水原秋櫻子 みずはら・しゅうおうし(1892—1981)


 

本名=水原 豊(みずはら・ゆたか)
明治25年10月9日—昭和56年7月17日 
享年88歳 ❖秋櫻子忌 
東京都豊島区駒込5丁目5–1 染井霊園1種イ3号1側 



俳人。東京府生。東京帝国大学卒。家業の産婦人科病院を経営。俳句は松根東洋城、のち高浜虚子に師事。山口誓子、阿波野青畝、高野素十とともに〈四S〉時代を築いた。昭和13年『馬酔木』を主宰。やがて『ホトトギス』を離れ、豊かな人間感情表現を俳句に託した。句集に『葛飾』『新樹』『秋苑』『岩礁』『芦刈』『残鐘』『帰心』などがある。






  

なく雲雀松風立ちて落ちにけむ     

 わがいのち菊にむかひてしずかなる   

 冬菊のまとふはおのがひかりのみ    

 瀧落ちて群青世界とどろけり      

 天国の夕焼を見ずや地は枯れても    

 消ゆる灯の命を惜しみ牡蛎を食ふ    

 紫陽花や水辺の夕餉早きかな      (辞世)



 

 高浜虚子の提唱する〈客観写生〉の姿勢に飽き足らなくなった秋櫻子は『ホトトギス』を離脱し、新興俳句運動の流れを起こしていく。守旧の『ホトトギス』派と対立した『馬酔木』には山口誓子や石田波郷、加藤楸邨、橋本多佳子らが合流して一大勢力となっていくのであった。
 「客観」ではなく「主観」を第一として、高浜虚子に叛旗をひるがえした勇気の人水原秋櫻子。自然の色調を捉えた句は、みずみずしい光のほとばしりが感じられ、その強烈な美意識を持った俳人の姿にはつねに気品があった。
 昭和54年12月、心臓発作のため東京女子医科大学病院に入院、3月には退院するのだが、56年7月17日、急性心不全のため杉並区西荻窪の自宅にて88歳の生涯を閉じた。



 

 東京・駒込のこのあたりは染井吉野桜のふるさとである。当然のことながら、染井霊園には染井吉野の古木があちこちに点在し、季節には満開の花が咲きそろい塋域は大いに華やぐ。
 管理事務所をまっすぐ北にむかった参道の左手に沿って間口の広い墓域がある。水面に漂う浮島のように磨き込まれた花崗岩の平石に影を映して、左に「水原秋櫻子、妻しず之墓」、右に「水原家之墓」まったく同じ形の石碑がならび、秋櫻子の墓の両側には蓮花を模した様な花台が配してあった。左奥には馬酔木が植えられている。広い間口全面に石床を持った端正な雰囲気で、新緑の空気を精一杯浴びていた。
 〈あきらめし旅あり硯洗ひけり〉 。



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

編集後記


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