本名=杉浦英一(すぎうら・えいいち)
昭和2年8月18日—平成19年3月22日
享年79歳(釋英筆)
神奈川県鎌倉市七里ガ浜1丁目5―21 顕証寺(本門佛立宗)
小説家。愛知県生。一橋大学卒。愛知学芸大学で経済学の講師を務めながら小説を発表。昭和34年『総会屋錦城』で直木賞を受け、経済小説の開拓者となる。50年『落日燃ゆ』で吉川文学賞、毎日出版文化賞、平成8年『もう、きみには頼まない―石坂泰三の世界』で菊池寛賞を受賞。ほかに『毎日が日曜日』『官僚たちの夏』などがある。

板垣と木村が万歳を三唱したが、広田は加わらなかった。
広田は、意識して「マンザイ」といった。広田の最後の痛烈な冗談であった。
万歳万歳を叫び、日の丸の旗を押し立てて行った果てに、何があったのか、思い知ったはずなのに、ここに至っても、なお万歳を叫ぶのは、漫才ではないのか。
万歳! 万歳! の声。それは、背広の男広田の協和外交を次々と突きくずしてやまなかった悪夢の声でもある。広田には、寒気を感じさせる声である。生涯自分を苦しめてきた軍部そのものである人たちと、心ならずもいっしょに殺されて行く。このこともまた、悲しい漫才でしかない----。
刑場に入る。
検視に立ち会う連合国代表や将校たちが立ち並んでいる。その前を、つぶやいたり、経文を唱えたり、ほどんど歩けなくなったりする中で、広田ひとりが、並んでいる異国の男たちの顔を一人ずつ眺めて通り過ぎた。それは、柔道場で相手チームの選手を見改めるようでもあり、また、パーティの席で客の一人一人に目をこらす外交官当時の姿のようでもあった。
広田の処刑は、十二月二十三日午前零時二十分。 朝のラジオは、処刑のニュースを全国に流した。 重光は獄中で詠んだ。
「黙々と殺され行くや霜の夜」
そして、
「父は尚生きてあるなり寒椿」
この同じ日、広田と同期の吉田茂は、国会を解散した。
野党である社会・民主・国協の各党は、昭和電工事件で傷ついたままの状態であり、総選挙では、吉田の党の大勝が約束されていた。
その総選挙はまた、新憲法公布下の最初の総選挙である。
「日本を滅ぼした長州の憲法」の終焉を告げる総選挙でもあった。
(落日燃ゆ)
実在の人物をモデルとした伝記小説、経済小説、戦争小説などで第一人者となった城山三郎。一橋大学の学生時代に名古屋の実家に近い図書館で偶然出会った女子高生がのちに妻となる容子であった。その出会いから五十年近くたった平成12年2月、桜を見ることなく逝ってしまった愛妻の喪失感から逃れることが出来ないまま七回忌を終えた春頃から一段と体力減退、娘家族が仕事のみならず生活面でも支えてきたが、早春のある朝に異変を感じ入院。病原菌による急性肺炎だったが、間質性肺炎を併発し、平成19年3月22日午前6時50分、入院先の茅ヶ崎徳洲会総合病院で妻容子の後を静か追った。城山の好きだった言葉「静かに行く者は健やかに行く 健やかに行く者は遠くまで行く」そのままに。
通称江ノ電の七里ガ浜停留所から数分、線路沿いを歩いて最初の踏切を渡ったすぐ先に菩提寺の顕証寺はある。数段に分けられた墓地の上段手前の筋に「杉浦家」の墓があった。愛妻の死後〈通夜も告別式もしない、したとしても出ない、出たとしても喪服は着ない。お墓は決めても、墓参りはしない。〉と現実の妻の死を拒絶し続け、妻と暮らした住処には帰らず仕事場が住居となってしまった城山三郎。時は流れ今、この墓に一歳に満たず夭折した長女弓子、妻容子とともに城山三郎は眠っている。梅雨のさなか、ひとときの晴れ間、ゆったりと砕ける白波、キラキラと煌めく相模湾の右手方向に見える江の島の上空にどんよりと重く暗い雲が浮かんでいる。
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