本名=島尾敏雄(しまお・としお)
大正6年4月18日—昭和61年11月12日
享年69歳(ペトロ)
福島県南相馬市小高区大井高野迫 共同墓地
小説家。神奈川県生。九州帝国大学卒。『単独旅行者』『夢の中の日常』などによって認められる。昭和24年『出孤島記』、25年『宿定め』などを発表。『日の移ろい』で谷崎潤一郎賞、『死の棘』で読売文学賞を受賞。『硝子障子のシルエット』『魚雷艇学生』『湾内の入江で』などがある。

先輩は私を郊外の寺の墓地回りにつれ出した。私ははじめて外を歩くような物珍しい気分で、久し振りで妻を離れて寒い外に出た。居残った妻はその家の人たちの間に交っていたのでまず安心ができた。しかし私にはどんな風景も心のなぐさみにはならない。通りすがりの人に出会うと、妻の苦悶が重ってかえって悪い結果を来した。私は先輩の語りかけも半ばうわの空できいた。枝ぶりのよい松などばかり目についた。
先輩は墓地に放置された無名の石仏を写真にとる目的があった。そしてその名の知れぬ石仏の容貌への愛着を静かな口調で語った。彼も人間との愛僧に疲れ果てたからか。
そして、とあるいなか道の道ばたで一個の石地蔵を見たのだ。先輩に教えられて、その肩にさわってみて私は思わず手をひっこめた。日の光をふくんだその場所にやわらかなぬくみを保っているではないか。
日のかげで、地蔵は声をおさえてくつくつ笑っているように見えた。私は病んでいる妻のはだのぬくもりを思った。そして切実に平常心を回復したい願いにかられたのだ。妻も、そして私も。
(地蔵のぬくみ)
わずか9か月の凄愴な夫婦断絶の時期を長編『死の棘』として完成させるのには、実に17年という歳月を要した。夫婦の愛、憎しみ、哀しみ、怒り、狂気、無常、鎮魂、並べきれないほどの脈動の世界は、読む者をその年月に比例して胸の奥深く、鋭く問いつめてくるのだった。戦後日本文学の最高傑作とも評されるこの作品である。
昭和61年11月10日、鹿児島市宇宿町の新築自宅書庫を整理中に脳内出血を発症し、気分が悪くなり鹿児島市立病院に入院する。付き添っていた娘のマヤに「お母さまはまだですか。お母さまはまだですか」と言いながら昏睡状態となった。12日午後10時39分、出血性脳梗塞のため死去。葬儀は鹿児島市の谷山教会で執り行われた。
島尾敏雄の墓は、鹿児島県奄美群島の加計呂麻島呑之浦にもある。妻ミホの生家大平家墓地にミホ、娘のマヤとともに分骨・埋葬されている。
〈赤土をあらわにした切通しが見え、小さな池の横を、木のまばらな林のなかにはいって行くと墓地があり、母と里子に出していて死んだ弟の墓石が、一族の墓域のはじっこのほうにあった〉と『死の棘』に記した福島県南相馬市小高区大井高野迫にある「島尾家之墓」は、建立者として弟義郎にならんで敏雄の名が刻されているばかりであった。
雑木林の中の墓地は薄ら寒く、陽は間もなく落ちようとしていた。紗のかかり始めた丘陵の里道は、サトウキビ畑の向こうに輝く黄雲の光をもらって、輪郭だけがくっきりとカーブを描いていった。
|