三好十郎 みよし・じゅうろう(1902—1958)


 

本名=三好十郎(みよし・じゅうろう)
明治35年4月23日(戸籍上は4月21日)—昭和33年12月16日 
享年56歳 
東京都府中市多磨町4–628 多磨霊園18区1種36側22番


 
劇作家。佐賀県生。早稲田大学卒。昭和3年処女戯曲『首を切るのは誰だ』を発表、「ナップ」に参加。『疵だらけのお秋』のほか小説・詩を発表。6年処女戯曲集『炭塵』を刊行。プロレタリア劇作家として知られた。『斬られの仙太』『浮標』『をさの音』『炎の人』などの代表作がある。



 


    

 テオよ、こちらでは、毎日良い日が続く。と言つても天気の事ではない。天気は、アルルでは風のない静かな一日に対して風の日が三日つづく。この風を土地の人はミストブルと言う。恐ろしくイライラと神経をかき立てる風だ。だが、花の咲きそろつた果樹園は早く描かないと、待つてくれない。だから俺は地面にくいを差して、それにイーゼルを縛りつけて、風の中でも仕事をしている。俺はドンドン、ドンドン描いて行く。ライラック色の耕地、赤い色の葦の垣根、かがやかしい青と白の空に伸びている二本のローズ色の李の樹。これは恐らく、俺の描いた一番良い風景だ。…ちようどこの絵を描きあげて、黄色い家に持ち帰つたら、モーヴが死んだことを知らせる妹からの手紙が来ていた。モーヴは最後には俺を突き離した。しかし親切な良い人間だつた。何か---それは何だか俺にはわからないが---俺を捕えたものがあつて、俺のノドの奥に塊のようなものが、こみあげて来た。俺はこの絵に描き入れた。「モーヴの想い出のために。ヴィンセントとテオ」。もし君が賛成ならば、これを俺たち二人からモーヴ夫人に贈ろう。俺にはモーヴの想い出についてのすべての事は、直ちに和やかな明るいものにならなければならぬ。そして一枚の習作でも墓場の暗い感じを持たせてはならぬと思う。
死者を死せりと思うなかれ、
人々の生ある限り、その中に
死者は生きむ、死者は生きむ。
                                                             
(炎の人)

           


 

 戸籍上は父の兄の子となっているが、幼時三好家の養子となった。実父母と別れ、母方の祖母に育てられるという複雑な環境に育った体験によって、プロット(日本プロレタリア演劇同盟)に参加するようになった。のち、組織を離れ、戦後は左翼、進歩的知識人としてふるまう偽善を嫌い、評論集『恐怖の季節』などで徹底的に批判したのだった。
——〈静かな夕かたの深い味わいが、しみじみとわかるようになったのは、病気にたおれて、寝たきりになってからだと言える〉と病中日記に書いてから3年を経ようとしていた。昭和33年12月16日夕刻、世田谷・赤堤の自宅書斎には肺結核に病む三好が静かに横臥している。人間性を追求し、孤高を貫いた劇作家、作者自身の投影ともいわれる「炎の人」は息絶えた。



 

 長女まりの設計になる「三好十郎」の碑は自署を刻し、低い石塀を巡らせた塋域に立っている。霊域の虚無感はない。
 ——戦争中の転向について三好十郎は〈まさに人間の恥辱のなかの最大の恥辱でありましょう。こんな恥辱をふたたびくりかえさぬように、私はしなければならない。私はそうするつもりです。たぶん、そうできるだろうと思います〉と記しているが、〈人間の中でも一番人間くさい弱さと欠点を持ち それらを全部ひきずりながら けだかく戦い 戦い抜いた〉。
 ゴッホに惹かれ、ゴッホに対峙し、花束を捧げた三好十郎に、〈いつも新らしい 美と新らしい命への目を開いてくれ、 貧しく素朴なる人々に けなげに生きる勇気を与える〉——。
 その絵を愛する〈貧しい心を持った日本人〉から拍手を送る。



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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