■幾千の夜を越えて 第一章■
流れる黒髪と、サファイアの瞳。
細い肢体にあふれんばかりのエネルギーをもつ、愛しい少女。
初めて彼女を見たその日から、運命は決まっていたのかもしれない。
馬上で手綱を取りながら、ヨハンは深い感慨とともにそう思う。
その少女、ラクチェはイザークの王族だった。
17年前の戦争でシグルド軍に与し、戦場の女神とたたえられたイザーク王女アイラの娘だ。容貌は、母に生き写し。唯一色の違うサファイアの瞳は父親譲りであるという。その父が自分の叔父に当たる人物であると知って、ヨハンは彼女に対する想いをさらに深めたのだった。
今彼は、解放軍を名乗り辺境の地ティルナノグにて兵を上げたシグルドの遺児セリス率いる軍を迎え撃つためにガネーシャ城方面を目指して出立するところである。ガネーシャ城はすでに彼らの手に落ち、城主ハロルドは黒髪の双子の剣技の前に為すすべなく散ったという。一瞬のうちに5度きりつける神速の剣技『流星剣』はイザーク王家に代々伝わる秘技だ。つまり、ハロルドを倒したのはラクチェかその双子の兄スカサハのいずれかということになる(イザーク王子シャナンは現在軍に参加していないことが判明している)。
出撃するということは、すなわち唯一の女性と誓ったラクチェと戦うということだ。それはヨハンにとって到底受け入れがたいことであった。リボーにいる父ダナンからの再三の出撃命令に背中を押される形で仕方なく城を出たものの、指揮をとるべき立場にあるヨハンはいまだに迷いの中にあった。
思い出されるのは、一週間前。ちょうど訪れていたガネーシャ城下で偶然に出会ったラクチェとの会話だ。ちょうど兄とともに買出しに来ていたところだったようで、笑顔で近づいた自分に彼女は思い切り顔をしかめたが、場所を変えようという促しには逆らわなかった。
町はずれの見晴らしのよい小高い丘を、さわやかな風が吹き抜けていく。人目を避けてやってきたその場所で彼女は振り返るなり言ったものだ。
「まったく!町で見かけるたびにいちいち追いかけてこないでよねっ、うっとうしい!」
怒鳴りつけて、邪険に手を振るしぐさですらかわいらしくてつい笑顔になる。
「君の声はとても魅惑的だな。まるで神話に謳われるセイレンのようだ。願わくは私もその声に甘く誘われてみたいものだが……」
「私はあんたのそういうところが気にくわないって言ってんのよっ!」
きっと睨み返されたが、この程度でひるむヨハンではない。
「その瞳の輝きは億万の宝石にすら勝る。このまま私の魂を吸い取ってはくれぬものか……」
馬の耳に念仏どころではないヨハンの様子にラクチェもあきれ返るばかりで、しまいには怒鳴りつける気力も失せたのか疲れたように呟いた。
「……あんたって絶対変だわ。あたしがシャナン様のいとこだって知ってるくせに捕まえようともしないし。イザークの王族には賞金がかかってるんでしょ?」
そう。イザーク王子シャナン及びその血族には莫大な賞金がかけられている。父上も小心なことだ、とヨハンは意にも介していなかったが。
「金銭など、君の美しさの前には塵にも等しい」
胸に手を当てて大げさに言ってみせると、サファイアの瞳に蔑みの色がひらめいた。
「……それは普段贅沢をしている人間だからこそ言える台詞よ。贅沢を好む人間ほど心は貧しいって言うけど、本当ね」
彼らが、イザークの人々が、どれほどの困窮を強いられているか。その日の食事にすら事欠くありさまを、ヨハンはよく知っている。何度か父ダナンに進言もしたが、聞き入れる耳を持つ父ではなかった。せめて自分の直轄地だけはとイザーク城下では税を軽くしてはいたが、それも焼け石に水だった。しかし、ヨハンは微笑んで続けた。
「そうかもしれないな。だが、私は金のためにいとこを売るほど心は貧しくないつもりだが?」
ラクチェがいやな顔をする。彼女が自分の身に流れる聖戦士ネールの血を疎みこそすれ誇りになど思っていないことは明白だ。いとこと呼ぶのはシャナン王子だけ。自分やヨハルヴァは肉親として認められてはいない。では、彼女にとって自分たちは何なのだろう?
