■幾千の夜を越えて 第七章-3■
怒涛の勢いでクロノス城に迫った解放軍はフリージ家のヒルダ女王を蹴散らし、ラドス城のダークマージを一掃し、さらにはミレトス城をも陥落せしめた。この事実はいまや解放軍の勢いが完全に帝国を優っていることを現していると言えよう。それを踏まえて、軍師役のレヴィン王はセリスにミレトス海峡を越えてシアルフィ城に進軍することを提言した。シアルフィ城に現在駐留しているのは皇帝アルヴィスその人。グランベル帝国の象徴である。いまや皇帝としての権限を息子であるユリウス皇子に明渡したとも噂されているが、真偽の程は定かではなかった。いずれにせよ、今までで一番の強敵であることは間違いない。
「シアルフィか……父上の故郷だね。その父上の故郷に、父上の敵がいるのか……」
呟いたセリスの眼差しに暗い光がよぎるのをレヴィンはあえて無視する。
「帝国内への進軍はもう少し時期を見てと思っていたが、今回はやむを得まい。だが、準備は怠るなよ。アルヴィス卿は強敵だ。今までのように連戦連勝の余勢を駆って何とかなる相手ではないからな」
「わかってるよ、レヴィン」
「……それと、ユリアのことなのだが」
しばしの沈黙の後レヴィンが口にした名に、セリスはびくりと肩を揺らした。
「ユリアの?……何かわかったのか?教えてくれ、レヴィン!」
つかみ掛からんばかりの勢いで迫るセリスに、レヴィンは静かに告げた。
「町のものの噂では、黒いローブの男に連れられていく姿を目撃した者がいるそうだ」
「黒いローブ……まさか」
「ロプト教団の者と見て間違いないだろう。目撃経路から察するに、既に帝国内部へ連れ去られた可能性が高い」
「帝国内部へ?いったいなぜ……」
「それはわからん。あるいは……光魔法を用いるあの娘をロプトウスのいけにえにするつもりなのかもしれん」
レヴィンの言葉に、セリスは握った拳を震わせた。
「……そんなこと、させるものか。ユリアは必ず救い出してみせる……!」
レヴィンは感情の見えない瞳でセリスを見据えた。
「……あまり感情的になるな。奴らの思うつぼだぞ」
「わかってる。全軍の指揮には影響を出すつもりはないよ。でも……」
トラキアでの戦いを経て、精神的にも一段とたくましく成長したように見えたセリスだったが、彼がその内部に壊れやすい純粋な心を押し隠していることには変わりない。幼なじみたちが補いきれなかったその不安を分かち合い、最も近いところで支えてきたのがユリアだった。彼女を失ったことで、セリスは支えを失いぐらつきをみせ始めている。それは、レヴィンにとって歓迎すべき事態ではなかった。
「……セリスは、ユリアのことが好きなのか?」
恐ろしく唐突に発せられたその問いに、この若き盟主は珍しく呆然としたようだった。やがて、質問の意味が脳内に浸透するととたんに爆発したように真っ赤になる。
「な、なにをきゅうに」
思わず声が裏返ってしまったことに気づいて、セリスは自分を落ち着かせるためにごほん、と咳払いをした。小さく息を吐く。そして、静かに答えた。
「……わからないよ。ただ、大切なんだ。失いたくない……何があっても」
「それは、恋愛感情ではないのか?」
「そうだといえばそうかもしれないし、まったく違うのかもしれない。ただ、彼女をとても近い存在に感じることはある。暖かくて、優しい光を感じるんだ。そんなときは戦いを忘れてとても穏やかで安らかな気分になれる」
目を伏せて呟く。ユリアのことを語るセリスの表情は柔らかい。
「……血の故、か……」
低く呟いたレヴィンを、セリスが訝しげに見やる。
「レヴィン?」
「いや、何でもない。進軍の準備をすすめよう。明後日の朝には出発したい」
「そうだね。ではオイフェを呼んで今後のことを相談しよう」
