本名=宮崎八百吉(みやざき・やおきち)
元治元年9月20日(新暦10月20日)—大正11年8月9日
享年57歳
東京都港区南青山2丁目32–2 青山霊園1種ロ21号9側19番
小説家・詩人・宗教家。福岡県生。東京専門学校(現・早稲田大学)卒。民友社に入り『帰省』『空家』などを発表。小説、詩、評論で活躍した。かたわら受洗して伝道生活に入り、本郷森川教会牧師、聖学院神学校教授をつとめたが、のち独立伝道に入った。ほかに『湖処子詩集』『おもひ子』などがある。

かくて古門村には二軒の空屋を残したり、一軒は川辺にあり一軒は山手に立てり、前者の門札は尋常にその墓に移りてあるも、後者の名はその石を有せざりき、逝くものは月日、三年立ち五年過ぎ、村人の代も変りて去年新たに隠居して本願寺に詣でし父老の一人、帰村の初め、歓迎の宴席において語れるその紀行のうちに左の一節ありしなり、
「われらが西京より近江に出でて有名なる三井寺に詣ずる途中、今しも琵琶湖を漕ぎ出る舟に一個の気高き行脚僧を見き、われらが彼を認めし時は、舟すでに岸を離れてありき、われらが彼を熟視するごとく彼もしきりにわが一行を打ち守りき、ついに彼は舟子に舟を返さしめんとするさまなりしが、その語は櫓の声波の音に紛らされ舟は返らずしてますます遠ざかり、互みの顔ようように隔たりつつ、ついに全く見えなくなりぬ、さてその法師の容貌と風采とは、さながら年とりし佐太郎そのままにて、不思議の再会最も懐かしく思いたるに、他に佐太郎にあらずと言うものもあり、さらばとて、帰り路に再びそこを過ぎたれど人にも舟にも遇わざりし」と、
(空家)
明治21年、宮崎湖処子は徳富蘇峰に認められて民友社に入り、多くの詩や小説、評論を発表して、縦横無尽に健筆をふるっていた。島崎藤村以前の抒情詩人の第一人者とも言われたが、明治31年に受洗。民友社を退いたのちは信仰に生きるようになっていった。本郷森川教会の牧師になってからは伝道に力を注いでいたが、やがて宗教に沈潜し、自らを「神と人の審判者」と称するなど狂信にも近くなって文壇とのつながりも絶えた。大正10年の夏に軽い脳溢血にかかり医者から警告を受けたが、ほどなく回復。翌11年8月9日、キリスト教の教義に関して議論をかわした論客を送り出した直後に廊下で卒倒して帰らぬ人となった。
「出郷関曲」で〈百世傳ふる此の土に、安く老いぬる親ふたり、此處に幸あるべき、われは都にのぼるなり。(中略)〉このうるわしき天地に、父よ安かれ母も待て、學びの業の成る時に、錦かざりて帰るまで。〉と高らかに歌って、明治17年9月、故郷筑前の三奈木村(現・朝倉市)を出立したのは宮崎湖処子 20歳の時であったが、百数十年を経た今は青空の澄み切った空の下、広々とした青山の霊園に眠っている。かつては「湖處子宮崎八百吉之墓」と刻まれた湖処子の墓を取り囲むように次男泰男、先妻睦子、次女澄子、誕生間もなく没した長男輝生の墓が並んでいたのだが、きれいに整理されて新しく黒御影石に「宮崎家」と彫られた墓にまとめられている。

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