素木しづ しらき・しづ(1895—1918)


 

本名=素木志づ(しらき・しづ)
明治28年3月26日—大正7年1月29日 
享年22歳 
大分県中津市三光土田512–1 西楽寺(浄土真宗)



小説家。北海道生。札幌高等女学校(現・北海道札幌北高等学校)卒。高等女学校卒業後、明治45年結核性関節炎が悪化し右足を切断。大正2年小学校から同窓生だった森田たまに数日遅れて森田草平門下に。同年処女作『松葉杖をつく女』、翌年『三十三の死』を発表。新進作家として認められる。『美しき牢獄』『青白き夢』などがある。







 いつまで生きてていつ死ぬか解らない程、不安な淋しいことはないと、お葉は 考へたのである。併し人間がこの世に生れ出た其瞬間に於いて、その一生が明らかな數字で表はされてあつたならば、決定された淋しさに、終りの近づく不安さに、一日も力ある希望に輝いた日を送ることが、むづかしいかもしれない。けれどもお葉の弱い心は定められない限りない生の淋しさに堪へられなくなつたのである。そして三十三に死なうと思つた時、それが丁度目ざす光明でもあるかのやうに、行方のない心のうちにある希望を求め得たかのやうに、限りない力とひそかな喜びに堪へられなかつたのである。
 お葉は十八の年、不具になつた。
「これからなんでもお前の好きなことをしたがいい。」
 一人の母親はそれが本當に什うでもいいやうに、茫然とお葉の顏を見て言つたのである。庭の椿の葉の上から、青空が硝子の樣に冷たく澄んでゐるのを見てゐた彼女は、急に籠を出された小鳥のやうに、何處へ飛んで行かうといふ、よるべない空の廣さに堪へられない淋しさを感じた。
 空は廣い。その始めと終りはいづこに定められてあるのであらう。人間は生きるといふ事さへ定められてない。死といふことさへ定められてゐないのだ。人間が初めて草のやうに生ひ立つた自身を振り返つて、限りなく晴れた空の廣さを見上げた時、そこに落ちつきのない不安なとりとめのない淋しさが身に迫る、お葉は初めて自分の身を振り返つたのである。                                  

(三十三の死)



 

 17歳のとき結核性関節炎が悪化し右足を切断、傷心のなかで、〈大きくなったら、紫式部のような人におなり〉と口癖のように言っていた亡父の言葉に〈運命の予告〉を感じた素木しづ。他人の保護に頼らず、隻脚の女一人自立して生きていくために小説家になることを決意。幸いにも、しづの母と日光華厳の滝で投身自殺した藤村操の母が知己であった伝で森田草平に師事、その文学修行は死を賭するひたむきさであった。
 樋口一葉以来の才筆と謳われもしたのだが、大正7年1月29日の早朝、東京・白金の枯木林の中、一棟離れて立った伝染病研究所死亡室の土間に横たえられた柩の中には、22歳と10か月、結核という宿痾が癒えることなく薄倖な人生を終えたしづの、白い水仙の花に包まれた石膏像のような顔があった。



 

 赤坂霊南坂教会で行われた永別式の後、しづの遺骨は父岫雲の生家・大分県中津市三光土田の西楽寺内に葬られたと聞いたのだが、当代のご住職に伺うと埋葬の確かな記録も法名も残っていないという。
 耶馬溪から周防灘にいたる山国川の段丘に建つこの寺の境内奥隅、岫雲門下生建之の「素木先生碑」に並んで、江戸期からの素木一族、釋なにがしの法名が刻まれた20数基の古びた墓々に見守られた「素木累代墓」、大正14年に建てられたこの墓の中に、隻脚の傷心をいだいたままの素木しづが眠っているのか否かは謎のままであるのだけれど、初秋の澄み切った中津の空に向かって毅然として立っている碑を見上げていると、例えようもなく清々しい気分がわき上がってきた。



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

編集後記


墓所一覧表


記載事項の訂正・追加

 

 

 

 

 

ご感想をお聞かせ下さい


作家INDEX

   
 
 
   
 
   
       
   
           

 

   


   椎名麟三

   志賀直哉

   獅子文六

   柴木皎良

   芝木好子

   柴田錬三郎

   芝 不器男

   司馬遼太郎

   澁澤龍彦

   島尾敏雄

   島木赤彦

   島木健作

   島崎藤村

   島田清次郎

   島村抱月

   清水 昶

   子母沢 寛

   下村湖人

   庄野潤三

   白井喬二

   素木しづ

   白洲正子

   白鳥省吾

   新村 出