここで目を開けてうーんと伸びをして、太陽の光を体いっぱいに浴びることで一日の始まりを実感するのだが、この時はどこかが違っていた。
目を開くことはできた。だが体が動かない。視界も、どこか薄暗い。不織布が張られた天井。どうやらテントの中のようだ。見慣れたものはないかと探し求めて無意識に視線をさ迷わせる。傍らに誰かが座っていることに気づいた瞬間、記憶がフラッシュバックした。
(そうだわ、あたし……確か、気を失って)
神器継承者との死闘。手傷を負わせながらも致命傷には至らず、逆に必殺の魔法をよけ損ねて左足に重傷を負ったはずだ。あの時は確かに死を覚悟したはずなのに、今の状況はどうしたことだろう。
まったくつながらない状況に戸惑っているうちに、傍らに座っていた人物が気づいたようで声をかけてきた。
「気がつきましたか?」
柔らかな声は、ラナのものではない。視界を掠めた髪は、銀色だった。
「……ここは……」
やっと搾り出した問いに、彼女―――ユリアは、柔らかく微笑んで答えた。
「後方の本営の救護テントですわ。ラクチェさんはひどい怪我を負ってここに運ばれてきたんです。覚えていらっしゃいますか?」
「……確か、イシュタル王女が現れて……」
詳しく思い出そうとすると頭痛がする。顔をしかめたラクチェの額に、ユリアが白い手を当てる。
「無理に思い出そうとなさらないで……今はゆっくり休んでください」
「あたし、どのくらい気を失って……それに、戦いは……?今は、どうなって」
「あの戦いからもう三日経ちました。先発隊はコノート城周辺に達したそうです。城攻めに備えて今は全軍が休息を取っているところですわ」
「三日も……」
重いため息をつく。やはり相当な重傷であったということか。今ここにいられること自体が奇跡なのかもしれない。毛布を動かすと、包帯に包まれた左足が現れた。
「これ、あなたが治療してくれたの?」
顔を向けると、銀髪の少女は小さく頷いた。
「はい、微力ながら……電撃魔法は強力ですが後遺症は残りにくいそうです。しばらく休めば元通りに動けるようになりますから」
ユリアの説明に頷いて、ラクチェはふっと目を閉じた。
そういえば、この少女とまともに話すのは初めてかもしれない。ガネーシャ城を制圧した頃にふらりと現れたレヴィン王が託して行ったという、名前以外は何もわからない記憶喪失の少女。いつもセリスの側にそっと控えているおとなしげな印象しかなかったが、杖を手にした彼女からは不思議な波動を感じた。それは、ラクチェの心を落ち着かせてくれる優しい波動だ。さらり、とこぼれた銀髪に同じ色の髪を持つ少女のことを思い出して尋ねた。
「……そういえば、ティニーは無事だったの……?」
最後の方は激しい痛みのためか記憶が混乱してあいまいになってしまっているが、あの少女は戦場を離れなかったはずだ。
ラクチェの問いに、ユリアは静かに答えた。
「ええ、ご無事ですよ。ラクチェさんのことをとても心配しておられました。もうすぐ様子を見に来られる頃かと……」
ユリアが言い終わらないうちに、テント内にかすかな光が差し込んだ。
「あの……ユリアさん」
そのか細い声で、ラクチェは来訪者の存在を知って目を開けた。傍らのユリアが振り返る気配がする。
「あ、ティニーさん……どうぞお入りになってください。今気がつかれたところですから」
ティニーはしばらく迷っていた様子だったが、やがてテントの中に入ってきた。すぐ側まできてからまたしばらく迷って、結局そのままユリアの傍らに腰を下ろす。代わりにユリアが立ち上がった。
「では、あとはお願いしますね」
「え、あの……」
「向こうの救護テントでラナさんがお一人でがんばってらっしゃるから……お手伝いに行ってまいります。では……」
小さく会釈をして出て行く少女はどうやら気を使って席を外してくれたらしい。
しばらくテント内に沈黙が流れた。ティニーは何か言いあぐねている様子で膝の上でぎゅっと拳を握りしめている。その姿は第一印象と同じように可憐で儚げに見えた。清楚という点ではラナも共通しているが、おとなしく見えても言うべきことははっきり言うラナに比べると引っ込み思案の印象は否めない。紫水晶の大きな瞳を潤ませて見つめられたら大抵の男は逆らえないだろう。そんなことをつらつらと考えていると、ティニーが意を決した様子でようやく口を開いた。