「……口では何とでも言えるわ。私のいとこはシャナン様だけよ。あなたたちをいとこだと認めた覚えはないし、あなたたちの気持ちに応えるつもりもないの。いいかげんにしてくれないかしら」
冷ややかに、ラクチェが言い放つ。突き放すような言葉は、幾度となく聞かされてきた。あまりに何度も聞かされてきたので、ヨハンはその裏にある感情の変化を読み取ることができるようになっていた。
「……それは、私やヨハルヴァをいとこと認めてしまえば肉親と戦わねばならなくなるから……か?」
ひたり、と見据えて尋ねると、細い肩がかすかに震えたのがわかった。ラクチェはサファイアの瞳に炎を宿し、きっと睨み返してきた。
「……17年前、君の父上は私の父や祖父と対立し激しい戦いを繰り広げたそうだ。骨肉の争いはドズル家の宿命とまで言われている。その轍を踏みたくないのだろう?」
怒りに燃えるラクチェの姿は、炎の女神のようだとヨハンは思っている。不謹慎だとは思うのだが怒らせると承知の上で、あえてそう言ったつもりだった。しかし、ラクチェは小さくため息をついてうなずいたのだ。
「……確かにね。でも、それはどうしようもないことだわ。だって、私たちは敵同士なんだもの。私は、私の大切なものを守るために戦う。あなたたちは、あなたたちが信じるもののために戦う。どうしたって道が交わるわけはないのよ」
「ラクチェ……」
「きっともう会うこともないわ。さよなら」
断ち切るように告げて、ラクチェは身を翻した。母の形見だという、耳を飾るイヤリングがきらりと光を弾いてヨハンの目を射た。
(私の、信じるもの……)
耳に残るラクチェの声。
彼女は、彼女の大切なものを守るために戦うと言った。では、自分の大切なものは何だ?
母は、グランベル本国のドズル家に仕える侍女だった。父に目をつけられて無理やり側女に召し上げられ、玩ばれて、自分を身ごもったとたんに捨てられ見向きもされなくなった。そのころすでに世継ブリアンを産んでいた正妻のいじめにあいながら屋敷の片隅でひっそりと自分を産み、そのまま帰らぬ人となってしまった。
誰もが冷たい視線を向ける中で優しく接してくれたのは自分を育ててくれた乳母とそのころすでに彼らと対立を深めていた叔父レックスくらいのもので。その叔父も、自分が5歳になる前に出奔してしまった。15の年に乳母が流行り病で亡くなると、もはや自分の味方は誰一人としていないのだということを身にしみて理解したものだった。
自分を支えてきたもの。それは、聖戦士の末裔としての誇りだ。確かに、自分は聖斧スワンチカを操ることはできない。だが、この身には確かに聖戦士ネールの血が流れている。その血に恥じない自分であろうと、日々努力を重ねた。その甲斐あって、24の年を迎える今は一軍を任されるまでになった。
ふと、4つ年下の弟ヨハルヴァのことを思った。彼の母も身分が低い。思いはおそらく自分と同じだったのだろう。彼も、努力していた。おそらくは、母を守るために。言葉や態度は粗野で乱暴だが心根の優しい男であるのは彼が治めているソファラ城下に行けばすぐにわかることだ。今ごろは彼も自分と同じように父からの出撃命令を受けて城を出発したころか。
彼は、どうするだろう。同じようにラクチェに思いを寄せる男として、その心情を聞いてみたくもある。だが自分はどうもあの弟には嫌われているらしいので、押しかけたところで話も聞いてもらえないだろう。
最後に言葉を交わしたのは二年前、それぞれの任地に赴くための儀式のときだった。睨むように見つめてきた真っ直ぐな瞳が印象に残っているが、不思議と会話の内容は記憶にない。ただ、最後に彼が吐き捨てるように呟いた言葉だけが記憶の片隅にある。
「……所詮、兄貴にはその程度のことなんだろうよ」
何をさしてヨハルヴァはそう言ったのか。記憶を探ろうとしたとき、だった。
ひづめの音が近づいてきた。ふと目を上げると、側近の一人(名はイシャスといった)が馬を並べている。
「ヨハン様、お伝えしたいことが」
「……何だ?」
「反乱軍どもはこの先の教会付近に陣を張っているそうです。どうやら我々を迎え撃つつもりのように見受けられます」
