本名=澁澤龍雄(しぶさわ・たつお)
昭和3年5月8日—昭和62年八月5日
享年59歳(文光院彩雲道龍居士)
神奈川県鎌倉市山ノ内1402 浄智寺(臨済宗)
小説家・評論家・仏文学者。東京府生。東京大学卒。アンドレ・ブルトンやジャン・コクトー、マルキ・ド・サドに傾倒。昭和29年訳書『大跨びらき』(ジャン・コクトー)を上梓。澁澤龍彦の筆名を初めて用いた。36年サドの『悪徳の栄え』の翻訳で裁判の被告となった。『唐草物語』『高丘親王航海記』などがある。

親王はなにかを求めて、ひたすら足をうごかしていた。なにを求めているのか、なにをさがしているのか、自分でもよく分らないところがあった。そしてつらつら考えてみると、自分の一生はどうやら、このなにかを求めて足をうごかしていることの連続のような気がしないでもなかった。どこまで行ったら終るのか。なにを見つけたら最後の満足をうるのか。しかしそう思いながらも、その一方では、自分の求めているもの、さがしているものはすべて、あらかじめ分っているような気がするのも事実であった。なにが見つかっても、少しもおどろきはしなかろうという気持ちが自分にはあった。ああ、やっぱりそうだったのか。すべてはこの一言の中に吸収されてしまいそうな予感がした。
(高丘親王航海記)
マルキ・ド・サドの翻訳家、また翻訳『悪徳の栄え』における裁判や三島由紀夫の盟友としても知られている澁澤龍彦。耽美、偏愛、などを標榜し「快楽主義者」として自分流のスタイルを公私ともに貫き通した。
昭和61年9月、以前から悩んでいた喉の痛みのため、慈恵会医科大学附属病院にて診療、下咽頭がんはすでに進行しており即入院手術となった。気管支切開のため声を失うが、病床になれてからの彼は、真珠を呑んだせいで声を失ったという見立てで「呑珠庵」と号し、また、「無聲道人」を名乗った。
その後も病は進行するばかりで、『高丘親王航海記』を完結した4か月後の昭和62年8月5日午後3時35分、読書中に頸動脈瘤破裂によって死去した。
北鎌倉にある浄智寺は鎌倉五山の一つ、古刹である。どういう経緯でこの寺の墓地に澁澤龍彦の墓が建てられたのかは不明だが、自宅が北鎌倉にあって、残された龍子夫人が住まわれているとのことだから、参詣しやすいところでということかもしれない。堂裏の墓地、春には眼前の桜の老木に爛漫と咲く花を眺められるようにと建てられた墓塔は、冷気をまとった寺の懐にある。
樹木のおおかたは裸になっていて、赤や黄などの葉が色とりどり、背後の石垣の間にモザイク模様の吹きだまりをつくっていた。生前から互いに約束していたものであろうか、並びには良き理解者であった評論家「磯田光一」の墓があった。
——〈幸福より快楽を‥‥〉。
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