本名=宮 肇(みや・はじめ)
大正元年8月23日―昭和61年12月11日
享年74歳(瑞珠院祖岳柊心居士)
新潟県魚沼市堀之内2911―65 宮家墓地
歌人。新潟県生。旧制長岡中学校(現・新潟県立長岡高等学校)卒。北原白秋の門人となり、「多磨」創刊に加わる。白秋失明後、秘書となる。戦後は釈迢空に私淑。大野誠夫、近藤芳美らと新歌人集団を結成。「コスモス」を創刊し、優れた歌人を輩出。歌集に『群鶏』『小紺珠』『山西省』『晩夏』などがある。

淋しければ 山の狭間に 詮なくて 紫陽花の花を ちぎりてすてつつ
空をゆく 花束を見れば さもしくなり 歯を鳴らすわれは 獣のごとく
群鶏の 移りをりつつ 影しづけ いづれの鶏ぞ 優しく啼くは
ねむりをる 体の上を 夜の獣 穢れてとほれり 通らしめつつ
うつうつと 汗ばむ吾が身 熱あれば 悲しき顔に 河童寄り添ふ
おとろへし かまきり一つ 朝光の 軌条のうへを 越えんとしをり
蝋燭の 長き炎の かがやきて 揺れたるごとき 若き代過ぎぬ
静かなる 冬に入るとぞ 水透きて 鱗の型の 川底の砂
朝の日を 金に堰きつつ 庭若葉 うち繁りたり その陰の青
あたらしく 冬きたりけり 鞭のごと 幹ひびき合ひ 竹群はあり
孤独や喜怒哀楽といった人間性の根源を清新な抒情で詠い歌壇の注目を集め続けていた宮柊二、昭和43年ころから糖尿病の症状が悪化、この病は生涯彼を苦しめることになるのだが、「老いたるはひとしく共に持たざらん殺してやらんほどの憎しみ」というような歌を残しているほどに老いと病への焦燥感に始終葛藤していたのだった。51年に脳血栓で倒れ、以後は発音や手足が不自由になってしまった。60年末には転倒骨折、心臓も衰弱して一時は危篤状態にもなったが、61年10月には小康を得て退院したが、昭和61年12月11日午後10時30分すぎ、容態が急変、11時5分、急性心不全のため東京三鷹の自宅で死去した。
上越線の沿線、上野からの下り電車が越後堀之内駅に入る手前の左側に、数本の赤松と杉の木が立っている小高い丘が見え、その丘の上に宮家の墓地がある。墓地の入口両側には鮮やかな紫の菖蒲が咲き誇って、そこから石段を二十段も上った先の切り拓かれた地に、昭和62年8月、英子夫人により堀之内町から寄贈された八海山の巨大な自然石の墓碑が建立された。二段の階段がついた基壇の上にどっしりと設えられた石に「宮柊二之墓」と刻された黒御影の石板がはめ込まれている。雪にうずもれた魚沼の町並みや、少年時代に親しんだ魚野川、小学校、堀之内本町の生家「丸末書店」も柊二の愛したまま、思い出のまま手の届く場所に今もある。

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