港野喜代子 みなとの・きよこ(1913—1976)


 

本名=港野喜代子(みなとの・きよこ)
大正2年3月25日—昭和51年4月15日 
享年63歳(紫雲貞光大姉)
京都府舞鶴市西神崎265 永春寺西神崎墓地(曹洞宗)に2000年まではあったはずが2015年夏訪れたときは整理されて所在不明になっていた。
2017年にいただいたある方からの情報メールによると、現在は大阪北摂霊園に改葬されているとのことです。



詩人。兵庫県生。大阪府立市岡高等女学校卒。昭和九年港野藤吉と結婚。戦時中、夫の郷里舞鶴に疎開中に詩作を始め、昭和23年「日本未来派」同人。のち大阪文学学校講師をつとめながら詩・児童文学を発表。サークル活動や社会運動で活躍した。詩集に『紙芝居』『草みち』『凍り絵』などがある。








  

秋はこうして幾度びも私を研ぐ
研がれても研がれても
粟の穂のように軽く重く
愚かな錆をこぼしている

 黙々と粟の穂先きを刈り束ねつつ
片手に捧げた粟の一と房を見つめ
私は思う
ここに今、降る限りの秋を
私はきく
ここに今、野分けさえ含む風を

 秋は幾度びも、こうして私を研ぎ
私はこうして幾度びも秋に眩む

 

(『紙芝居』秋唄)



 

 詩人の死は何時の時も孤独だ。私の敬愛する詩人石原吉郎は浴槽の中で人知れず死んだが、〈アスファルトの上で詩を書き 走るバスの中で詩を書き そして駅の階段をのぼり降りして〉、自分にもこの世にもショックをあたえるために詩を書いた港野喜代子もまた昭和51年4月15日、自宅の庭にすみれの花の咲く頃、一人住まいの大阪市箕面の自宅風呂場でひとりぼっちで死んだ。脳溢血による心臓麻痺の死は5日の間、誰にも発見されず、孤独の時間の中にあったのだ。最後に残した『私の詩のノート』に〈何かで死ぬことは 全部のことで死ぬことだ〉、〈遠く遠くから 風が鳴りはじめると 私の心はさわぎはじめるのだ あの風に乗りさえすれば 雪の山が超えられる〉と書いて〈野の花が散るように散った〉。




 

 昭和20年4月から5年ほどの間疎開して暮らした夫の郷里京都府加佐郡神崎村(現・舞鶴市西神崎)。港野家の菩提寺永春寺・西神崎墓地に埋葬された港野喜代子の墓を訪ねたのはお盆の一か月ほど前のことであった。毎年8月15日に日本海の潮鳴りの音を聞きながら、先に亡くなった夫の墓参に訪れたという防風林の中にある砂丘の墓地には、ある記事によると〈おとなの腕一抱えにもみたないふたつの自然石がぽつんと置かれてある〉はずであったが、そんな石塊は墓地の中に無数に転がっている。これでは判別しようがないと菩提寺まで引き返して老住職に尋ね得た結果は、管理していた地元縁者の方が亡くなられた後、縁者の墓共々整理され何処ぞへと行方知れずになっているとのこと。儚くも哀しい墓参であった。



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

編集後記


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文学散歩 :住まいの軌跡


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