南川 潤 みなみかわ・じゅん(1913—1955)


 

本名=秋山賢止(あきやま・けんじ) 
大正2年9月2日—昭和30年9月22日 
享年42歳(超然文雅秀潤居士)
群馬県桐生市西久方町2丁目3–19 円満寺(真言宗)



小説家。東京府生。慶應義塾大学卒。大学在学中の昭和11年『掌の性』、翌年『風俗十日』で連続三田文学賞を受賞して注目される。15年『春の俘虜』で直木賞候補。16年野口冨士男らの『青年芸術派』同人。のち坂口安吾らの同人誌『現代文学』にも参加。ほかに『失はれた季節』『窓ひらく季節』などがある。







  

 私が、東京大森から、妻の縁故をたよってこの街に疎開したのは、昭和十九年の春、もうまる二年以上になる。今では、どうやら住みついたという感じだ。私のように、東京で生れ、東京で育った人間には、いかに疎開とは云っても、全くの田舎ぐらしは出來ない。この街の、何から何まで東京の植民地のような、東京のイミテーションみたいな都會風なればこそ、今日のように落付いて暮らす氣にもなつたのであろう。その上、東京のイミテーションでほんものゝ東京にすぐれたもの、それは山々がとりまいている恵まれた自然という環境だった。ことに私の家のあたり、東京で云えば郊外の住宅地、そこはもうすぐに、とりまいた山の山裾にあたるのだ。私の家のすぐ裏手には、だるま山という美しい姿の山が北をふさいでいる。そのすぐ下に、
サナトリウム、養老院などがあり、山績きに、忠靈塔の白い石の塔が、戦争の悔恨のような感傷に光っている。忠靈塔のある山は、水道山と云って、配水塔のあるところでもある。このあたり一帯、市指定の風致区域だった。云わば東京のイミテーションみたいな街が、こじんまりとまるで箱庭みたいに、自然という山脈のとりかこんだ環境の中におかれているといったぐあいだ。私は東京からの來訪者に、この街を自慢する。
 どうだ、美しい街だろう。
 誰もそれにうなづいてくれる。
  美しい街。私はほんとうにそう思っている。今では、疎開者の空々しい氣持ちでなく、何かしら故郷のようにこの街を愛する心になつている。私は、まだ多分しばらくの間は、この街におちつくだろう。

(窓ひらく季節)



 

 慶應義塾大学在学中から『掌の性』や『風俗十日』で二年連続の三田文学賞を受賞し、将来を嘱望されていた南川潤。宿痾の心臓弁膜症に苦しみながらも新進作家として、高見順も認める都会人的感性の作風に裏打ちされた洗練な作品を次々と発表してきた。太平洋戦争激化の昭和19年3月、ツネ夫人の実家がある群馬県桐生市宮本町に疎開。戦後は桐生を本拠に執筆活動を続け、群馬における文学や文化運動に尽力。また坂口安吾の懇願により、桐生にその住まいを斡旋するなどの労をとっていたのだが、安吾が急死した30年2月から七か月後の9月22日午後6時20分、六年前に引っ越した桐生川の対岸・栃木県足利郡菱村黒川(現・桐生市菱町)の自宅で心臓弁膜症による脳塞栓で死去した。


 

 

 〈美しい街。まことにこの街は美しいのだ。〉〈私は多分このまゝ、この美しい街の住人になり終るだろう。〉と『窓ひらく季節』で綴った織物の街。のこぎり屋根の工場が散在している桐生市街の西北部、山手通りに面し、桐生ヶ岡公園へとつづく斜面の五十段近い石段をのぼると鐘楼門や六地蔵、妙見堂が見え、コンクリート造りの本堂がある。高野山真言宗の寺、鷲ヶ峰福応山成蓮院円満寺。坂口安吾旧宅にも近いこの寺の墓地に昭和42年、南川潤十三回忌にツネ夫人が建てた「秋山家」の横型墓碑が六月の雨にしっとりと濡れていた。墓誌に南川潤と妻ツネ、長女紀子の名が刻まれている。丘陵地の中腹にある寺の墓地から雨煙で烟る桐生の街を眺めていると、下の通りを走る車にはねられた雨音が間断なく聞こえてきた。





 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

編集後記


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文学散歩 :住まいの軌跡


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