白洲正子 しらす・まさこ(1910—1998)


 

本名=白洲正子(しらす・まさこ)
明治43年1月7日—平成10年12月26日 
享年八八歳 
兵庫県三田市西山2丁目4–31 心月院(曹洞宗)



随筆家。東京府生。聖心語学校(現・聖心インターナショナルスクール)中退。昭和4年白洲次郎と結婚。能に造詣が深く、青山二郎や小林秀雄の薫陶を受け骨董を愛し、日本の美についての随筆を多く著す。『能面』、『かくれ里』でそれぞれ読売文学賞を受賞。『世阿弥−花と幽玄の世界』『十一面観音巡礼』『西行』『両性具有の美』などがある。







 「人みな生をたのしまざるは死をおそれざる故なり」と兼好法師はいいました。たのしみを快楽、おそれるをこわがる意に解したら反対になるが、生きるという肯定面は、信念として否定の形においてしか掴めない。実存主義者が何故自殺しないかと疑えるのも、およそ実存なるものを徹底的に証明するなら最後のとどめまで刺してみない事には解らない、人間のはじめと終りの「中間」ばかりいくら集めてみても何も得られないと思ったのです。
 ボーヴォワールの豊かな体験に比べて、私は今まで何一つやった事がない、四十年は夢でもなかった事に気がつきます。ただところどころピリオドを打つように、一瞬目を開けたことがある。それは何度か病気で死にかけたことで、それだけを元にして云えることは、——この一大事について多くの言葉が費されるのも元気な人達だからこそ言えるので、本人にとっては何でもない。「あのまま死ねたら楽だろう」と経験者は必ず言いますが、それ程カラッとした、端的な事実にすぎない。この事はフローベルが「マダム・ボヴァリイ」の死ぬ場面をどんなにあっさりした手つきで取扱っているか。事件というのはそんなもので、単に「経験」ということをいうなら、死ぬ程の大事件さえ何程のものでもないと思うとき、人間の想像力がどんな物でもつくりかねない事に驚きます。ですからこういう考え方も出来る。——死という概念はある人間の思想の源泉になるかも知れないが、兼好は死ぬことの容易さに比べて真に生きることの難さを説いているのです。それは紙の裏表のようにすぐ傍にあって、明日にも今にも来かねまじい、と知ればこそ現在のひとときは大切ではないか。
                                                         
(第三の性)



 

 青山二郎や小林秀雄といった強烈な個性の面々に手厳しく揉みに揉まれながら日本の美を求めて、触れ、歩き、書いてきた白洲正子は、平成10年12月26日午前6時21分、肺炎のため幽界に旅立った。
 〈凡そ世の中のあらゆるものを「虚妄」と観じ、虚空の如き心をもって俯瞰するならば、そこには虚も実も存在しない〉と表現した彼女には、晴々と幽界に帰ったといったほうが正しいかもしれない。
 詩人辻井喬の「もし、あちらでお会いになるとしたら、どんな人に会いたいですか」との問いに、言下に「西行よ」と答えたという。彼女が、満開の花の下で西行に会い、西行に問い、西行と一になった境地を思うと、私も少し幸せな気分になる。



 

 港町神戸の背後、六甲山系の裏側に位置する清涼山心月院は思いの外、透明な時空の中にあった。
 ゆるやかに孤を描いた竹林の笹擦れは心地よく、風は一筋の道をのぼっていく。三田藩主九鬼家の墓所、漆喰塀のさえぎるところ、気のたゆたう野の原が現れた。アザミや蓮花、数本の桜木、整然と立ち並ぶ碑の数々、夫白洲次郎の母が県下に分散していた墓を一つにまとめ改葬したという白洲家墓地がここにある。
 小判形に石を並べ、わずかな土盛りをした上に二基の五輪塔板碑、正子が次郎の死後、自ら図案し、知り合いの植木職人や石工に頼んで造ってもらった墓だ。右が夫次郎、左が正子の碑である。それぞれに不動明王と十一面観音の梵字が彫られ、巡礼道行の影法師のように直立している。



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

編集後記


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