下村湖人 しもむら・こじん(1884—1955)


 

本名=下村虎六郎(しもむら・ころくろう)
明治17年10月3日—昭和30年4月20日 
享年70歳(覚性院文園徳潤居士)
東京都板橋区赤塚8丁目4–9 松月院(曹洞宗)




小説家・教育家。佐賀県生。東京帝国大学卒。大学卒業後教員隣、佐賀県の中学校長、台湾の台北高等学校校長などを歴任。昭和6年教員を辞して上京。大日本青年団講習所長を務め、12年から執筆活動に入る。16年『次郎物語』を刊行し教養小説として好評を博する。ほかに『人生を語る』『論語物語』などがある。








 こう考えて来ると、人間の自由というものは一たい何だろう、とぼくは疑わずにはいられない。それは、円の中心から、自分の欲するままに、円周のどこヘでも進んでいけるというようなことでは、絶対にない。おそらく、円の中から円周に向かって、ほとんど重なりあうように接近して引かれた二つの線の間のスペースを、わずかな末広がりを楽しみに進んでいけるというに過ぎないのではあるまいか。もしそうだとすると、それは自由というよりも、むしろ運命とよんだ方が適当だとさえ、ぼくには思えるのだ。
 だが、ぼくはまた考える。もしもぼくが、そうした運命観にとらわれて、正しく生きるための努力を放棄するならば、ぼくは円周のどの一点にも行きつくことが出来ないであろう。ぼくにとって今大切なことは運命によってしめつけられた自由の窮屈さを嘆くことではなくて、そのわずかな自由を極度に生かしつつ、一刻も早く円周の一点にたどりつくことでなければならないのだ。ぼくには、このごろ、やっと一つの新しい夢が生まれかけている。それは、円周の一点にたどりつきさえすれば、そこから円周のどの点にも自由に動いて行けるのではないか、と思えて来たことだ。どんな偉人にだって運命はあった。かれらがその運命を克服して自由になり得たのは、運命の中のささやかな自由を大切にし、それを生かしつつ、円周の一点にたどりつくことが出来た時ではなかったろうか。ぼくにはそう思えて来たのである。

(次郎物語)



 

 昭和20年5月、戦災によって家屋を全焼、9月には入院中の愛妻菊千代を失った。かつて『次郎物語』を連載し、一時途絶えていた雑誌『新風土』を戦後復刻させ『次郎物語』第四部、第五部と書き続けたのだが、経営は苦しく、また自身の体調不良も重なり25年5月をもって休刊を余儀なくされた。29年10月3日、70歳の誕生祝い席上で、七十路を迎えた心境を詠んだ歌を近親者や『新風土』の面々に披露した二ヶ月後、宿痾の右手首カリエスが悪化して入院。療養につとめるも衰弱は日ごとに増していったが、完成した湖人設計の書斎に一日でもとの願いで30年2月に退院。4月20日午後11時2分、東京・新宿区百人町の自宅で脳軟化症と老衰のため死去。『次郎物語』は未完となってしまった。



 

 赤塚周辺をこよなく愛してよく訪れ、『次郎物語』の構想を練ったり、舞台にしたり、またその一部が執筆されたといわれる万吉山宝持寺松月院。「板橋十景」に数えられ、門前に板橋区天然記念物で樹齢百年の柊の巨木、五百年以上の歴史を持つ寺の境内には赤松など多くの樹木が陰翳を映し、静かなたたずまいを見せていた。終戦間もなく妻菊千代を亡くして〈戦後の十年は実に寂しかったよ〉と侘びしさを漏らし、死の前日の朝に「菊千代!菊千代!」と二度呼んだという下村湖人。本堂背後の広い墓地にある昭和26年9月次男覚建立の「下村家之墓」、墓誌に妻のその名と戒名、没年月日に並んで湖人の戒名、没年月日、俗名虎六郎と刻まれてある。



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

編集後記


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