司馬遼太郎 しば・りょうたろう(1923—1996)


 

本名=福田定一(ふくだ・ていいち)
大正12年8月7日—平成8年2月12日 
享年72歳(遼望院釈浄定)❖菜の花忌
京都府京都市東山区五条橋東6丁目514 西本願寺大谷本廟新勧学谷・南谷1段中部264–1(浄土真宗)



小説家。大阪府生。大阪外国語学校(現・大阪大学)卒。昭和18年学徒出陣。32年『近代説話』を寺内大吉等と創刊。『梟の城』で34年度直木賞受賞。『龍馬がゆく』『国盗り物語』『坂の上の雲』『空海の風景』、紀行随筆に『街道をゆく』などがある。







 近代以後の日本の文学者が、西洋の小説を読み、読みおえてから小説を書きはじめたことは、いうまでもありません。ただ日本には「絶対」という思想、慣習、あるいは日常の気分がなかったということが、決定的に不利でありました。日本に存在しつづけてきたのは、すみずみまで相対的世界でした。神道、山々や谷々の神々、あるいは仏教という相対的世界を最初から是認した思想。山々や谷々の神々が神遊びをするように、神遊びとしての目本特有の私小説がうまれても、絶対という大うそを、つまり絶対という「神」---これは聖書の「神」のことですが---という思想、又は文学的思考----大文字のGodと同じ次元での大文字のFiction---を中心にすえるという習慣は、日本においてはカケラもありませんでした。いうまでもありませんが、〝あの部分はフィクションです〟という意味の虚構ではありません。神が絶対なる、ごとく、同じ意味における絶対の虚構のことであります。むろん、絶対などは、この世にありはしません。宇宙にも、科学の中にも、存在しないのです。
 しかしある、と西洋人は、千数百年をかけて自分に言いきかせつづけました。絶対、大宇宙の神は存在する、うそではない、ということを、哲学として、神学として、論理をきわめ、修辞をきわめ、思弁のかぎりをつくして説きに説きつづけてきたのです。ヨーロッパの荘厳さというべきものであります。

(開高健への弔辞)



 

 中国古代史家・司馬遷には遼に及ばないとつけたペンネーム『司馬遼太郎』。紛うことなき国民的作家である。そのたぐいまれな独創性、着眼点は「司馬史観」と呼ばれて支持され、もてはやされた。歴史はもとより、自然や芸術、死生観を含め日本とは何か、日本人とは何かを絶え間なく問い続けた作家であった。
平成8年2月10日午前1時前、東大阪市の自宅で吐血し、国立大阪病院に入院。9時間あまりに及ぶ大手術も甲斐なく、12日午後8時50分、腹部大動脈瘤破裂のために死去する。みどり夫人は読者宛にメッセージを発表した。
 〈司馬遼太郎はいつもいつも、この国の行く末を案じておりました。どうぞ、ぜひ、この気持ちをお酌みください。〉



 

 『徒然草』にも記された平安時代からの葬送の地洛東鳥辺野。親鸞の墓所大谷本廟のある西大谷から清水寺西南山裾に広がる圧倒的な墓石群に足下が竦んでしまった。
 親鸞の遺骸を火葬したという御荼毘所あたりを右折、細道を下っていくと新勧学谷の狭い墓域が見渡せる。奥まったところに座した「南無阿彌陀佛」の碑、側面に主の筆名、俗名、法名、没年月日がある。墓を造るなら新聞記者として青春時代を過ごした京都にと、没後2年を経て夫人が建てた司馬遼太郎の鎮まるところ。見上げたところを走る高速道路の騒音に、谷底を流れる音羽川の川音も聞こえず、川向こうの森から届いてくる鳥の鳴き声も、極楽浄土に住むという迦陵頻迦にほど遠いが、「空」という絶対の場に風を聴く作家にとって、なんの痛痒があろうか。



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

編集後記


墓所一覧表


文学散歩 :住まいの軌跡


記載事項の訂正・追加


 

 

 

 

 

ご感想をお聞かせ下さい


作家INDEX

   
 
 
   
 
   
       
   
           

 

   


    椎名麟三

    志賀直哉

    重兼芳子

    獅子文六

    柴木皎良

    芝木好子

    柴田錬三郎

    芝 不器男

    司馬遼太郎

    澁澤龍彦

    渋沢秀雄

    島尾敏雄

    島木赤彦

    島木健作

    島崎藤村

    島田清次郎

    島村抱月

    清水 昶

    清水澄子

    子母沢 寛

    下村湖人

    庄野潤三

    白井喬二

    素木しづ

    白洲正子

    白鳥省吾

    新村 出