「オイフェは我々の中では唯一シアルフィに詳しい。攻略について何か有益な情報をもっているといいのだが……」
それは深夜に近い時刻のことだった。
ヨハンはレヴィンの召集を受けてミレトス城内の彼の部屋を訪れていた。帝国本土に進軍するにあたって解放軍としてはたとえわずかなりとも帝国内部の情報を得たいところだ。そして、帝国内部、特に宮廷内部における出来事に対して信頼しうる情報網を持っているのは解放軍内部ではこのドズルの元王子ただ一人であった。レヴィンは彼を自室に頻繁に招き寄せ、彼が入手しうる情報を的確に受け取るようにしていた。時にはオイフェが同席することもあるこの会合がなぜ秘密裏に行われているのか。なぜ他の解放軍の面々が呼ばれないのか。それはひとえに、帝国の二重スパイであるなどといったいわれのない中傷からヨハンを守るためであった。
「……ふむ。ではシアルフィ城にアルヴィス皇帝が行幸しているというのは間違いないのだな?」
レヴィンの問いに、ヨハンは静かに頷いた。
「ええ。実権のすべてをユリウス皇子に譲り渡したというのはどうやら事実のようです。それが証拠に、普段はヴェルトマー城に封印されてあるはずの神炎魔法ファラフレイムは現在かの皇帝陛下の手中にあるとか……」
「なに?」
眉を跳ね上げるレヴィン。ヨハンは視線を卓上の地図に落としたまま呟く。
「我ら解放軍の進軍に対する備えとしか思えません―――とても、恐ろしいことです」
かつて、アルヴィスはバーハラ王家の親衛隊長として戦場を駆け巡った。鬼神のようなその戦いぶりは今なお伝説として語り継がれるほどだ。その生涯において神器を用いたのはただ一度きり。『逆賊』シグルドをその手にかけたときのみである。その男が、今再び『逆賊』を討つためにその神器を手に出陣してきたのだ。
これはどういう意味にとらえるべきか。一つには、人事における采配の権利が皇帝の手から既に失われているということがあるだろう。つまり、自身が赴かねば動く者がいないということだ。この一事をとっても既に皇帝の存在自体が傀儡に過ぎないことが容易に知れる。
今一つ、こちらは大変重要なことなのだが、帝国側がいよいよ本気で解放軍を止めにきているということだ。聖剣ティルフィングの行方は未だに知れないものの、解放軍には既に魔剣ミストルティン、神剣バルムンク、地槍ゲイボルグ、聖弓イチイバル、神風魔法フォルセティ、聖杖バルキリーと実に神器の半数以上が揃っているのだ。この事実は、帝国に脅威を与えるには十分だった。神器には、神器でしか対抗できない。だからこそ、皇帝御自らの出馬となったのだろう。
手にする武器が対等であるなら、あとは戦場での経験がものを言うことになる。解放軍の神器保有者は確かに歴戦の勇者ばかりだがそのほとんどがまだ若年であり、戦場経験から見て皇帝アルヴィスに匹敵する者はいない。神剣バルムンクを擁するイザーク王子シャナンですらまだ遠く及ばないだろうとレヴィンは思っている。
「アルヴィス皇帝の手にファラフレイムがあるとなると……戦況は厳しくなるな」
「ええ。しかし、我々はもはや立ち止まるわけには行かない」
「無論だ。この戦いは避けて通ることはできない。是が非でも勝利しなくてはならんのだ」
低い声で断言するレヴィンを、ヨハンは感情のこもらない眼差しで静かに見やる。そして、口を開いた。
「……レヴィン殿は、ご存知なのですか?」
「何をだ?」
「ユリア殿のことです」
めったに表情を変えないレヴィンが、このときわずかに眉を上げたのをヨハンは見逃さなかった。
「……最初にあの方にお会いしたとき、どこかで見たような気がしたのです。このようなところにいるはずもないと、ただの記憶違いだろうと考えていましたが……ようやく思い出しましたよ。あの見事な紫銀の髪……それに、額のサークレット。これほど明確な証拠が目の前にあるのに、何を見逃していたのだろうと思うほどにね」
