本名=重兼芳子(しげかね・よしこ)
昭和2年3月7日—平成5年8月22日
享年66歳
東京都八王子市上川町1520 上川霊園2区6番193号
小説家。北海道生。福岡県立田川高等女学校(現・西田川高等学校)卒。昭和21年プロテスタント洗礼を受け、翌年結婚。朝日カルチャーセンターの小説教室で駒田信二に師事。昭和54年『やまあいの煙』で芥川賞を受賞し、主婦作家として話題になった。ほかに『平安なる命の日々』『平安なる命の日々』などがある。

「あんたとつき合っているうちに、やっとはっきりしたんだけど、おれの仕事は修行僧と同じなんだ。修行僧は妻帯しない方がいいんだ。骨になる人も、骨を拾う人も、どんな人も公平に扱わなければ、おれの仕事は成り立たない。少しでも迷いがあったら、気弱になったり不安になったりしている人たちに、つけこむことになりかねない。」
と敏夫が一言った。
「どういうことですか。」
正子はそう言って敏夫を見おろした。
「妻帯すれば妻を喜ばしたくなる。子供にも、うんとうまいものを食べさせたくなる。仕事を利用して、儲けようとするだろう。おれは特に意志が弱いから、もの欲しそうな顔になるだろう。あんたが好きだと言ってくれた顔は、妻帯したら消えてしまいそうな気がする。」
正子はかぶりを振って、
「そこまで分っているなら、決して敏夫さんは卑しい根性なんて起さないわ。」と言った。
「この仕事は、おれの裁量ひとつでどうにでも変えられる。おれの心の動き方次第なんだ。文句を言ってくる人はいないし、注文をつけるわけでもないのだ。おれ一生、求道者になったつもりで、この仕事続けるよ。」
敏夫はそれだけ言って、正子と別れた。ほんとうは、そんな決心をはっきりしているわけではない。房吉に塩を浴びせかけた母の姿が、どこかに焼きついていて、正子をつかまえようとする気塊が、なにかひとつ欠けるのである。
敏夫が扱う体は、なんの要求も出さないし、意志も持たない。全く一方的に敏夫の意のままになる。利用しようと思えば、どのような利用の仕方もできる。もし正子に塩を浴びせかけられるようなことが起ったとする。正子はそのようなことをする人ではないが、母の例がある。敏夫は正子を憎む代りに、ものを言えない、意志も現せない人たちを憎むようになる。そうなれば敏夫の仕事は完全に堕落する。焼き方を、上中並などに分けて、袖の下をもらおうとする。ていねいに扱っても、粗末に扱っても、相手は全く分らないのだから、焼き上りなどはどうでもよくなる。
敏夫はいろいろにこじつけて自分を納得させ、正子と会うのはやめようと、決心したのであった。
(やまあいの煙)
小説を書くときはいつも「人間とは、いったいなんだろう」と誰かに向かって呟いていたという重兼芳子。二歳の時、歩くのが余りに遅いと両親が医者に診せて分かったという手遅れの先天性股関節脱臼で幾度もの手術を受け、激痛に耐える生活を余儀なくされながらも、結婚後は主婦業に専念し、子育てが終わった後、カルチャースクールで作家駒田信二の指導を受け書き始めた小説、昭和五四年に『やまあいの煙』が芥川賞を受賞して、主婦作家として話題になった。キリスト教の信仰を元に老人やホスピスの問題にも積極的に取り組んできたが、平成5年8月22日午前7時46分、心不全のため宇都宮市内の病院で息を引き取った。
平成3年3月末に肝臓がんの告知を受けて札幌の大学病院に入院したすぐあとに夫が軽い脳梗塞の発作で入院。そのうえ芳子の大手術の三日後に〈無明の世界〉から還ってきた彼女には夫の急死という辛い現実が待っていた。聖ヨハネ会桜町ホスピスや「生と死を考える会」などのボランティア活動に関わり、「死」、「老い」「病」に関する著作を数多く書きながら二年半に及ぶ闘病生活の果て力尽きた重兼芳子。多摩丘陵の小高い丘にある霊園、安部公房墓碑の近くにあった「重兼/末松」とのみ刻された横型墓碑。夫の一周忌に建てた墓、〈丘の斜面を切り拓いた土地だから見晴らしがいい。それに前の森の緑が深いし、はるか向こうの紫色の山々は陣馬高原あたりだと思う。ここ、好きよ〉と言った場所に彼女も眠っている。
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