宮本百合子 みやもと・ゆりこ(1899—1951)


 

本名=宮本ユリ(みやもと・ゆり)
明治32年2月13日—昭和26年1月21日 
享年51歳 
東京都東村山市萩山町1丁目16–1 小平霊園2区11側6番 
東京都港区南青山2丁目32–2 青山霊園1種ロ8号33側 



小説家。東京府生。日本女子大学中退。大正5年『貧しき人々の群』を『中央公論』に発表。湯浅芳子を知り共同生活を始め、13年『伸子』を発表。昭和2年湯浅とソ連へ外遊。帰国後、日本プロレタリア作家同盟に参加。6年日本共産党に入党後宮本顕治と結婚。『歌声よおこれ』『播州平野』『風知草』『道標』などがある。



  小平霊園

 青山霊園


  

 けれども、やはりわかりきらなかった。彼のやうな博識と聡明とが、なぜ自覚されはじめた限界感の内側にとどまってゐなければならなかったか。そこのところがわからなかった。相川良之介が、生活と文学との上に追随を許さない独自のものとして劃して来たスタイルを、こはすまいとして、死を選んだといふより、死にまで自分を追ひ立ててゆく過程で、もしや自分が自分をぬけ出ることがありはしまいかといふ期待がもたれたのではなかったか。それとも、伸子にさうも思へるといふだけで、彼の作品から直截にわかることはできなかった。
 そのやうにこみ入ったそのわからなさを、伸子は、自分の生活にもどこかでつながったものを感じた。その意味で自分にもボンヤリした不安はあるといふことが出来ると思った。自分だって、よりよく生きたいとねがひ、痛切に生きることを感じながら生きたい、と思ってゐることはわかってゐるが、それならばどういふ風にしてそれを実現してゆくかときかれて、答へられるやうなへんじは伸子になかった。

(二つの庭)

           


 

 両親の反対を押し切ってまでした結婚は失敗におわり、露文学者湯浅芳子との共同生活はプロレタリア文学の道へつながった。昭和6年、33歳のとき宮本顕治を知り日本共産党にも入党、翌年顕治と再婚して本郷動坂に住んだ。
 検挙、拘留、執筆禁止を繰り返しながらも、もちまえの清潔さと楽天性を持ち続けた百合子は、ドナルド・キーンをして〈百合子の文章は芸術的である〉と賞賛せしめた作品群を次々と発表していった。
 昭和26年1月、年初からの風邪をおしての執筆中に病状は悪化し、20日夜には意識不明となった。翌21日午前0時55分、最急性脳脊髄膜炎菌敗血症によりこの世を去った。遺骨は都下小平の墓地と青山霊園の実家中條家、山口の宮本家の墓地に分骨された。



 

 高校生だった頃に天気の良い土曜日の昼下がり、好んで行った姫路城の城垣の草むらで読んだ本の中に、宮本百合子の『播州平野』があり、東京生まれのその作者が残した代表作に不思議な感動をおぼえたことがあった。丸眼鏡をかけたふくよかなその容姿に愛嬌さえも感じていた。
 共産党員でプロレタリア文学作家の旗手という経歴はさすがに厳しかったことだろう。検挙や執筆禁止の処分が幾たびあったことか。戦後に状況はある程度回復されたのだったが、まだまだこれからという五一歳の若さで亡くなってしまった。
 この霊園の老梅を背後左右に配したその塚の前に立って「宮本百合子」の名を口ずさんでみた。遠い日の城垣の草の感触が呼び戻されて、遥か離れた郷里の空を想いやった。



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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