本名=岩田豊雄(いわた・とよお)
明治26年7月1日—昭和44年12月13日
享年76歳(牡丹亭豊雄獅子文六居士)
東京都台東区谷中7丁目5–24 谷中霊園甲9号22側
小説家・劇作家。神奈川県生。慶應義塾大学予科中退。大正11年演劇研究のため渡欧。帰国後、昭和12年岸田國士、久保田万太郎らと劇団「文学座」を創立。昭和11–12年最初の新聞小説『悦ちゃん』で好評を得る。『胡椒息子』『信子』『海軍』『てんやわんや』『自由学校』『娘と私』『大番』などがある。

しかし、今度の病気から、そうはいかなくなった。ちょいと四、五町の距離を歩いても、すぐ疼痛が始まるし、最初、病気の正体のわからなかった頃に始まったノイローゼが、少しもよくならず、毎日鬱々として、愉しまない。久しく眠ってた、自殺の誘いが頻りだが、せっかくここまで、生きてきたのだから、そして、自然死も遠くないのだからと、辛抱してる。しかし、痛みは、体を動かさなくても、コルセットをはめた圧痛で、襲ってくるし、すると、すぐ、病気のことを考える。動脈瘤が破裂したら、どんな苦痛を味うのかとか、いや、そんなことを考えて、ビクビクしてるより、今すぐ、襲来してくれぬかとか---
これでは、悠々自適は覚束ない。私が今置かれてる運命は、安心立命に遠い。もっとも、時々、昔、何とかいう海軍の古手の爺さんが、唱えてたように、後も先きも考えるな、今日只今ありがとう、という気になれば、試練に勝つことはわかってる。私の置かれた運命は、セッパ詰ってるから、もう一飛ぴで、そこへ行けるかも知れないと、欲が出る時もあるが---
(牡 丹)
昭和12年、岸田國士、久保田万太郎らと劇団文学座を結成する傍ら、独特の機知と風刺を持ったユーモア小説によって親しまれたのだが、実生活では演劇を学ぶために渡仏した先で娶った最初の妻マリーは精神を病み病死、二番目の妻シヅ子も44歳で病死するなど不幸がつづいた。とうとう三人目の妻を娶ることになってしまうのであったが、晩年の文六は死に対しても率直であった。〈病気の正体を知ろうとしたり、行き先を予測してみたりしても、何になるのか。要するに、私は苦しみ、そして死ぬ---それだけのことだ〉
——昭和44年11月3日文化の日、文化勲章を授けられたが、そのおよそ一か月後、赤坂の自宅で死去。おそれていた動脈瘤破裂ではなく脳出血のためであった。
獅子文六のペンネームの由来が「四四=十六」のもじりであるとか、「文豪」の上を行くから「文六」だとかいう伝説のような話がある。つきあいの深かった徳川夢声は「フランス仕込み」の牡丹亭(号)と呼んで親しんでいたという。
墓参に訪れたのは真夏日のこと、方向音痴というわけでもないのに、自分の居場所がわからなくなるほど入り組んだ迷路道。たまらずに木陰で涼をとった。一息ついた視線の先、前の碑に隠れて見えなかった墓石が目に飛び込んできた。ひょっこりと建つ「岩田家之墓」、この小さな墓に故人の名はない。板塔婆の「牡丹亭豊雄獅子文六居士」の文字のみが故人を偲ぶよすがであった。墓原の詣道、跳ね返る陽炎が意外なほど優しい湿気を含んで私を包んでくれた。
|