三角 寛 みすみ・かん(1903—1971


 

本名=三浦 守(みうら・まもる)
明治36年7月2日—昭和46年11月8日 
享年68歳(至心院釈法幢法師)
東京都新宿区大久保1丁目16–15 全龍寺(曹洞宗)



小説家。大分県生。日本大学卒。大正15年『東京朝日新聞』社会部記者となる。永井龍男の勧めで小説を書き始める。『怪奇の山窩』などの山窩小説を発表し、作家の道を歩む。戦後は創作を断ち、東京池袋に映画館「人世坐」「文芸座」を経営する。『山窩族の社会の研究』などがある。






  

 私はすっかり山窩熱にとりつかれてしまったといってよい。
 その後も暇をみては瀬降を求めて歩きまわることは今もつづいている。
 しかし、最初はこれを研究して、文学に表現するというような考えは毛頭もっていなかった。あくまでも、新聞記者としての探訪欲、つまり知りたいと思う新聞記者的責任現象の結果とでもいうべきものであった。ところが、だんだん調べてゆくうちに、彼らの間に厳重な一夫一婦の掟のあることなどを知ったときに、私ははじめて、文学的価値について考えた。(中略)このようにして、瀬降探訪の結果は、犯罪面から覗いた山窩でない幾面をも知り得たのである。そこには、自然のままの、素ぼくな夢やロマンもある。また太古そのままの、大らかな情感もあふれている。
 私は、それらもろもろの事がらを知るに及んで、犯罪面とはおよそ違つた、この幾つもの美しくまたきびしい断面を、さらに強調して、文学に彼らの生態を再現させたなら、きっと面白いだけでなく、乱れ果てている現在社会の啓蒙になる。これこそ為になる。これこそ文学を、こころざす者の至上命令だと考えた。
 折も折、この研究を文藝春秋の永井龍男君(当時のオール読物編集長)が知るところとなり彼の熱心なすすめにより、雑誌「オール読物」に、なんと十年間連載したのである。いうなれば永井君が、山窩を世上に普及させた産婆役である。
 当時の文藝春秋社長であった菊池(寛)さんが「面白いよ、チミ(君)つづくかぎり、なんぼでも書きたまえ」と激励してくれた。 
                                        
(山窩物語)



 

 良くも悪くも強烈な個性の持ち主であった。妻よしいの死後は有り体に言えば醜態を晒した生活態度でもあった。古くからの友人永井龍男らとも絶交状態となり、多くの友人知人は遠ざかっていった。
 東京朝日新聞記者時代に非定住の山間川辺流民・山窩(サンカ)の存在を知り、三角寛といえば山窩小説、山窩小説といえば三角寛というまでにその魅力に取り憑かれた。三角の山窩小説はあくまでも想像によって創り上げた独特の伝記小説であった。
 虚構の世界を描きだして一世を風靡し、文学の一分野を築いたが、山窩資料としての学問的価値は薄かった。晩年は脳軟化症による朦朧状態から抜け出すことなく、昭和46年11月8日、心筋梗塞によって波瀾の人生を閉じた。



 

 コリヤタウンと化した新宿・大久保の喧噪を遮断するように入り込んだこの寺は、ウナギの寝床のように細長い墓域を占有していた。
 奥まった場所の大きな桜木の下「南無阿彌陀佛」と彫られた塋域。13回忌にようやくのこと血縁の因縁も恩讐の彼方に溶解し、妻よしいの眠るこの墓に三角寛は同居する。かつては井伏鱒二、永井龍男、河盛好蔵などを重役に迎え、戦後の荒廃の中に「心のオアシス」とまでいわれた「人世坐」「文芸坐」などの映画館経営にも手を染めた流行作家の侘び住まいの碑である。
 理不尽な父に心底仕え、父と母、父と夫の確執の狭間に悩みながらも支え続け、『父・三角寛 サンカ小説家の素顔』を著した娘三浦寛子も平成9年に他界し、同じ墓に眠っている。



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

編集後記


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文学散歩 :住まいの軌跡


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