志賀直哉 しが・なおや(1883—1971)


 

本名=志賀直哉(しが・なおや)
明治16年2月20日—昭和46年10月21日 
享年88歳 ❖直哉忌 
東京都港区南青山2丁目32–2 青山霊園1種イ2号11側 



小説家。宮城県生。東京帝国大学中退。明治43年武者小路実篤らと雑誌『白樺』を創刊、同誌に『網走まで』『大津順吉』『清兵衛と瓢簞』『范の犯罪』などを発表。3年間ほどの沈黙ののち大正六年『城の崎にて』『和解』を発表。11年には名作『暗夜行路』前編、昭和12年後編を完成した。『小僧の神様』『万暦赤絵』などがある。







 自分は鼠の最期を見る気がしなかった。鼠が殺されまいと、死ぬに極った運命を擔ひながら、全力を盡して逃げ廻ってゐる様子が妙に頭についた。自分は淋しい嫌な気持ちになった。あれが本統なのだと思った。自分が希ってゐる静かさの前に、ああいふ苦しみのある事は恐ろしい事だ。死後の静寂に親しみを持つにしろ、死に到達するまでのああいふ動騒は恐ろしいと思った。自殺を知らない動物はいよいよ死に切るまではあの努力を續けなければならない。今、自分にあの鼠のやうな事が起ったら自分はどうするだらう。自分は矢張り鼠と同じやうな努力をしはしまいか。自分は自分の怪我の場合、それに近い自分になった事を思はないではゐられなかった。自分は出来るだけの事をしようとした。自分は自身で病院をきめた。
      
(城の崎にて)



 

 〈一滴の水である私は後にも前にもこの私だけで、何万年溯っても私はゐず、何万年経っても再び私は生れては来ないのだ。過去未来を通じ、永劫に私といふ者は現在の私一人なのである〉——。
 志賀直哉の「ナイルの水の一滴」という文章のごく一部分なのだが、太宰治や織田作之助が、直哉の一言に傷つき憤死した(芥川龍之介もその範疇に入るのかも知れないが)という説を信じたくなる文章だ。
 直哉の一生に真の不安や、苦悩はなかったのだ。もちろん文学にも。安定、即ち定位置をまず肝に据えて、そこに自分を置く、というよりも定位置そのものが志賀直哉であったのだから。曖昧さと不正確さを一番恐れた「小説の神様」は、昭和46年10月21日、東京・関東中央病院で肺炎により死去した。



 

 管理事務所のすぐ近く、霊園のメーンストリートを南下してすぐ左に入った所にある墓所は、幅20メートル奥行き3メートルほどもあり、かなり大きな敷地を要垣で囲まれていた。
 土庭は踏み固められて古民家の三和土のようであったが、横並びにずらっと十基、没落することのなかった一族の、確固とした墓石が鎮座してそれは壮観であった。直哉の墓は不仲であった(後に和解)父の墓とは少し離れ、右から二番目、東大寺上司海雲和尚の書になる「志賀直哉之墓」の文字が刻まれてあった。
 直哉の遺骨は、陶芸家浜田庄司制作の骨壺(生前砂糖壺に使って楽しんでいた)に納められ埋骨されたが、昭和55年、何者かに盗まれて以来行方不明になっていると聞く。



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

編集後記


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