「あの……あの時は、本当にありがとうございました。ラクチェさんがいなかったら、私……」
「それは気にしなくていいわ。あれは前に出すぎたあたしがうかつだったんだから」
「でも……」
「それより、どうしてあんなところにいたの?魔道士部隊はもっと後方で味方の援護をしていたはずよ。自分が何をしたかわかっているの?」
そうだ。ティニーがしたことは、明らかな軍紀違反だ。戦闘から外されていた前回ならともかく、今回彼女は兄のアーサーと共に魔道士部隊に配属されていた。その自身の持ち場を離れて勝手に前線に出てきた揚句に味方を危険にさらしたのだから、処罰は免れないだろう。彼女のうかつな行動が軍全体に支障をきたした事実は疑いようがないのだから。
自然、問い詰めるような口調になるラクチェにティニーは怯えるように身を縮めた。
「すみません……あの時は、私……姉さまを説得しようと、必死で……」
「それはあたしじゃなくてセリス様に言うべきね。一つ、聞いてもいい?」
遮るように、問う。ティニーが軽く息を呑んだ。
「……はい、何でしょう」
「あなたはどうして解放軍に入ったの?」
「え……」
「アーサーがいたから?たったそれだけの理由で今まで育ててくれた伯父さんや優しくしてくれた従兄姉を捨てて、その従兄を殺した解放軍に来たの?」
ティニーの手がびくり、と震えた。その手に、ラクチェは自分の手を伸ばして重ねる。
「……聞き方を変えるわ。今日みたいなことがまた起こったら、あなたはブルーム王やイシュタル王女と戦えるの?彼らの間違いを、身をもって正すことができるの?」
それは、ヨハンが身をもって行ってきたことだ。ティニーはそのヨハンと同じ運命を背負っている。解放軍にいる限り、その運命からは逃れられない。
「その覚悟がないのなら、軍を出たほうがいいわ。戦いのないところでアーサーの帰りを待つといい……その方が、傷つかずにすむから」
言いながら、ラクチェは内心で自嘲していた。覚悟とは、よく言ったものだ。自分にはそんなものはなかった。ドズルは憎い敵で、血族だという意識はなかったから。その覚悟を教えてくれたのも、ヨハンだった。
「イザークなら帝国の手も届かないわ。あなたが望むのなら、セリス様やシャナン様にお願いして……」
言いかけたラクチェの言葉を遮るように、ティニーは強く首を振った。
「いいえ……その必要は、ありません。私……ここにいたいんです」
泣き笑いの表情で、彼女は続ける。
「ごめんなさい……わがままだってことはわかってます。私みたいな足手まといがいても皆さんのご迷惑にしかならないってことも……でも、私はここにいなきゃならない理由があるんです」
「理由……?」
ティニーは頷いて、重ねられたラクチェの手をぎゅっと握り返した。
「……少し、私のことをお話しますね。私の母は、私がまだ小さかった頃にシレジアからフリージに無理やり連れて来られたそうです。その母が亡くなってからは、私はアルスター城の北の塔でずっと閉じ込められて育ちました」
北の塔にはラクチェも覚えがあった。アルスター城の残存兵を調べて回った際に入ったことがあったのだ。全体的に豪奢なつくりの城内に比べてここだけが簡素で、どこか薄暗くさえ感じたものだった。
「伯母のヒルダは……たぶん、私たちが気に入らなかったんだと思います。口を開けばいつも私や母をののしっていましたから。従兄姉のイシュトー兄様やイシュタル姉さまは優しくしてくださいましたが……本当は、ずっとあそこから逃げ出したかった。でも、ただ逃げ出しただけではすぐにつかまってしまうってわかっていたから……だから、何もかもあきらめていたんです」
「……じゃあ、アーサーに説得されて、っていうのは……」
「兄様のことはずっと母に聞かされていたので、ペンダントを見てすぐにわかりました。でも、兄様を見て、私は……チャンスだ、って思ったんです。ここを……フリージを逃げ出すチャンスだ、って……そんな、自分勝手なことを考えていたんです」
微笑む頬を、涙が一筋伝い落ちていった。
