島崎藤村 しまざき・とうそん(1872—1943)


 

本名=島崎春樹(しまざき・はるき)
明治5年2月17日—昭和18年8月22日 
享年71歳(文樹院静屋藤村居士)❖藤村忌 
神奈川県中郡大磯町大磯1135 地福寺(真言宗)



詩人・小説家。岐阜県生。明治学院(現・明治学院高等学校)卒。明治26年北村透谷らと『文学界』を創刊。『若菜集』『一葉舟』『夏草』『落梅集』などを刊行。39年『破戒』、次いで『春』『桜の実の熟する時』、大正5年パリから帰国後『新生』を発表。昭和4年から『夜明け前』を『中央公論』に連載。『千曲川のスケッチ』などがある。







 短い冬の日は何時の間にか暮れかゝって来た。もう二度と現世で見ることは出来ないかのやうな、悲壮な心地に成って、橋の上から遠く眺めると、西の空すこし南寄りに一帯の冬雲が浮んで、丁度可懐しい故郷の丘を望むやうに思はせる。其は深い焦茶色で、雲端ばかり黄に光り輝くのであった。帯のやうな水蒸気の群も幾條か其上に懸った。あゝ、日没だ。蕭條とした両岸の風物はすべて其の夕暮の照光と空気とに包まれて了った。奈何に丑松は「死」の恐しさを考へ乍ら、動揺する船橋の板縁近く歩いて行ったらう。 蓮華寺で撞く鐘の音は其時丑松の耳に無限の悲しい思を傳へた。次第に千曲川の水も暮れて、空に浮ぶ冬雲の焦茶色が灰がかった紫色に變った頃は、もう日も遠く沈んだのである。高く懸る水蒸気の群は、ぱっと薄赤い反射を見せて、急に掻消すやうに暗く成って了った。

(破戒)



 

 木曽の馬籠村(現・岐阜県中津川市)で代々本陣や庄屋を務めた家に生まれたが、父親と長姉は狂死した。四女を出産後死んだ最初の妻冬子、栄養失調で死んだ三人の娘たち、あるいは教え子で病死した佐藤輔子、姪のこま子との近親相姦など多くの近しい人々を失い、犠牲にしながら文学者として大成した島崎藤村。
 71歳の正月から最後の長編小説『東方の門』を『中央公論』に連載しはじめた。しかし8月21日、第三章執筆中、脳溢血の発作で倒れた。「涼しい風だね」との言葉をのこして昏睡状態に陥り、翌日午前0時35分、大磯の自宅で息を引き取った。
 遺体は遺言によって大磯地福寺に土葬され、遺髪・遺爪は郷里の木曽・馬籠永昌寺に分葬された。



 

 藤村の暮らした大磯の旧宅近くにある地福寺崖下の老梅に囲まれたこの塋域は、藤村が生前から希望していた場所でもあった。
 本堂前の特別席、梅花を独り占めする気ではないかと思えるほど絶好の塋域、二つに区画された中にそれぞれ藤村と主宰した婦人文芸雑誌『処女地』同人だった24歳年下の二番目の妻静子の碑、谷口吉郎設計・有島生馬の筆による台石に細い石柱を立てただけのシンプルで瀟洒なこの墓碑を見やっていると、良くも悪くもいかにも藤村らしいな、という感がする。
 親友田山花袋の死期近い枕元で「田山君、死んでゆく気持ちはどうだね」と問うた本意は如何だったのだろうかなどと、ふと思ってみたりもした。



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

編集後記


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