白井喬二 しらい・きょうじ(1889—1980)


 

本名=井上義道(いのうえ・よしみち)
明治22年9月1日—昭和55年11月9日 
享年91歳(寿量院殿白誉智景義道大居士)
東京都豊島区南池袋4丁目25–1 雑司ヶ谷霊園1種17号3側
 



小説家。神奈川県生。日本大学卒。大正13年『新撰組』『富士に立つ影』などの『新小説』連載で大衆小説家として知られた。翌年「廿一日会」を結成、機関誌『大衆文芸』を創刊。『坂田金時』『明治媾和』『怪建築十二段返し』などがある。







 「そんなに大きな目をして睨んで下さるな、ここまで飛んで来てこの私をスッパリ斬り倒したかろうが……私だって一生懸命だ、公太郎さん私一人斬ったってまだあの影法師が残ってます、あの影法師の正体を突止めるには、さっきもいった通り矢っ張りあなたのお父さんに聞くに限る、あなたのお父さんなら屹度思い当る節があるに違いありません」
 助一首を突出しながらこれだけの事を口早にいってのけると、一肩揺り上げて後に退ったのはこのままもう下山道を急ごうという考えか、見るとこっちの公太郎さっきの元気も無く、青いばかりに澄み切った顔色、化石のように一刀提げてズッとつっ立っていたが、その時カチンと刀を納めて、クルリと向うを向くと助一に一言も物をいず自分の方からサッサとこの場を立ち去って行った。
 「ほう」
 こうなると助一の方が却って果れて思わず足を止め公太郎の後姿を見送ったがもう身後に人有る事も忘れた如く、悠々とした足取りで草原踏み分けながら向うの木の間道に下りて行ってしまった。
 「ああじゃ今いった事が分ったのかな……物分りの悪いようで案外率直に人の言葉が分る、ああ一と月半も一緒に暮したがあの公太郎さんだけは本当にいい人だ、こっちも口惜し紛れとはいいながらあんな人を怒らせたのは私が悪かった……公太郎さん勘弁して下さい、いつかいつか、きっときっと、もう一度お目に懸って、今日の理合せはしますから……」
 今になって助一一生懸命で詫びている。
 人の値打はわかれた一瞬に光を増すものか。今更の如く助一は公太郎と起臥して来たこの一と月半ばかりの世の塵にまみれぬ不思議な率直生活をつくづく思って橋あらばこの谷渡って公太郎の後を追い縋らんとばかり懐しく思った。
                                                            
(富士に立つ影)



 

 私は今に至るまで、『新撰組』など大衆文学の草分け的存在だった白井喬二の作品を一冊も読んだことがなかったが、大正の時代、中里介山の『大菩薩峠』に並んで、大衆の喝采を浴びたというベストセラーの大作『富士に立つ影』を初めて読んでみた。冷酷無慈悲な「机竜之介」に比して、白井喬二の夢を託して創り出された純一無垢な自然児「熊木公太郎」、剣士としての強さが遂には悲運につながっても、弱きを助け、無闇に争わず、出世を望まず、超然とした生き方を私はうらやんだが、『富士に立つ影』は絶版になって久しい。
 昭和55年11月9日、茨城県竜ヶ崎市の次女寿子の婚家、横田宅で老衰のため死去した彼の冥福を祈ろうと思う。



 

 文芸の娯楽性を第一に、大衆娯楽小説の質的向上のために、直木三十五、江戸川乱歩らと「二十一日会」を結成し、『大衆文芸』を創刊。直木賞の選考委員、東京作家クラブ会長なども務めた白井喬二の眠るこの塋域には、「井上家之墓」が二基建っている。右にある一基は大正8年に夭折した長女須美子のために喬二が建てたもの。正面に建っているもう一基は、長男博が喬二の三回忌に建てたものだ。長女須美子、父孝道、母タミ、妻鶴子の横に喬二の戒名と没年月日、俗名、享年が刻まれ、建立者の博の名も2年後にその横に刻まれた。遮る樹木もなく、晒し置かれた墓石の供花に、季節はずれの弱々しいバッタが取りすがっている。



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

編集後記


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