「でも、それがどんなに安易な判断だったのかすぐに思い知らされました。アルスター城の攻防戦で、どんどん倒れていくフリージの兵士たちを見て、すごくつらくて……自分のしたことの意味があの時やっとわかったんです」
あれは、凄惨な戦場だった。血で血を洗うような、まさに死闘だった。戦場に慣れていないこの少女には地獄絵図にも見えただろう。
「解放軍が勝ってもちっとも喜べなくて、自分でもどうしていいのかわからなくて……そんな時に、ヨハンさんにお会いしたんです」
いつかは出るだろうと思っていた名前だった。それでも、その名を耳にした瞬間にぎくりと肩が揺れた。ラクチェは、ティニーに気づかれないように動揺を必死に押し隠した。
「……彼は、なんて……?」
「……『フリージの血から逃げるな』と……この血のせいでつらい思いをしてきたなら、逆に誇れるようになるまで自分が努力するしかないんだと……そうおっしゃいました」
彼なら、そう言うだろう。そのとおりのことを、彼自身がなしてきたのだから。
「だから私、考えたんです。私にできることを、ずっと考えて……これしかないと思いました。私、伯父様とイシュタル姉さまを説得したい。お二人を説得して、ここでの戦いを終わらせたいんです」
「……それは……」
無理だ、と。思わず口にしそうになって、ラクチェは慌てて口を閉ざした。ティニーの気持ちはわかる。だが、イザークにとってドズルが仇敵であったように、レンスターにとってはフリージが仇敵だったはずだ。レンスター王家の主従が彼女の主張を聞いたら何と言うだろう。
「確かに、難しいことかもしれません。でも、私にはそれしかできないから……だから、もし止められなかった時は……そのときは、私も戦います」
強い決意を秘めて、ティニーはきっぱりとそう言った。そして、ふわりと笑う。
「兄様も私の決意をわかってくれて、一緒に戦うって言ってくれたんです。だから、もう怖くありません」
「ティニー……あなた、そこまで……」
「ラクチェさんのお怪我がよくなったら、私に剣を教えていただけますか?私、もっともっと強くならなくちゃ……剣も、魔法も」
上目遣いで問うたティニーに、ラクチェは穏やかに笑い返した。
「ええ、もちろんいいわよ。イザーク式の修行は厳しいけど、耐えられる?」
「はい、私、がんばります」
二人の少女はようやく打ち解けた様子で笑いあった。
「ラクチェさんって本当にヨハンさんにうかがったとおりの方ですね。強くて、お優しくて……」
そう言って微笑むティニーに、ラクチェは内心で冷や汗をかきつつ応じた。
「へ、変なこと言わないでよ。大体、ヨハンの言うことはいっつも大げさで……」
「そんなことないです。ほんとにお二人ともお似合いで、羨ましいです」
「……え?」
「私、お二人のこと応援してますから。きっと幸せになってくださいね」
「ちょ、ちょっと待って!」
慌てて身を起こしかけるラクチェに、ティニーが驚いて肩に手をかける。
「あ、だめですよ!安静にしてないと……」
「ねえティニー、あなた、ヨハンと付き合ってるんじゃ」
その問いに、ティニーは目を丸くした。
「ええ?どうしてそんな」
「どうして、って……だって」
「確かに、ヨハンさんにはいろいろと相談に乗っていただきましたけど……それに、お二人はすでに付き合ってらっしゃるとフィーさんにも伺ってましたし」
脳裏を友人の天馬騎士の顔がよぎった瞬間、ラクチェは真っ赤になった。
「フィーったら……!」
つまり、すべては自分の思い込みによる勘違いだったというわけだ。そもそもの始まりはフィーが余計なことを吹き込んだからではないか。
赤くなったり青くなったりしているラクチェに、ティニーはおろおろと声をかけた。
「あの……ラクチェさん?私、何かおかしなことをしてしまいましたか……?」
かわいそうなくらいうろたえているティニーに、はっと我に返ったラクチェは慌てて手を振った。
「あ、ごめんなさい、あなたが悪いわけじゃないのよ。ただちょっと……あたしが勘違いしていただけだから、気にしないで」
「でも……」
困ったように見つめ返してくるティニーを前にして、ラクチェは苦笑した。
本当に、自分は何も見えていなかったのだ。フィーには感謝すべきかも知れない。おかげで、さまざまなことに気づくことができたのだから。
「ほんとに、大丈夫だから。ね?」