「……何のことだ」
「ごまかさないでいただきたい。これでも私は王家に最も近い六公爵家の血筋としてバーハラ王宮にも出入りしていた人間です。その私が、王家の方々を見間違うはずがないでしょう」
沈黙が落ちる。レヴィンの気配が張り詰めたものに変わっていくのを、ヨハンは静かに受け止めた。
「……そうだったな。貴殿のことを忘れていたのはうかつだった」
やがて吐き出された言葉に、ヨハンは小さく息をついた。
「……やはり、あれはユリア皇女だったのですね」
「それを知ってどうする?」
「みなには告げずともよろしいのですか?」
バーハラ王家の双子、ユリウス皇子とユリア皇女。その内の一人に暗黒神ロプトウスの血が受け継がれたとなれば、必然的にもう一人にはバーハラ王家に伝わる神龍ナーガの血が受け継がれていることになる。それはつまり、ユリアがいずれやってくる対ユリウス戦において切り札になりうるということだ。ロプト教団はそれを見越して彼女をさらったのだろう。
レヴィンは静かに背を向けた。
「……まだそのときではない」
「まだ?」
「そうだ。ユリアは確かにナーガの血を引いている。だが、現実に彼女は今ここにいない。いないものに頼ったところでよい結果は生まれまい。それに……」
言葉を濁すレヴィンに、ヨハンは無言で先を促す。
「……今のセリスに、それを告げることは……」
男女の愛情であるかどうかは不明だが、セリスは確かにユリアに惹かれている。その彼に彼女がナーガの血を引くバーハラの皇女であると告げるということは、愛しいと思う相手が実は自分の異父兄妹であること、その妹を対ユリウス戦の切り札、つまり戦いのための道具として使えと迫ることに他ならないのだ。支えを失い揺れ動きつづけるあの若き盟主によりにもよって今そんな残酷なことが言えるものだろうか。
冷徹な軍師の肩がかすかに揺れる。そのわずかな所作に彼の感情の揺れを見て取ったヨハンは、静かに一礼した。
「……承知しました。私も時期が来るまでは口をつぐんでおくことに致しましょう」
「そうしてくれ。……そう遠いことでもないだろうが、な・……」
それでも。その時がくれば、彼は眉一つ動かすことなく彼らに真実を告げるのだろう。それが己の役割であると思い決めているかのように、感情を隠して。
ヨハンは、小さく微笑した。
「……レヴィン殿は、お優しいですね」
どうやら不本意だったらしいその言われように、レヴィンは肩越しに渋面で振り向いた。
「……ヨハン」
「お隠しにならずともけっこう。軍師とは冷徹であらねばならぬもの。あなたにせよオイフェ殿にせよ、あまり向いてはおられぬようだ」
「……そんなことを言うのはおぬしだけだぞ」
「おや、そうですか?」
おどけたように言って笑うヨハンを、レヴィンは苦いものを飲み込んだような顔で見やった。
「……妙な男だな」
「よく言われます」
「そういう意味ではない」
これから彼らが目指す土地は、彼にとっては故郷だ。そして、彼の前に立ちふさがるのは間違いなく神器を手にした自身の兄なのだ。それがわかっていて、それでも彼はこうして笑っている。すべての悲しみや苦しみを胸の底に押し込めて。その強さに気づいているのは、解放軍でも少数に違いない。彼自身、他人に気づかれないように振舞っている節があった。その理由までは、レヴィンにもわからないのだが。
途切れた会話を補うように、ヨハンが口を開く。
「……このような時に恐縮ですが……レヴィン殿は昔吟遊詩人として各地を放浪された経験がおありとか」
ふいに話題を変えてのこの問いに、レヴィンは軽く眉を上げた。
「……誰から聞いたのだ?」
「オイフェ殿ですよ」
「あいつめ……余計なことを」
取り澄ました顔の聖騎士を思い出して小さく舌打ちするレヴィンに、ヨハンはくすくすと笑いながら続けた。