「ふむ……陣容は?」
「歩兵と騎兵がほぼ半数ずつ。数はたいしたことはありませんが、先頭にはハロルド卿を倒したイザークの王族の残党が立っているとか」
ある予感を覚えて、ヨハンはやや緊張をはらんだ声で尋ねた。
「……それは男か?それとも……」
「女です。かなり腕の立つソードファイターのようです。ソファラ軍も兵を動かしたとの連絡が入りました。行軍速度では騎兵である我々の方が有利です。ここは一気に片をつけてしまうのが得策かと」
まさかそのソードファイターが司令官の恋い慕う女性であろうとは微塵も思わないのだろう。『反乱軍』を討ち取ることで功を上げたいという露骨な功名心が見え隠れするイシャスの進言に、ヨハンは軽く眉を寄せて考え込んだ。
「……進軍速度はこのままでいい。ソファラ軍の動きに注意しろ」
「ヨハン様!?」
「聞こえなかったか?」
なおも何かを言おうとするイシャスを視線で黙らせて、ヨハンは手綱を持ち直した。
数時間後、ヨハン率いるイザーク軍はガネーシャ城前の教会付近を見晴らせる位置に陣を張った。ソファラ軍は森の向こう側、イザーク軍とほぼ等距離に陣を張っているらしい。『反乱軍』は教会に陣を取ったまま動く気配はない。このまま両者が協力して彼らを叩けば間違いなく勝利できるのだろうが、実際にはイザーク軍とソファラ軍にはそんな余裕はなかった。
実のところを言うと、両者は対立関係にあった。イザーク軍を構成するのは騎兵、対するソファラ軍は歩兵が主である。スピードは騎兵が勝り、パワーは歩兵が勝る。両者は常に自らの優位を主張し、ひくことを知らなかった。この場でも、彼らには協力しようなどという意志は微塵もない。ただ相手より自分の方が優れていると証明するためだけに戦いに臨もうとしている。それがわかるので、指揮官としてヨハンも頭の痛いところだった。
不意に前方が騒がしくなったことで、ヨハンは顔をしかめて視線を上げた。また何か小競り合いでも起こったのかと思ったのだ。だがその予想は、駆けつけてきた兵士の言葉で見事に覆された。
「ヨハン様、敵兵が!!」
「偵察か?相手は何人だ?」
「それが、女のソードファイターがただ一人だそうで……」
「……何だと?」
ヨハンははっとした。まさか……
「……様子を見ろと伝えろ。……いや、いい。私がいく」
「ヨハン様、何かの罠では……!」
「無用な心配だ。私が合図を送ったら軍を引け。森の位置まで後退するんだ」
「ヨハン様!!」
「くどい!」
一喝し、手綱を引く。まさか、という思いはすでに確信に変わっていた。
はたして。並み居る騎兵を掻き分けて進み出たヨハンが見たものは、やや細身の剣を携えてすっくと立つ一人の女性剣士の姿だった。
ああ、とヨハンは嘆息した。やはり、彼女には戦場がよく似合う。かつて母がそう呼ばれたように、戦場の女神の呼び名は彼女にこそふさわしい。
彼女―――ラクチェは、進み出てきたヨハンを一瞥すると表情一つ変えずに言い放った。
「……伝言を伝える。我らが解放軍盟主にしてグランベルの正当なる後継者セリス皇子は、ヨハン王子の投降をお望みである。意志あらば、我が軍へ参られよとのおおせだ」
「何を、世迷言を……!」
「我らの望みはイザーク王国よりのグランベル勢力及びロプト教の放逐である。貴公はグランベル本国よりのロプト教による子供狩りの要請を再三突っぱねたと聞く。その点において、我らと意志は同じであるとセリス皇子はおおせだ」
感情を見せない、威厳に満ちた声。騎兵たちは威迫されて後ずさった。ただ一人、小揺るぎすらせずにヨハンはラクチェを見つめる。その瞳がふっと微笑んだ、そのとき。
「……おお、ラクチェ……我が麗しの女神よ。君の前では花も色あせる……」
「なっ……!?」
意表をつかれた様子でラクチェがあとずさる。ギョッとする騎兵たちの目の前で馬を下りたヨハンは、そのまま彼女の下に歩み寄ると片膝をついてその手を取った。
「その瞳は星の輝き、その声は小鳥のさえずり……ああ、もはや君なしでは生きてゆけない……」
「な、何を言ってるの!?人がまじめに話してるのに……!」
「おや、心外だな。私もまじめに話しているつもりだが?」