そう言って微笑み返すと、ティニーは少し迷って、頷いた。
「ラクチェさんがそうおっしゃるなら……」
* * *
それから数日後。解放軍はコノート城に総攻撃をしかけた。城主ブルーム王はティニーの必死の説得にも耳を貸さず、誇り高い神器継承者は最後はティニーの兄アーサーの手で討たれた。それはそれまで漠然と解放軍に参加していたアーサーにとって妹と同じ道を歩む決意を見せた戦いといえた。こうしてフリージ王国は事実上滅亡し、トラキア半島の北半分はつかの間の平和を取り戻したのである。
ようやくまともに動けるようになったラクチェは、勝利の宴の準備で忙しいコノート城内を一人の男の姿を探して歩いていた。
「フィー、ヨハンがどこに行ったか知らない?」
厨房に顔をみせるなりそう尋ねてきたラクチェに、野菜の皮を剥いていたフィーは目を丸くした。
「どうしたの、ラクチェ?あなたが自分から彼を探すなんて……天変地異の前触れ?」
「……一言多いわよ。それで、知ってるの?」
「今日は見かけてないけど……」
そこでフィーの隣で別の野菜を洗っていたパティが口をはさんだ。
「ヨハンさんだったら見張り台にあがってるはずよ。さっき廊下で会ったもの」
「ありがとう、パティ」
礼を言って、すぐに身を翻す後ろ姿を呆然と見送ったフィーが呟く。
「あんなに避けまくってたのに……どういう風の吹き回し?」
「ずいぶんすっきりした顔してたわね。ここんところ元気がないみたいだったのに。さては、悩みまくってついに結論が出たとか?」
「……何でラクチェが悩んでたってパティが知ってるの?」
「そんなの、見てればわかるわよ。……っていうのは嘘で、ホントはラナに聞いたんだけど」
「そんなとこだと思ったわよ。で、結論が出たってことは……」
しばし考え込んでいたフィーは、何か思い当たった様子でポン、と手を打った。
「こうしちゃいられないわ!さっそくあとをつけなきゃ!」
「ええ?」
「ラクチェがヨハンにどんな答えをだすか、知りたくない?」
フィーの問いに、パティが胸を張って答える。
「知りたいわよ、もちろん!それによってあたしの対応も変わってくるんだから!」
「何でパティが対応するのよ」
「だって、ラクチェがヨハンを振るってことはシャナン様を巡ってあたしとライバルになるってことじゃない!」
「あーはいはい、そういうことね……まあいいわ、さっそくあとをつけるわよ!」
前掛けを外した二人はこっそりと厨房を出て行った。あとで無人の厨房に顔を出したラナが中途半端な状態で放り出された料理の数々に深いため息をついたというのは余談である。
見張り台へと続く階段を駆け上っていったラクチェは、扉の前に人影を発見してぴたりと足を止めた。
「……スカサハ」
ちょうど階段を下りてくるところだったスカサハは、息を弾ませた妹の姿に軽く眉を上げたが、何も言わずに横を通り過ぎようとした。
「……何も言わないの?」
すれ違いざまに問い掛けたのはラクチェだった。スカサハの足が止まる。
「……言って聞くような奴じゃないだろ」
「じゃあ、あたしが何をしても怒らない?」
誰のところへ行こうとしているのか。その相手に、何を言おうとしているのか。
誰に何を言われても平気だけれど、この兄にだけはわかって欲しかった。祈るような気持ちで尋ねたラクチェに、スカサハは小さくため息をついた。
「……わかってるよな?あいつは……ヨハンは、ドズルを捨てられない。おまえ、苦労するぞ。泣くことになるかもしれない……それでも、あいつを選ぶんだな?」
その兄の問いに、ラクチェは目を見張った。そして、ふわりと笑う。
「もちろん。ヨハンがドズルを捨てられないならあたしも一緒に背負う。あたしの幸せはヨハンの隣にしかないってわかったから……だから、もう離れない」
その答えに、スカサハは肩をすくめた。
「そう言うと思った。……好きにしろ」
「ありがと。じゃあ……行ってくるね」
兄の頬に掠めるようなくちづけを落として、ラクチェは軽い足取りで階段を上がっていった。
軽く深呼吸して、扉を開ける。強い西日がすぐに視界に入った。黄昏色に染まった風景の中に、彼は背を向けて立っていた。この広い世界を見つめて、彼は何を物思うのだろう。