「悪い意味で申し上げているわけではありませんよ。私も少々詩を嗜むものですから、一度ぜひご指導をと思っただけです」
「あいにくと俺のは我流だ。竪琴を適当にかき鳴らしてそのとき思ったことを口にするだけさ。人に教えるほどのものじゃない」
照れてでもいるのか、いつもの威厳ある口調ではない。もしかするとこれが本来の彼の姿なのかもしれないと、ヨハンは思った。
「それはますます興味深い。ぜひ一度お聞かせ願いたいものです。何しろこの解放軍は一騎当千の強者の集団なれど我が至高の芸術を理解してくれる人間はなきに等しいのですからね。まったく、嘆かわしいことです」
大げさに肩をすくめて首を振るヨハンを呆れとも苦笑ともつかない表情で眺めやったレヴィンはしばらく返答に困っていたようだったが、やがて肩をすくめて呟くように言った。
「……機会があればな」
「お待ちしております。では、御前失礼」
真紅のマントを翻して退出する後ろ姿をしばらく見送って、レヴィンは苦笑とともに呟いた。
「……妙な男だ。オイフェに聞いたというからには俺の実力も承知の上だろうに」
かつてシグルドたちと旅をともにする前、彼は確かに吟遊詩人の真似事をして旅をしていた。だがその実力はといえば、周囲の評価は『竪琴の腕前は確かだが歌は今一つ』というものだったのだ。特にシグルド軍は貴族出身者が多く詩歌などによく通じた者も多かったため、辛辣な評価を受けることも多かった。特に厳しい評価を下してくれたのはノディオン王家のラケシス姫で、「言葉の選択が平凡すぎますわね。個性が感じられませんわ」との彼女の選評を聞いた後数日は立ち直れなかったものである。
懐かしい記憶に、レヴィンは目を細めた。どんな苛烈な日々も、この記憶を奪うまでには至らない。たとえ自分が自分でなくなろうとも、仲間や妻とともに過ごしたあの日々の記憶が自分を地上につなぎとめる。
「あんたには歓迎すべきことではないのかもしれんがな……なあ、そうだろう?フォルセティ」
誰もいない深夜の自室。鏡に向かって、レヴィンはにやりと笑ってみせた。
***
深夜を越えた時間ともなれば、城内を歩き回るのは少数の見張り兵のみである。静かな廊下を、ヨハンは悠然と歩く。こんな深夜に出歩いているところを目撃されれば不審がられるのは目に見えているのだが、彼はそれを気にした様子もない。自身にやましいところがないのをよく承知しているからだ。かつん、かつんという足音を響かせながら角を曲がって目的の自室がある廊下に差し掛かった彼は、薄暗いそこに人影を認めて足を止めた。
「……ラクチェ?」
呼びかけると、人影はびくりと肩を揺らした。自身の勘があたっていたことに気づいて、ヨハンは驚いた。何を考えるよりも早く、素早く歩み寄る。
「どうしたのだ、こんな夜中に」
「あの……あたし、」
どもりがちな彼女の腕を取る。思ったとおり、ひどく冷たい。無理もない。季節は既に冬に差し掛かっているのだ。暖房の消えた廊下は身を切るほどの寒さである。一応室内とはいえヨハンもマントがなければその寒さに震えていただろう。その中で普段の平服一枚きりのラクチェの姿は異常ともいえた。
「とにかく、一度部屋に入ろう。このままでは風邪を引く」
肩を抱くようにして促す。わずかな抵抗をみせた身体は、結局おとなしく従った。
室内に入り、ヨハンはまず寝台に用意されていた毛布を引き剥がして彼女の肩にかけた。
「すぐに暖炉に火を入れるから。しばらくそれをかぶっておとなしくしていてくれ」
「ヨハン……あたし」
「すぐに帰るにしても温まってからのほうがいい。さっきも言ったが、そのままでは風邪を引くぞ」
