水野仙子 みずの・せんこ(1888—1919)


 

本名=服部テイ(はっとり・てい)
明治21年12月3日—大正8年5月31日 
享年30歳 
東京都豊島区南池袋4丁目25–1 雑司ヶ谷霊園1種15号14側


 
小説家。福島県生。須賀川裁縫専修学校(のち須賀川高等女学校、現・須賀川高等学校)卒。明治41年雑誌『文章世界』に発表した『暗き家』、翌年の『徒労』で認められ上京。田山花袋に師事。『四十余日』『娘』『陶の土』などの佳作を発表。自然主義系女流作家として知られたが早逝した。






  

 道は別れた。それは遂にさうなる道であつたのに、迷路に近い運命の道を尋ねて、お互に紛れ合ひ、躓き、引つ返し、または道づれとなり、離れ、寄り、さうして我々は進んで行く、けれども、おのおのの道にはおのおのの行手がある、さうしてあるところまで共に手を執つて進んだ者も、遂には自分にと定められた道に別れて行かなければならない、道は別れる。
さらば行きずりの人達! 左樣なら!
 一時は一生の道づれかと思つたAさん! あなたも左樣なら! あなたの道のより廣く、より明るく、祝福にみちてありますやうに!
 それでは私のあなた!今はしづかにとぼとぼと私達の歩を續けませう。その道はどんなに寂しく辛くとも、それが私達にと神の備へられたものであるならば、私は喜んであなたと共にそれを進んで行きませう、私は今自分の歩いてゐる道が、ほんたうの道であるのを思つて、心やすらかに滿足しつゝ微笑んでゐます……と。
                                                                  
( 道 )



 

 水仙の花が好きで、「水の仙」と書いていたのがだんだん本名のようになって、とうとう「水野仙子」の筆名にしたということだが、友人仲間の内では通称おていさん。
 田山花袋に認められ、時代にあっては田村俊子と並ぶ女流の確固たる作家であった。
 大正5年に肋膜炎の診断を受けてからは体調思わしくなく、転地、入退院を繰り返したが、彼女が唯一の力と頼みにした女医次姉ケサの看護も空しく、大正8年5月31日午後4時30分、脳膜炎を併発し、草津温泉の聖バルナバ病院の一室でついには遠く還らぬ人となった。
 ——〈賢き小説家ならず、美しき詩人ならず、たゞ一人の真なるものゝ美を慕ふ女に過ぎない〉、まことな女流作家の儚い死であった。



 

 水野仙子は、あくまで現実的に現実そのままの真実を描くという自然主義を掲げ、実践した田山花袋の師風を最もよく理解し、師のあとを進んだ。〈何は措いても、これだけは確かだ。私の一生の道にあらはれて来た多くの女性の中で、かの女が最も純な、最も本当な、最も一本筋な、最も正しい異性であった〉、と師田山花袋が記した薄倖の作家水野仙子。
 6月2日、草津で荼毘に付された彼女の遺骨は、翌日、夫川浪道三に抱えられて東京に運ばれ、5日、雑司ヶ谷のこの地に埋葬された。「川浪家之墓」の背面に射す西日は碑面を暗く翳らせ、捧げられた彼岸の白菊が一段と際だって、胸にこみ上げてくる感情を清々しいものにしてくれた。



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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