少し迷って。足音を殺すことなく近づいていく。一歩進むたびに心臓は高鳴った。あと10歩、というところまで近づいた時、ヨハンが気配に気づいて振り返った。
「おお、我が麗しの女神よ……ようやく再会がかなって私は今にも天に昇らんばかりの心地を味わっているぞ」
「まったく、相変わらずなんだから」
肩をすくめて、歩み寄っていく。そのまま肩を並べて、外の風景を眺めた。
「……何を見ていたの?」
「夕日が沈む様を。久しぶりによき詩が浮かびそうだったのだが……私には君と話す時間の方がよほど貴重だからな」
「そんなの、これからいくらでもあるじゃない」
その先が、続かない。言葉につまって、ラクチェは不自然に視線をそらした。
口を開いたのは、今度もヨハンだった。
「コノートに来るのは初めてだが……なかなかに美しいものだな。トラキアの険しい山々ですら絵画の一部のようだ」
「……あの南に見える街が、マンスターだったわよね?」
「そうだ。あの先はもうトラキア王国の領土になる」
「トラキア……竜騎士の国ね」
「ああ。遠からず我々の前に姿を現すだろう」
竜騎士。それはラクチェにとってまだ未知の敵だ。南の山岳地帯にのみ生息するドラゴンを飼いならし、騎竜として従える騎士たち。「戦場のハイエナ」と蔑まれながら、その勇猛さはユグドラル全土に知れ渡っている……
「君は……何も聞かないのだな」
聞き逃す寸前の小さな呟きに、ラクチェははっと我に返った。
「え……何?」
「ティニー殿のことだ」
顔を上げると、真剣な眼差しがあった。彼女を捕らえて放さない、まっすぐな眼差しが。かすかに息を呑んで。ラクチェは、次の言葉を待った。
「君は……甘いと思うか?戦場に出ても、敵を倒せるわけでもない……血族に刃を向けることができないティニー殿を……」
何を思っての問いか。わからないまま、一呼吸おいてから答えを口にする。
「……そうね。最初は、そう思ったわ。何のつもりでこの子はここにいるんだろう、って。あたしにとって戦場は人を殺す場所だったから。それができないのに、どうしてこの子はここにいるんだろうと思ったわ」
視線を上げて、ようやく正面からヨハンを見据える。
「でもね、何となくわかってきたの。戦い方は、人それぞれなのよね」
「ラクチェ……」
「あたしには剣を取ることしかできないけど、あの子には別の戦い方があるんだわ。そう思ったら、納得できたの。だから、何も聞かないわ」
少し迷って。塀にかけられた彼の大きな手に、そっと自分の手を重ねる。
「……あなたが、あの子を助けたいと思った気持ちもわかる気がするの。あの子は……あなたがしたくてもできなかったことをしているんじゃないかって、そう思ったから」
かすかに息を呑む気配。半歩、歩み寄る。
「……あの時ね……あたし、本当に死ぬんじゃないかと思った。……そうしたら、あなたにすごく会いたくなったの。だから……あの時あなたが来てくれて、本当に嬉しかった……」
呼吸が苦しい。心臓が口から飛び出してしまいそうだ。
「……今さらこんなことを言っても、信じてもらえないかもしれないけど……やっとわかったのよ。あなたが、あたしにとってどんなに大切なのか……どんなに好きかってことが」
「ラクチェ……?」
ヨハンの声が震えている。恥ずかしくて、正面から顔を見ることができない。だから、目を閉じたままその胸に飛び込んだ。
「好きよ、ヨハン。あなたが背負っているものをあたしも一緒に背負いたい。これからもあなたと一緒に歩いていきたいの……!」
わずかに遅れて、震える手が肩に回された。
「……信じられない……私は夢を見ているのか……?」
「バカ言わないで。こんな恥ずかしい台詞を夢にされてたまるもんですか」
少し強気に言う。肩に回された手に力がこもった。
「夢でないなら……これ以上の幸せはないな」
「あなたにしては月並みな台詞ね。もっと何かないの?」
「この幸福感の前ではどんな言葉も色褪せてしまうさ。……夢ではないことを確かめさせてはくれないか?」
「確かめる?」
きょとん、と問い返して。
ラクチェは、くすりと笑ってそっと目を閉じた。
唇に降りてくるぬくもりを、受け止めるために。
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