少しきつい口調で言いつけて、暖炉に向かう。部屋を出るまで赤々と燃えていた火は少しつつくだけですぐに勢いを取り戻した。それを確認して、今度は窓際においてあったランプに手を伸ばそうとしたヨハンはふとその動きを止めた。
「……ラクチェ?」
背中から抱きついてくるぬくもり。胸の前に回された腕は、細かく震えている。
「……ごめん、少しだけこうしていて」
声まで震えているのは寒さの故か、それとも―――
「ちゃんと立ち直るから。だから、今だけ……」
ここを訪れたのは、無意識の行動だった。
何が不安かなんて、自分でもわからなかった。ただ、きっかけがユリアの失踪であることは確かだ。
セリスは、ラクチェにとって軍の司令官であり、解放軍の盟主であり、そして大切な幼なじみだった。その彼が、ユリアをどれほど大切にしていたか。いつもどこか張り詰めたような遠い眼差しをしていた幼なじみは、彼女が隣にいるときだけは穏やかで安らいだ顔をしていた。彼はやっと『ただ一人』を見つけることができたのだと、安堵していたのに。それなのに、こんなにあっさりとそれが失われてしまうなんて。
弱い自分が嫌いだった。母のようにありたい。常に戦場に立ち、戦女神と呼ばれてその名のとおりの活躍を見せつづけた母のように、強く美しい存在でありたい。そのためには、剣を振るうことにためらいを見せるような心をもっていてはならないのだと、自分を戒めてきた。母のようにあるためには、一人で立てなくてはならないのだと。自分を戒めて、そうして強い自分であろうとしてきた。
それなのに、彼の前でだけは自分はただの自分に戻ってしまうのだ。弱くて小さな子供のような自分に。彼の広い腕が、優しい眼差しが、それを許してくれていたから。その存在があってこそ、自分は強くいられたのだと思う。その存在を失ったとき、自分はどうなってしまうのだろう。胸を刺す不安は、常に胸の底にあった。
戦いが続いている間は、不安を忘れていられた。それが帝国本土を目の前にして、突然黒雲のように広がり始めた。気がつけばヨハンの姿を捜し求めて深夜のミレトス城をさまよい、ここまできてしまっていた。
自分たちがやっているのは戦争だ。殺し合いなのだ。そんなことはわかっている。自分が戦うことで、誰かの大切な人が失われていることも。わかっている、わかっているのだ。それでも。恐ろしくて、仕方ないのだ。彼を―――ヨハンを失ってしまうことが。
弱いところなど見せたくはなかった。誰にも―――ヨハンにすらも。けれど、今の自分にはこのぬくもりがどうしても必要だった。
冷たい手が重ねられて、ラクチェはびくりと肩を揺らした。
「ラクチェ。私はどこへも行かないよ」
低い声が、触れた部分を伝わって直接響いてきた。
「君を置いて行きはしない。だから、安心していいんだ」
その言葉に。頭の芯が、かっと熱くなった。
「嘘。そんなの嘘よ」
口を突いて出た言葉。それに突き動かされるように、ラクチェは腕を放してあとずさった。
「ラクチェ?」
「あたしたちがやっているのは戦争なのよ。誰がいつ死んでもおかしくない。あたしを置いていかないなんて、そんな守れるかどうかもわからないことを軽々しく言わないで!」
「ラクチェ、落ち着いて」
突然ひどい興奮状態に陥った彼女を宥めようとヨハンはあえて静かに言葉をかけた。だが、それは彼女の興奮に水をかけるどころかさらに油を注ぐ結果となった。
「落ち着けですって!?あなたはいつでもそうだわ!一段高いところからあたしを見て、まるで子供のように扱う!あなたがそうだから、あたしは……!」
「ラクチェ」
「あたしが何を考えているかなんて、考えたこともないんでしょ!もうたくさんよ!」
「ラクチェ!」
珍しく荒げられた声。強い力で肩をつかまれ、引き寄せられる。その腕から逃れようと暴れ出す前に抱きしめられ、唇が重ねられていた。
「……ッ!」
