三島由紀夫 みしま・ゆきお(1925—1970)


 

本名=平岡公威(ひらおか・きみたけ)
大正14年1月14日—昭和45年11月25日 
享年45歳(彰武院文鑑公威居士)❖憂国忌 
東京都府中市多磨町4–628 多磨霊園10区1種13側32番


 
小説家。東京府生。東京帝国大学卒。学習院中等科在学中から小説を書き、昭和19年処女短篇集『花ざかりの森』を刊行。戦後、川端康成の推薦で『煙草』『岬にての物語』などを発表。『仮面の告白』『愛の渇き』などで作家として認められた。ほかに『潮騒』『金閣寺』『鏡子の家』『豊饒の海』などがある。







  

 「美しく生き美しく死なうとすれば、まづその条件を整へて行かねばならない。少なくとも、自分の仕事に誠実に生き、又、国や民族のためには、いさぎよく命を捨てる、といふのは美しい生き方であり死に方である‥‥‥(略)さて、武士が人に尊敬されたのは、少なくとも武士には、いさぎよい美しい死に方が可能だと考へられたからである。軍人に対する敬愛の念の底には、これがひそんでゐる。(略)ひとたび武を志した以上、自分の身の安全は保証されない。もはや、卑怯未練な行動は、自分に対してもゆるされず、一か八かといふときには、戦って死ぬか、自刃するかしか道はないからである。しかし、そのとき、はじめて人間は美しく死ぬことができ、立派に人生を完成することができるのであるから、つくづく人間といふものは皮肉にできてゐる。  

(美しい死)



 

 その日の正午前、市ヶ谷のデザイン事務所で仕事をしていた私は、ひどく騒がしいヘリコプターの音によって三島由紀夫の事件を知った。
 〈死に方といふのは人間の生き方と同じで非常に重要だと思ふのです。僕は文士として死にたくないのです。絶対に嫌なのです。小説家として死ぬなんてみっともない‥‥〉。
 〈わき目もふらず、破滅に向かって突進する人間だけが美しい〉と三島由紀夫は律した。昭和45年11月25日朝、『天人五衰』の最終回原稿を『新潮社』に渡したのち、「楯の会」会員と東京市ヶ谷の自衛隊東部方面総監部に乗り込んだ。自衛隊の決起を促したが果たせず、その言葉通り最も文士らしからぬ死、すなわち自刃による武士らしい死を選んだのだ。



 

 秋の陽は早かった。西陽が風に舞う頃になってようやく墓をみつけた。右手前に五人、故人の名の刻まれた霊位標、その四番目に「彰武院文鑑公威居士 昭和四十五年十一月二十五日去世 俗名平岡公威 筆名三島由紀夫 行年四十五歳」と記されている。
 かつて私は三度この作家を目にしたことがある。一度目は明治百年記念事業の三島由紀夫脚本バレー公演のポスターデザインを担当した時、二度目は冬の朝まだ明けやらぬ六本木の街を足早に歩いていた。そして三度目は……。とある日、西新宿の地下広場で「楯の会」の制服に身を包み、さっそうと車に乗り込んでいったこの作家の紅潮した面貌を、眩しく眺めたのは幻であったのだろうか。
 〈今、夢を見てた。又、会ふぜ。きつと会ふ。滝の下で〉。 



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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