本名=吉田栄治(よしだ・えいじ)
昭和24年5月27日—平成13年10月21日
享年52歳(栄誉皎良居士)
名古屋市千種区平和公園 平和公園内墓地・延命院墓地
小説家。愛知県生。同志社大学卒。愛知県立高等学校の国語教諭となる。昭和63年『北斗』同人。平成5年『北斗』主宰木全円寿が、同人推挙により主宰となる。まもなく大腸がんのため入退院を繰り返す。著作集に『風来奇聞抄』、『風韻』、「エッセイ集『風来抄』などがある。

人里離れた山中で、酒壷をぶらさげた老人が、ゆったりとした足どりで庵から出てきた。満月の夜には月を愛でながら酒を嗜むのが、この老人の習いである。
酒の肴は老人が釣り上げる谷川の鮮魚だ。それに季節に応じた野草が添えられる。以前はわなを仕掛けて捕らえた野兎や野鳥も捌いたものだったが、近頃はめんどうになった。
酒は麓の村に一軒だけある酒屋まで買いに出る。足はまだ達者だが、往復すると一日はかかってしまう。だから、老人は酒がある限りめったに山を下りることはない。山を下りればついでに日頃使う物も調達してくるが、一人暮らしの小さな庵を営むのに、さはど必要なものはない。穀物と塩が少々あれば足りる。
老人がここに庵を結んで、もう五、六年にもなろうか。役人暮らしが長かったが、あの乱のあとさきに起こった宮中のごたごたに愛想をつかして、辞めてしまった。もとより微官なので捨てるに惜しい地位ではない。勤めにも倦んだ。
微禄とは言え長らく勤めたので、少々の蓄えはある。自分一人の暮らしぐらいは立てられよう。
勤めがないのに、都に住む必要もない。たしかに、街に住めば何かと便利ではあるが、喧騒に飽きた。どこか人気のないところで、息を引き取るのが、老人の望みであった。それなら誰の手も煩わさずに済む。
(孤影)
東海地方老舗の同人誌『北斗』の主宰者であった柴木皎良が2年7か月もの闘病生活に無念の終止符を打ったのは平成13年10月21日午前7時54分、日曜日の朝だった。
戦後まもなくの昭和24年9月、川島学、清水信、井沢純、木全円寿らによって創刊された『北斗』。木全円寿が病に倒れ、後を引き継いだ福岡早苗(木全夫人)もまた失って、三代目の主宰者として芝木が引き継いだ時には、すでに大腸がんという病魔に冒されていたのだった。
高等学校の国語教師の傍ら小説や随筆を発表しながら無名に生きた柴木の目前には、創刊500号という金字塔があったのだが、わずかの年月を残して遂に辿り着くことは叶わなかった。
お盆前のある日、名古屋市内の寺ごとに墓を集めた巨大な霊園は目映いばかりの光熱であふれ、有り余った陽は吹き上がって聖域の宙に留まっていた。豊山派延命院の墓域に「先祖代々之墓」、碑裏に小さく刻された後藤家、吉田家、山田家。南無遍照金剛と書かれた卒塔婆の「栄誉皎良居士」、滲んだこの墨痕のみが作家のよすがであった。
心してここまで来たのだが、私とこの作家を繋ぐものは何だろう?……合わせる手と額の汗に問うてみたところで確かな答えが出るはずもなく、時おりの微風に運ばれてくる香の匂いと涼やかな肌触りだけを死生の頼りとするばかりであったが、思いがけず近くに聞こえた読経に振り向くと、無彩色のひな壇を背景にいましも咲き始めた百日紅のピンクの花がいつまでも目に焼き付いてきた。
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