いつもの、触れるだけの優しいそれではない。言葉も、呼吸も、何もかもを飲み込んでしまうような深く激しいくちづけ。抵抗しきれないそれに流されるように、ラクチェはぎゅっと目を閉じた。震える手がすがるものを求め、辿り着いたマントをぎゅっと握りしめる。咥内を蹂躙し尽くしたそれが離れても、足りない酸素を求めて呼吸を正すのがやっとだった。
「ラクチェ、頼む。私を信じてくれ」
耳元に告げられた言葉に、ラクチェはようやく目を見開いた。目の前に、真剣な眼差しがある。いつもの穏やかさと、そこにわずかに含まれた憤りと苛立ち。声が、出ない。
「私に力が足りないことは知っている。だが私は真剣だ。私にはこれしか言えないのだ」
息を呑んで。ようやく絞り出した声は、細く掠れていた。
「ヨハン……」
「決してうわべだけで言っているのではない。信じて欲しい」
その言葉に、頷きそうになる自分がいる。けれど、言葉の甘さだけにおぼれてしまうには不安はあまりにも大きすぎた。
「そんなこと、知ってる。あなたはいつだって真剣だから……でも、無理よ」
「ラクチェ」
「だって、ユリアは帰ってこないじゃない。あたしの父様と母様だって……」
声が震え、くしゃりと顔が歪む。
「父様の声、覚えてるわ。『おとなしく待ってろよ』って……そう言ってた……あたし、ずっと待ってた。待ってたのに……それなのに……!」
大粒の涙をぽろぽろとこぼし始めるラクチェを、ヨハンは壊れ物を扱うようにそっと抱きしめた。
「ヨハンなんか嫌いよ。大嫌い。いつだってあたしを子供扱いして、対等に見てくれない。頭を撫でて、慰めて、あやして、それですむと思ってるんだわ。あたしを甘やかして、こんなに弱くして……!」
「ラクチェ……」
「ヨハンのバカ……大嫌いよ……でも、ほんとは自分が一番嫌い。弱くて、子供で、こんなふうに泣き喚いてあなたに当り散らしてる自分が一番嫌い」
静かにため息をついて。ヨハンは、涙の流れる頬にそっと唇を落とした。
「ラクチェ、愛している」
「ヨハン!まだそんなことを……!」
ぎっと睨みつけてくるラクチェににっこりと微笑みかける。
「これが私の本心だからね。この思いはたとえ私が死したとて変わるものではないよ」
死、という単語にびくりと反応するラクチェ。その額に、頬に、宥めるようにキスを落としながらヨハンは続ける。
「人の思いは常に変化するものだ。だが、私が君を愛したという事実はたとえどのようなことがあっても消えるものではない。その意味では、私の愛は不変であるといえるだろうね」
「ヨハン……」
「たとえ死してもこの思いは常に君と共にある。野に吹く風のように、あの空から降り注ぐ光のように……君に永遠の愛を捧げることを約束しよう」
そっと膝をついて、ヨハンはラクチェの手を取りその甲に恭しくくちづけた。薄暗い部屋の中で、暖炉の暖かな光に照らされたその頬に既に涙はない。ただ、困ったように恋人を見下ろしている。
「死しても、だなんて……縁起でもないこと言わないでよ」
「覚悟の表れとして捉えて欲しいな。もちろん、生きて君と幸せになりたいのが一番の望みなのだがね」
「……バカ。ほんとにバカなんだから……」
でも、好き。
そっと呟いて、膝を突いた恋人の首に腕を回して抱きしめた。
「信じてもいいのね?」
「もちろん」
即答する彼に、微笑んで。耳元に、囁きを落とす。
「じゃあ、証明してくれる?」
「え?」
「言葉だけじゃないなら、ちゃんと証明して。あたしのこの身体に、あなたの想いを刻み込んで。二度と忘れることができないくらいに」
「ラクチェ……」
しばらく呆然としていたヨハンは、やがて苦笑して呟いた。
「……君には一生かなわないな」
二つの影が再びそっと重なった。
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