「し、信じられない!よくもそんな、ふざけた態度で……!」
「ふざけてなどいない。その証拠に」
と、腰に携えていた鋼の斧にくちづけて、差し出す。
「……何のマネなの?」
いぶかしげに尋ねたラクチェに、ヨハンはにこりと微笑んで、言った。
「ドズル式の忠誠の儀式だ。私の部隊ごとラクチェ、君にささげよう」
「なっ!?」
「ヨハン様っ!」
悲鳴のように叫んで飛び出してきたのはイシャスだ。
「何をおっしゃっているのですか?!あなた様にはお父上の代わりにイザーク城下を治めるという大切なお仕事が……!」
「ああイシャス、おまえには世話になったな。父上に報告するか?なら、かまわないぞ。今のうちにどこへでもいくがいい」
「ヨハン様!」
「くどいな。私はラクチェにこの命をささげると決めたのだ」
「ちょっ……私は、まだ何も……!」
慌てて反論しようとするラクチェに、ヨハンは微笑した。
「セリス皇子に伝えておくれ。ドズルのヨハンはあなたに従う。ともに手を携えこの大陸をロプト教の魔の手から守りましょう、とね」
「……そういうわけには参りません」
低い声で、イシャスが呟いた。その手には、ドズル家の精鋭部隊グラオリッターの証である鋼の斧が握られている。
「……イシャス、何のマネだ?」
刃先を向けられて、ヨハンは目を眇めた。背中にかばったラクチェが小さく息を呑んだのが気配でわかる。
「万が一あなた様が命令にそむくようなことがあればその場で処断せよ、とのお父上のご命令です。17年前の轍を踏むことは許されないと、おっしゃっておられました」
17年前。当時のドズル家当主ランゴバルト卿は反逆者シグルドに与した次男レックスの手によって討たれた。当主の座はすぐに長男ダナンが継いだが混乱は避けようもなく、アルヴィス卿によって新生グランベル帝国が成立した後も勢力争いに加わるどころかすでに出兵していたイザークを制圧するのがやっとのありさまだったのだ。帝国の信頼も、厚いとは言いがたい。
「ヨハン様、どうかご再考を。過ちを悔い改め、あなたを惑わせるその女を御自ら処断なされたとあらばまだお父上に申し開きも立ちましょう。ですから……」
「……私は同じことを繰り返す気はない」
「ヨハン様!」
「くどい!!」
鋭く叫んで、さえぎる。ふ、と表情を和らげたヨハンは、息を呑んだままのラクチェを振り返って言った。
「……すまない、ラクチェ。少し待っていてもらえるかな?どうやらけりをつけねばならないようだ」
「ヨハン……」
一度預けた鋼の斧を受け取り、ヨハンは長年付き添ってきた側近に向き直った。
「ドズル家は再生のときを迎えるべきなのだ。聖戦士ネールの名にかけて、私は戦う。止めるならば腕ずくでこい」
「……もはや何を申し上げても無駄のようですね。よろしい、ではあなたの首を持ち帰りダナン王に謝罪いたしましょう!」
ぎいん、と火花が散った。
斧同士の戦いは純粋なパワー勝負だ。文字通り、力に勝るものが勝つ。ヨハンとこのイシャスとは力においては互角だった。ただ、わずかにヨハンのほうがスピードにおいて勝っていた。勝負を分けたのは、まさにその一点だったのだ。
ガッ、と斧の柄で振り下ろされる刃を受け止め、ヨハンは勢いよくなぎ払った。意表をつくその行動に、イシャスがわずかによろめく。そこへ、彼は一瞬の躊躇もなく刃を叩き込んだ。
「ぐあっ!」
短い苦鳴。イシャスがよろめき、膝をつく。抱きとめるような格好になったヨハンは、一瞬つらそうに目を閉じた。
「……後悔は、しない。私が……自分で選んだ道なのだから」
それは、過去への決別だった。かつてはもっとも近しいものであったはずの男の血に濡れて、ヨハンは静かに振り返った。
「これで、私の意志は理解してもらえたと思う。おまえたちは好きにしていいぞ。私についてくるか、リボーに帰るかは自分で決めるといい」
凍りついたように静まり返っていた騎兵たちは、戸惑ったように顔を見合わせた。その中でラクチェは、ただそのサファイアの瞳を見開いて血に濡れたヨハンを見つめていた。
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